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どこかでながれる、だれかのじかん

僕は「日常系」と呼ばれる作品が好きだ。漫画でもアニメでもライトノベルでも僕は日常系作品を好きでよく見る。他ジャンルももちろん大好きだけど、「日常系」作品には格別の思い入れがある。

いや、格別の思い入れなんてないのかもしれない。一人で何言ってんだコイツ、怖、と思われるかもしれないが、我慢して聞いてほしい。「格別の思い入れがなくとも楽しめる」ということがある種「日常系」の強みではなかろうか、と思うのだ。

どういうことか。

例えば「刃牙シリーズ」。大好きだ。僕の中ではもはや人生のバイブルと化している。野人戦争編の「空手家 愚地克巳 21歳の夏…… 灼熱の時間(とき)--」は僕の中の漫画ベストシーンまである。

だが、刃牙には「今日は刃牙じゃねえな」という日がある。これは決して批判ではない。批判ではないのだが、「刃牙を読める状態じゃない日」という日は確かに存在する。刃牙風に言うなら"存在る(ある)"。

対して、「日常系」はどうか。「ご注文はうさぎですか?」を例にしてみよう。(ここは別になんだっていい。あなたの好きな日常系作品を当てはめてみて欲しい。)

「ご注文はうさぎですか?」はウサギが出没する木組みと石畳の街の喫茶店で働く女の子たちの日常を描いた作品だ。キャラクターたちの交流がほぼ100%を占めている。ちなみにシャロが好きです。大事件や大冒険はないのだが、それがいいのだ。ずーっと他人の生活の楽しい部分や面白い部分のハイライトを眺めていられる。そしてその生活を送る女の子たちは可愛い。もはや言うことはない。

そして、重要なポイントは「楽しむのに体力を要さない」ということだ。「刃牙」シリーズは楽しむのに体力がいる。漫画見たりアニメ見たりするのに体力いるわけねーだろアホか、と思われる方もいるかもしれないが、これが要るのだ。胸が熱くなるような闘い、一瞬先も読めない展開、敗北、接戦、逆転劇!カタルシス!脳内物質!

疲れる。いや楽しいけど。

激しい作品はやはり見ているこちらの心の動きも激しい。消耗するのだ。きっと「読後感の心地よさ」はここから生まれるのだろう。だがそんなものを欲さない日もある。

対して「日常系」作品は、確かに読後の爽快感なんてない。しかし、そのかわり覚悟も体力もいらない。帰宅後、とりあえずAmazonプライム・ビデオを開き、話題の「バチェラー・ジャパン」を横目に「ごちうさ」をタップし視聴する。そして見ているとじんわり元気が出てくるのだ。

彼女たちと僕の時間は永遠に交わらない。彼女たちは木組みの街での時間を、僕は僕の時間を、それぞれ過ごしていく。だがそれでいいのだ。当然だが、シャロは僕の嫁にもママにもならない。ただ、貧しいながらも健気にアルバイトに励み、友人に振り回されても一生懸命で、時々不器用だけど人情に厚いシャロを見て元気をもらうことはできる。シャロを思うことによって僕の中からエネルギーが湧いてくる。何処かで流れている誰かの時間を想う。そうしている僕は、きっと見えない手で優しく背中を叩かれているのだ。

これこそ「日常系」の強みではないだろうか。タイミングを選ばず楽しむことができ、癒しと少しの元気をもらうことができる。

「劇場版ご注文はうさぎですか??〜Dear My Sister〜」のブルーレイを購入し、そんなことを思った。

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