たいやきくんの悲哀

台所でおにぎりを握っていたら、ふと「およげ!たいやきくん」の歌が口をついた。歌詞を引用するといろいろややこしそうなので割愛しておくが、最初のフレーズを歌い出したとき、私は強烈な違和感を覚えた。

この歌は、主人公であるたいやき(おそらくタイトルのたいやきくんがそれであろう)のモノローグの形をとっている。そして、彼は「毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれている」という旨のことを言っている。

はたして、そんなことが可能なのだろうか。

たいやきはたしかに焼いて完成する。しかし、そこに至るまでは、カワとアンである。つまり、たいやきではない。その日焼かれようとしているたいやきくんは、当日あるいは、せいぜい前日ぐらいにたいやきの形に整形されたのだろう。なぜ彼は毎日「ぼくたち」(この場合はおじさんのお店のたいやき)が焼かれているという事実を知っているのだろうか。

たいやきがたいやきとして整形された後、たいやき的世間話でそうした情報がやりとりされるのだろうか。それにしては、彼のぼやきは切実である。「いやになっちゃう」という言葉は、強い実感を持って語られている。

とすれば、たいやきは集合意識体なのだろう。集団的意識と言ってもよい。つまり、個のたいやきであるとともに、「おじさんのお店のたいやき」という意識もまた共有されているのだ。まどか☆マギカのキュウべえみたいなものを思い浮かべてもらうとよい。

だから、彼はたいやきとして生まれた瞬間に、過去のたいやき的歴史もまた共有することになった。彼のぼやきには、積年のたいやき的うらみが込められているのだ。

たいやきくんは、一個のたいやきであり「おじさんのお店のたいやき」でもある。いやむしろ、彼だけが個体としての自我を獲得してしまったのかもしれない。集合的意識に発生したエラー的存在こそが、たいやきくんなのだ。だからこそ、彼はおじさんと喧嘩してしまった。

「おじさんのお店のたいやきは、たしかにおじさんに焼かれて売られていくのが宿命なのかもしれない。でも。僕は僕なんだ。僕は自分らしい生き方をしたい」

そういって彼は屋台を飛び出し、海に逃げ込んだ。個性の獲得は、集団からの別離を生む。よくある風景だ。

海の中で暮らす彼は、危険を伴いながらも充実した生活を送っているように思える。外敵に襲われたり食糧に貧困することはあっても、広大な海を自由気ままに泳ぐ姿は、まるで自我そのものの体現であるかのようだ。

しかし、現実は残酷である。

彼はその貧困から釣り人に囚われてしまう。

そしてその釣り人は、おじさんであった。もちろんたいやき屋のおじさんとは別人である。しかし、私たちにとってマグロに個性がないように、たいやきにとってもおじさんにたいした違いはない。そこにあるのは、おじさんというただの記号的存在だけだ。

最終的に彼はおじさんの胃に呑み込まれてしまう。ほかのたいやきたちが辿ったであろう運命をなぞってしまう。あらかじめ決められたシナリオみたいに。たいやきは、どこまでいっても、どれだけ個を獲得したとしても、たいやきであることからは逃れられないのだ。

ならばいっそ、個の獲得などしなければよかったのではないか。安寧に鉄板の上で焼かれ、たいやき屋のおじさんと、それを買うおじさんのwin-winの材料として使われていればよかったのではないだろうか。

そうではないだろう。

どれだけ最終的にたどり着く場所が同じであるとしても、いやむしろ、私たちにはどうしたって逃れられない終着駅が共通してあるからこそ、その過程こそが意味を持つのだ。

たいやきくんは、おじさんの胃に呑み込まれる前に、自身がたいやきであることを呪いながらも、いくばくかの納得を持っていたのではないだろうか。彼の走馬燈に浮かんでいたのは、きっと海の中で暮らしたエキサイティングな日々だったはずだ。鉄板の上で安寧と焼かれていた集合的意識の記憶ではなかったはずだ。

もし「生きる」ということに意味があるとすれば、おそらくはそういう記憶の集まりではないだろうか。

みたいなことを考えていると、あっという間にお昼の休憩時間は終わってしまう。

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