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第八回:「脳だって体の一部です」

前回「MP」という考え方が登場しました。本連載のタイトルにも出てくる言葉です。

少し遅くなりましたが、今回はMPについて書いてみましょう。

皆さんは、たぶんMPと聞いて、ぱっと思い浮かぶイメージがあるのではないかと思います。

魔法使い的なジョブがあり、彼らが呪術的なものを行使したときに減少するパラメータ。

本連載で使うMPもそんなアバウトなイメージでOKです。よって、MPが何の略なのかは決めません。マジックポイントやメンタルパワーなど、各々好き勝手に解釈してください。本連載では単にMP(エムピー)と呼びます。

何も特別なことを言っているのではありません。人間の脳はさまざまに働いていて、その働きは無限ではなく、有限である、というだけの話です。その有限性を示すシンボルがMPという概念です。

おそらく脳神経学的に議論が活発でしょうから、ここでMPが具体的に何を指すのかを探究したりもしません。つまり、神経レベルの話は考えません。単にその結果として表れてくる事象だけに注目します。

そんなあやふやなもので大丈夫なのかと思われるかもしれませんが、私たちは日常的に「体力」という言葉を同じように使っています。

「体力」は、さまざまな要素(持久力や瞬発力)などから構成され、さらにそれぞれは複数の筋肉やらなんやらの精密な動きから発生しているわけですが、私たちはそんなことを精緻に理解したりはしていません。それでも少し走って息切れしたら「体力がない」ということは、体感的にわかります。

脳の働きについても、似たようなものです。

タスクリストに載ってあることなのにどうしても着手できない状況は自分でもわかります。あるいは、作成したタスクリストがまったく終わっていないことは、一日の最後で明らかとなります。

そうしたときに、「自分はダメなやつだ」と考えるのではなく──皮肉な話ですが、そう考えたほうがMP消費が少ないのでしょう──、「今自分はダメなモードにいるんだ」と考えるのが本連載のスタートでした。そして、そのモードというのがMPの量と関わってくるわけです

セルフマネジメントに関しては、いまだに「やる気」が幅を利かせています。

たとえば、「やる気があればなんでもできる」という言説は、たしかにやる気を出して物事に取り組んでいるときに感じるあの万能感をうまく表現はしているでしょう。

しかし、仮にその言説が正しいとしても、その「やる気」の量が有限であれば、私たちにできることは限られてしまいます。そして、実際にその通りでしょう。

また、「実際に作業に取りかかれば、やる気は出てくる」という作業興奮という考え方もあり、それもまた、たしかにその通りなのですが、そもそもその最初の作業に取りかかれないから困っているんじゃないか、という循環的な困惑にぶつかります。まるで辞書を引いたときに「右:左の反対」「左:右の反対」と説明されたときの気分です。

ある種の状況において、「やる気」を持ち出してくるのは有効でしょうが、それだけですべてがうまくいくわけではありません。そこでMPです。

そもそも、「やる気」に関わらず、ある種の精神的なものは、イデア的に扱われることが多くあります。つまり、無限であり、静的(固定的)であり、汲み尽くせないほどの何かが含まれている、といった印象です。魂という言葉は、まさにそのような存在です。

もしかしたら、魂という存在はたしかにイデア的なのかもしれませんが、私たちの精神は残念ながらそうなってはいません。むしろ、もっと物質的です。つまり、有限であり、動的に変化し、いつかは損なわれてしまう存在です。

私たちの精神は、脳によって生じ、その脳は自分という肉体の一部でしかありません。肉体が摂取した酸素やエネルギーを用いることで、それらは稼働しています。摂取したエネルギーが有限であれば、その稼働もまた有限であるというのは、何もおかしな話ではないでしょう。

この点は、普段ならぱっと決められるようなこと(たとえば夕食の献立)が、疲れ切った一日の後だとまったく決められないというような、あのじりじりとした焦燥感を味わったことがある人ならば、すぐさま同意してくださるでしょう。

脳は体の一部であり、疲労やエネルギー不足が生じる。体力と同じように、時間と共に失われていくリソースがある。

それがMPという概念が包括する現象です。

最後にもう一点だけ補足しておきます。

MPという考え方が有効なのは、「やる気があればなんでもできる」的な言説が持つブラックさへのアンチテーゼとなるからです。

ある程度の負荷に耐えられるシステムがあっても、強すぎる負荷はそのシステムを壊してしまいます。その復旧には多大なコストがかかったり、そもそも復旧できない状況すら起こりえます。有機的で繊細なシステムであればなおさらそうでしょう。

脳のリソースが生物学的に有限だとすれば、脳がそれを使うのを渋るのももっともなことです。そのリミッターがなければ、私たちは簡単に脳をオーバーヒートさせてしまいます。

よって、「できないことが、できない」のは自然なことなのです。

「やる気があればなんでもできる」や「実際に作業に取りかかれば、やる気は出てくる」の危うさは、その「やる気」を持たせてしまえば、リソースの状況がどうあれ行動が促されてしまう点にあります。それは、痛覚を遮断した兵士は、事切れる最後の瞬間まで全力で戦い続ける、というのと同じ危うさです。

もちろん本当にどうしようもない状況はあるでしょうし、そうしたときは火事場の馬鹿力的にリミッターを外すのはやむを得ません。でも、そうして無理矢理やるのは、本当にどうしようもない──明日が確定申告の締切、のような──状況に限っておきたいところです。

日常の私たちに必要なのは、もっと細かい、あるいは些細なMP戦略です。

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