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MP連載第二十四回:MPがうまく使えたらいいね

「もう少し実用的な話を増やしていこう」と微妙に決心したのですが、前回の話を受けて、まったく実用的でない話を書くことにします。

ずっと不思議に思っていることの1つが、MPというものが本当に有限かどうかも明らかでないうえに、「マンモス狩猟時代」とはこんなに環境の変化が著しいのに、どうして私たちはいぜんとしてなお「MPがうまく使えないの」でしょうか?

二つ論点があります。なぜ私たちはいぜんとして「MPがうまく使えないの」か。そして、「私たちはMPをうまく使える」のか。です。

MPをうまく使える必要性

マンモス狩猟時代と比べると環境の変化は劇的ですが、しかし、DNA変化の時間軸から考えれば、それほどの時間は経っていないと言えるでしょう。特に、「やること」と「個人の自由」が劇的に増加したのは、本当に近年のことであって、たかだか数百年でうまく対応できるようになるとも思えません。

さらに言えば、MPをうまく使える技能が先天的に存在するとしても、そのことには淘汰圧は働きません。『マシュマロ・テスト』では、子どもの頃に即座にマシュマロを食べるのを我慢し、後で倍のマシュマロをもらうことに成功した対象は、大人になっても満足度の高い人生を送っていたという追跡調査の結果が紹介されていますが、しかしそうした能力がなくても、素晴らしい現代では即座に死に追いやられることもありませんし、カップルを為し子どもをもうけられる可能性も充分あります(もう少しきわどい結論も言えますが、割愛しましょう)。人権宣言とはそのような環境を目指すものでしょう。

もしMPをうまく使える人間だけが生存できるという社会なら、私たちはMPを操作する能力を備えていたのかもしれませんが、現実的にはそうはなっていません。でもって、それは素晴らしい達成であるように思います。

「私」と「うまく」

もう一つの論点は、やや哲学的な話です。

「私はMPをうまく使えない」

このときの「私」とは誰を指すのでしょうか。あるいは何を指すのでしょうか。

MPの仕様にリミッターを掛けているのも「私」ですし、不必要な行為に大量にMPをつっこむのも「私」の仕業です。もちろんそれは意識の制御下にはありません。ある意味で、自律的な反応に近いでしょう。

であれば、「私」という自意識は、永久にMPを意識的には使えないことになります。でもって、話の半分くらいはその通りではないでしょうか。少なくとも「よし、これからMPを大量に使うぞ」と思ってもそのとおりにはできませんし、「今日はできるだけMPを節約すること」と思ってもそのとおりにはできません。人間の意識にできることは、せいぜい対象に意識を向けることだけです。

ただ、意識を向けることでMPが使われやすくなることはあるでしょう。異性を意識したら急に心臓が高鳴り始める、というのと同じで、何を認識するかで脳の反応は変わってきます。ぼーっとした状態でもぐら叩きをやれば得点は芳しくないでしょうが、意識をそちらに向ければもっと高得点を上げられます。しかしそれは、作業中のMPの行使を直接コントロールしたわけではないでしょう。一つのきっかけ、入り口を作ったに過ぎません(だから、意識を向けても以降の作業でMPが使われないことは充分ありえます)。

人類は古くからたくさんの儀式を執りおこなっており、現代でもプロスポーツ選手が集中するモードに入るために「儀式」(繰り返し行われる一定の動作群)を実施するシーンをよく見かけます。これも、「私」という自意識は、MP行使の直接的な操作が不可能であるという点からきているのでしょう。

結果の評定

もう一つ、「うまく」使うとはどのような意味合いでしょうか。

適切な対象に適切な分量だけのMPを行使し、そうでない対象にはなるべく使わない。

おそらくはこういうことだと思います。しかし、それが適切な対象だと決めるのは誰でしょうか。その量が適切だと判断する主体は何でしょうか。この文脈で言えば、やはり「私」という自意識です。

これは実に悲惨な状況です。「私」という自意識は、MP制御について直接的な影響力を持ちません。しかし、その結果を評価するのも「私」という自意識なのです。言い換えれば「思い通りにいかないもの」が「思った通りにいったら」良い、そうでなければ悪い、ということになります。

これが分の悪い賭けであることは言うまでもないでしょう。

荷物を下ろす

「私たちはMPがうまく使えないのです」

という話を前提に置くことは、そんなに何もかもを「私」という自意識に背負わせるのは止めよう、という話でもあります。根本的にできないことを「できない!」と嘆いていても、無用な心労が増えるだけです。

休日をまったく「無駄」に過ごしてしまうのは、もちろん残念なことではありますが、人間とは基本的に残念なものであると考えれば、悲痛さは多少薄れます。もちろん「それでいい」という話ではなく、それはスタート地点であって、別にマイナス地点ではない、という話です。

ノウハウが商業化されている現代では、自分認識をマイナススタートさせるような言説が溢れかえっていますが、プロスペクト理論から考えれば、そのような認識は、一発で負債を取り返せるような行為を選好させてしまいます(だからこそ危なっかしいものほどマイナス認識を強調します)。

よって、MP戦略は「MPはうまく使えなければならない」というものではなく、「MPがうまく使えたらいいね」という話でしかありません。というか、MPは所詮補助線であって、実際は「やろうと思っていることが、素の状態よりは、少しでもできたらいいね」くらいのことです。

こんな言説に何の説得力もないことは理解していますが、世の中には説得力よりも大切なものがあります。自分についての理解は、そのひとつです。


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