第十四回 書き手のプライオリティー

2015年12月31日。大晦日。何の因果かこの連載の更新日を木曜日と設定したので、大晦日でも元気に更新することにする。

2015年を振り返ってみると、総じてうんざりした。主にはWebのコンテンツだ。欺瞞に満ちあふれた情報商材すれすれの「ブログで楽に儲けよう」という話がようやく一段落してきたと思ったら、著作権など知らぬ存ぜぬのバイラルメディアが台頭してくる。ステルスマーケティングに関連する話も何度か出てきた。

相変わらず、読者を財布としか見ていないコンテンツは今日もあちらこちらで誕生し、我がもの顔で往来を闊歩している。もしかして、これには終わりがないのかもしれない。そんないやな感触が手のひらに残る、そういう一年だった。

書き手は一体どこに行ってしまったのだろうか。

広告が多すぎるWebページでも相当にうんざりする。それを見た読者がどんな感覚を受けるのか想像していないのだろうか。コンテンツの内容とマッチしない広告も、違和感の方が大きい。ねえ、それでいいの? このページにその広告が載ることを想定して広告載せてるの? と小一時間問いたくなってくる。それも、目立つ場所に載っているのだ。

まあ、そうしないと広告効果が薄いのだから仕方がない。嗚呼、広告効果。消費社会の落とし子。経済活動の潤滑油。それが広告効果。そこにあるのは、ほかのなんであれ、人と人の関係性ではない。

発売日に一斉に更新される金太郎飴の記事群は、もしかしてbotが産出しているのではと疑いたくなってくる。少なくとも代替は可能だろう。そういう記事は別に誰が書いたっていいのだ。良い意味も悪い意味もない。ありきたりな事実に過ぎない。

本の中身をコピペしただけの「書評記事」をドヤ顔で公開されても困る。著作権的にも相当怪しいが、そもそもそんなものを読んでも何一つ楽しくない。そこで読めることは、本を買えば読めるのだ。書評記事に期待されていることは、そういうことではない。書き手が、その本をどのように評したのか。その視座に触れたいのだ。

だからこそ、なんでもかんでも褒める記事も読みたくない。正確に言うと、一つの引き出して全てのものを褒めようとする記事だ。「この箪笥は寝るのにピッタリです」__滑稽きわまりない。ようするに褒めたいから褒めているのだ。では、なぜ褒めるのか。嗚呼、それが広告効果だ。

全ては売るために。

別に何かを売ることは悪いことではない。ただ、無理矢理感が漂うことは確かだ。「それ、本当に良いと思ってる?」と疑問を持ってしまう。そして、一度それを持ってしまったら、ぐずぐずと崩れていくものがある。それが関係性だ。

もう僕は、速報まとめ系の記事は読まなくなった。それと同じようにセール情報もあえてスルーするようにしている。その情報で得られる≪得≫は、消費と浪費で簡単に相殺され、むしろ債務が大きくなる。お得な情報はたまにでいい。毎週閉店セールを実施されても困るのだ。

何がプライオリティーなのかは極めて重要である。

そもそも人間の行動の動機は、決して単一ではない。万華鏡のように、さまざまな動機が入り交じっている。それが人間という生物である。でも、最後にものを言うのは、何が(ファースト)プライオリティーなのか、という点だ。

正義のために戦うヒーローが、「この必殺技の決めポーズならちょっとモテるかも」と思ったって全然構わない。基本的には、害を為す存在を退治してくれるのだから。しかし、モテることがプライオリティーだと話は変わってくる。もし、悪魔がやってきて、「あの怪獣を見逃してくれたら、モテモテにしてあげますよ」とささやくとどうなるだろうか。

プライオリティーとは、定義から言って、そういうときに「いいえ、結構です」と言える視座のことだ。あるいは逆にも言えるだろう。そういう選択肢の前に立たされたとき、はじめてその人のプライオリティーが明らかになる、という風にも。

Webに出したコンテンツで利益を確保することは全然悪いことではない。誰しも、ちょっとした小遣いがもらえるのは嬉しいだろう。でも、何かプライオリティーなのかはここでも重要だ。メタファーとして出したことをもう一度書くのはちょっとダサいのだが、勘違いされないようにもう一度書いておく。

読者に何かを伝えること主要な目的としたブロガーが、「広告を載せれば、ちょっとお小遣いが手に入るかも」と思ったって全然構わない。基本的には、有益な情報を提供してくれるのだから。しかし、儲けることがプライオリティーだと話は変わってくる。もし、悪魔がやってきて、「これを褒めて紹介してくれたら、100万円あげますよ」とささやいたらどうなるだろうか。

頭の中でそろばんを弾いて、その方が「利益」が多いなら、当然、それを書くだろう。「利益」をプライオリティーにしているなら、必ずそうなる。それがプライオリティーというものだ。逆に、そこで「いいえ、結構です」と言うのなら、その人のプライオリティーは別のところにある。

ちなみに、100万なら読者をだましたことがばれたときのダメージがでかいから書かないというのは、結局、200万なら書くかも、ということになるので、話としては一緒である。実現性から見ると、仮説としてはあまり意味はないが、「いくらつまれてもNoと言う」というのがプライオリティーである。
※ただし、家族を人質に取られて脅迫された、というのなら例外になるかもしれない。

どちらにせよ、極端な仮説であり、日常的にはもっと細かい金銭のレベルで、こういう選択肢が出てくる。

そして、プライオリティーが「利益」になっていると、どんなコンテンツが流されるのか、わかったものではない。身震いしそうになる。

書き手のプライオリティーが「伝えること」でないコンテンツは、正直もうおなかいっぱいである。もともと、この消費社会にはそういう情報が溢れかえっている。わざわざWebでそういうのを読みたいとは思わない。その意味で、うんざりした一年であった。

なんだか大晦日にずいぶん暗い話になってしまった。

でも、まったく希望がないわけでもないのだ。明るい話を語ることはできる。それは、新年明けてからのお楽しみとしておこう。

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