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目の前のありのままを

娘(1歳)の喃語が進化して、かなり複雑な音を奏でるようになってきた。

喃語とは、乳児が発する意味のない声。言語を獲得する前段階で、声帯の使い方や発声される音を学習している。 最初に「あっあっ」「えっえっ」「あうー」「おぉー」など、母音を使用するクーイングが始まり、その後多音節からなる音を発声するようになる。この段階が喃語と呼ばれるものであり、クーイングの段階は通常、喃語に含めない。
(ウィキペディアより引用)

(これを読んで、初期のは喃語って言わないことを知った。へーーーーー。)

そして、その娘の出す音を真似してオウム返しすると娘がニヤっとしてくれるのが嬉しくて、二人で過ごす時間の遊びのひとつになっている。

いや、オウム返しとは書いてみたものの、娘の音を完全に真似することが出来ているかというと、自信がもてない。
「あっとぉぃとぉぃとぅぃ」「ゔだっだっだ」、、、と、どんな音なのか伝えたくて文字に起こしてみようとしけれど、なんか違う。
その音を時間が経ってから再現しろと言われても出来ないし、憶えていられない。そのときだけの刹那的なやりとりだ。

−−−なんで、うまく真似も再現も出来ひんのやろう?

そう考えていたら、ひとつの解にたどり着いた。

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普段私が口にしているのは、日本語だ。基本の50音+αで成り立っている音の羅列だ、と捉えることも出来るかと思う。
だからその50音+αの中にある音は再現するのが簡単だけれど、それ以外の音は再現するのには慣れていない、ということなのではないかと思うのだ。

例えば娘がプラスチックと金属っぽいものを両手に持って打ち鳴らしたとしよう。そうすれば私は「カンカンカンカンって音がするねえ」と話しかける。
散歩をしているときに犬に吠えられれば、目を見開いてそれを凝視する娘に「ワンワンおるねえ」と声をかける。
祖父母宅から帰るときには、手を振りながら「おじいちゃん、おばあちゃんバイバイ」としているところを見せる。
食事の時に座ったハイローチェアからスプーンが落ちれば「ああ、落ちちゃったねえ」と一緒に下を向いて見る。

その他にも周りの会話を聞いていて、その積み重ねで彼女は私達の発する日本語という音の羅列に意味があることに気がつき、動物や植物などあらゆるものの固有名詞や、それぞれの場面での挨拶、ものの状態が変わることを表す言葉などを少しづつ覚えていくのかな、などと推察する。

それはまた【喃語】としてたくさんの音を発していた彼女が、【日本語】という50音+αの発音になり日本語という枠組みの中にはまっていく過程、とも言えるのではないだろうか。

逆に言うと、喃語はものすごく複雑な多くの音で構成されている。だから私が若かりし日に、「出来ない…」と苦労した英語の発音なんかも、今の彼女にはお手の物なんじゃないかと思えるのだ。
【喃語】なんてシュッとした言葉におさめておくのは勿体無い気がして、【ハイパーサウンドクリエイター】とかなんとか、もっと可能性を感じさせる表現はないものか、などと思いを巡らせてしまう。

その枠組みを知ることは、世の中でコミュニケーションをとる上では必要になってくるので、獲得して欲しいなと願ってはいる。
だけどこんなにも可能性が無限に広がっているような状態をみていると、枠にはめることが惜しくも感じられてしまう。

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ところでTwitterにも書いたのだが、我が家で珍事件が起きた。

先日、夫婦二人分の歯ブラシが忽然と姿を消したのだ。その前日に実母が手伝いに来てくれていたので、我が家の状況を見かねて水回りの掃除でもしていってくれたんやろうか…?などと考えていた(今考えれば、そんな勝手なことはしないんやけど)。

ところがまた昨日の朝になって、新しくしたばかりの歯ブラシが消えた。
むむ…これは…と思い、息子(3歳)に訊ねてみると、「ああ、あそこだよ」などと言うではないか。
とりあえず当てをつけて洗面台の隣の洗濯機の後ろや、洗面台の下の棚の中を探してみるけど一向に見つからない。

仕方なくEテレに夢中の息子に懇願して、歯ブラシの在り処を教えてもらう。
すると…
なんと!排水口の網状の部品(ゴミや髪の毛を取るやつ)を取り出し始めるではないか…!!
中を覗いてみると歯ブラシの頭が3つ、小さな穴の中にギッシリとお行儀よく並んでいるのが見えた…。

ちょうど上記の喃語の部分をnoteに書いているところだったので、息子に「おとうちゃんおかあちゃんが困るから辞めてな」と諭す一方で、「ああ、もう、全然枠にはまってないから出来る行動やな…」と思い笑ってしまった。
歯ブラシを隠してみたいと思ったのか、排水口の長さがどんなもんか気になったのか、はたまたここにいい片付け場所があるやんと思ったのか。
訊いてみたけど答えは返ってこなかった。息子の頭の中でなにがどうなってこうなったのか、想像してもたいした答えの出てこない自分が口惜しい。

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言葉ひとつとってもそうだし、法律や、交通ルールや、、、細かいところでは家族の中での決まりごと、もっと言うと個人の価値観も含め、そういうたくさんの枠組みがあることで、社会は成り立っている。
家庭でその枠組みを伝えていくことが、躾のいち側面であり、子どもの素地を作るものであり、これから社会で生きていく上では大切なものになるだろう。

だけどその私には当たり前の枠組みにはまらずにいる様子がなんとも愛おしくて、いろいろなものに囚われがちな私は羨望の眼差しで彼らを見つめている。
出来ることならその枠に囚われない姿をまだまだ見せて欲しいなあ、なんて思うし、どうしてもと思うところがあるのなら意志に反して折り曲げて欲しくないな、とも思うし、冷静に考えられる今なんかはもっとやれ!とか思っている。

でも、基本的には遅れずに成長していって欲しいと願っているし、意外性のある行動にはすぐ怒ってしまうのも、また事実。常識とか正しさとか、自分の枠の中についつい当てはめようとしてしまう。
まあ、自分の心とも葛藤しながら、しんどくならない程度に。ガチガチに枠にはめることを考えるよりは、目の前の子のありのままを受け入れられたら、なんて今は思えているので、心に留めておこう。

ここまで読んでくれたあなたは神なのかな。