第二回 「インターネット的×知的生産の技術」その2 〜情報化が変えるもの〜

前回は、『インターネット的』と『知的生産の技術』のわくわく感について書いた。今回は、それをもう少し掘り下げてみたい。

実際のところ、二冊の本の語り口はずいぶん違う。扱っているトピックスも異なるし、著者の職業も違う。読んでいる読者だって、あまり重ならないだろう。それでも、この二冊の本には交わる≪何か≫がある。

そこで提示されている≪何か≫は、時代を超えて現代でも生かせるものだ。いや、現代だからこそ生かせるのかもしれない。変化を体験しようとしている現代だからこそ、そこで語られた言葉が、力を持ちうるものになるのだ。

いささか大げさすぎるだろうか__私はそうは思わない。

二冊の本は、情報について語っている。情報そのものではなく、情報を取り巻くものの変化がテーマだ。情報が持つ意味をどう捉えるのか、そしてそれとどう付き合っていくのか。そんな話である。

片方では、それが実際に作用している状況が語られ、もう片方では、それを扱うための技術が取り上げられている。どちらにせよ、情報は社会を変えていく。それが両者の意見として、がっちり噛み合っているところだ。情報を取り巻くものが変化したとき、社会がこのままであるはずがない。では、何がどう変わっていくのか。

「情報が社会を変える」などと書くと、いかにもビジョナリー的な妄言に聞こえるが、別にそうしたものではない。これまでも社会は変化してきた。だからこれからも社会は変化していく。そんなごく当たり前の推論でしかない。宙に放り投げたボールは、いずれ落下し始める、ぐらいのまっとうな推論である。むしろ、社会がこのままずっと固定し続けていくと考える方が、いびつな発想だろう。

社会が変化することを前提として受け入れれば、あとはそれにどう対応するのかだ。

産業の構造が変われば、社会の構造も変化していく。農業から工業へ産業の中心が移行したとき、それに合わせて社会の構造も変化した。工業は、効率良い生産体制を必要とし、労働者の集約を求める。機械化が進めば、深夜勤務も当たり前になる。社会は、そのようにして変化を経験してきた。そして、これからも変化していくだろう。

いや、むしろもう変化の一歩目か二歩目ぐらいは踏み出しているのだ。

社会の情報化は、流行りの産業が変わる、というだけにはとどまらない。それに付随する形でライフスタイルみたいなものも変わっていく。組織の在り方も変わるだろうし、そこで働く人の生活、ひいては人生も変わっていくだろう。企業と個人の関係もこれまでと同じというわけにはいかなくなる。

結局、社会全体に変化が及ぶということだ。誰にとっても他人事ではなくなる。否応なしに、当事者として関わらざるを得なくなる。

そのような変化に、ただ流されるだけという選択もあるだろうが、ある程度は意識的に対応していくこともできるだろう。そして、そこに必要なものが技術、そう「知的生産の技術」というわけだ。

だからこそ、「インターネット的×知的生産の技術」が面白いのである。

ただし、そこには落とし穴みたいなものがある。それについては次回書いてみよう。

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