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情報摂取と読書 #burningthepage

本は死なない』の第六章「神経生物学からみた読書」より。

食事が人を作るように、読書も人を作る。それは明白なのだから、電子書籍の登場によって読書の形態が変われば、私たちの脳の配線や仕組みも変わっていく。

この辺りの話は『プルーストとイカ』や『ネット・バカ』に詳しいので、興味ある方はご一読ください。

私は『ハイブリッド読書術』の中で、「情報摂取」という言葉を使い「栄養摂取」と対比づけました。ふだんどんな情報を、どのように摂取しているかによって、その人の価値観や平均的な思考というのは変わっていくものです。

紙の本と電子書籍も同じものではないのですから、やがて私たちの認識もまた変わっていくでしょう。それがどのような変化はまだまだわかりませんが、きっとソーシャル的な要素が絡んでくるはずです。

それがうまく機能すれば、高校の授業で「議論」を学ばなくても、ごく当たり前のように__人格攻撃を抜きにした__意見と意見のぶつけ合いが行われるようになるでしょう。もちろん、それはありうる未来の一つの可能性であり、全然違うところに着地してしまう可能性もあります。

ただ、本というものが生きていさえすれば、よほどひどい事態になるのは避けられると、私は考えます。

むしろ怖いのは、ウェブ的な情報摂取に脳が最適化してしまうことです。ようするに、フラグメント化した情報を処理するように最適化された脳。

そういう脳は、大きなフレームを組み立てることができません。ウィキペディアをリンクで読み漁ることはできても、そこから新しい何か(物語であったり、提言であったり、フレームワークであったり)を作り出すことができないのです。言い換えれば、自分なりの「世界」を新しく構築できないのです。

それがどういう状況を引き起こすのかというと、Aという要素については、X氏の意見を受け入れ、Bという要素については、Y氏の意見を受け入れ、Cという要素については、Z氏の意見を受け入れる、なんてことが起こりえます。

別に、いいとこ取りが問題なのではありません。それぞれの意見が、トータルで見ると相互矛盾を引き起こしたとしても、パーツとして受け入れてしまうのです。

そこには軸というコンセプトは成り立ちません。存在しうるのは、会う他人ごとに別の仮面を被るような人物だけです。

もちろん、本を読んだって、「世界」がうまく構築できるようになるとは限りません。また、本を読まなくても、うまくできるような人はきっと存在するでしょう。

しかし、フラグメント化に最適化してしまえば、望みはずいぶん薄くなります。

食事が人を作るように、情報摂取が価値観や思考を作ります。

私たちは、便利や不便以前に、「なにをどのように情報摂取するのか」を真摯に考える必要があるのではないでしょうか。

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