珈琲が好きなのかを考えて枝葉を伸ばす。

珈琲が好き。
味や入れ方にこだわりや探求心はそんなにない。
それでもせっかく好きだから深めたほうがいいのではと、いろいろコーヒー屋を試した見たり、レギュラーで入れたり、豆を挽てみたりはする。ただ、インスタントコーヒーのがぶ飲みでも満足度はそこまで変わらない。
なんならインスタントコーヒーは、雑にたくさんしかもアツアツで飲めるからインスタントコーヒーだからこその良さもある。

好きなものをこだわらねば探求せねばって思ってしまうのなんだろね。好きなことを発信したり、何かしらのクリエイティブにつなげることが盛んにされるようになって、好きは昇華してこそみたいな考え方が流通するようになった。私もせっかく毎日これだけ珈琲を飲んでるってことは珈琲が好きだってことだろうし、その好きを昇華せねばもったいないと思ってしまった。
ほんとにもったいないって思ったのか?前提に自分に面白いこと(とこ?)がなさ過ぎて、面白いこと(とこ?)を生み出したいというのがある。その手がかりの一つとして珈琲が好きであるかのようにでっち上げたっぽい。特化した好きがあるほうが面白いもんだと短絡的に考えている。その考え方はあまり好みではないけど、それに現在進行中で囚われている。だから、珈琲が好きと言うたびに少しざわつく。私は珈琲が好きなのか。

似たような感じで映画が好きだけど、映画への好きの在り方が今グラグラしてる。映画は見るの楽しいし、見たい映画は尽きない。でも強迫観念のように「好きならばたくさん見ねば」「時間があるのに見ないのならほんとに好きなのか」みたいな考えがよぎる。それ由来で映画を見ようとするたびに少し心がざわつくし、純度100%で楽しめなくっているところ。
この「好き」の扱い方や捉え方に対するいろんな人の意見を見過ぎて、自分の「好き」をどうしたらいいのかグラグラしてる。
「好き」に限ったことではなく、いろんな人の意見や言葉を見過ぎて、自分の気持ちや考えが濁ったりブレーキがかかる。

今回考えたことのなんか嫌なところは、
・自分のことを面白くない(ユニークでない)と感じていて、面白くなりたいという呪い
・どこかから持ってきた誰かの考えにとらわれている。
だな。
自分の純度下がってるな。思春期みたいな状態で嫌だな。こういう嫌なところがカサブタみたいになってて、剥がしたいけど血が出るからあんまり触りたくない。それも自分の幼さにようだから、いっそ剥がしたい。

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