第一回 「インターネット的×知的生産の技術」その1 〜未来に伸ばす線〜

最近、「インターネット的×知的生産の技術」が面白い。この掛け算が示すところは、現代を生きていく上での重要なヒントを提示している__ような気がする。

ここでズバっと断言できたらかっこいいのだが、実際に未来を体験したことはないわけで、言い切るのは少々難しい。なので、今のところは「重要なヒントがありそうに思える」に留めておこう。スターターとしては、それでも十分だろう。

これからそのヒントについていろいろ書いていくのだが、その前に「インターネット的×知的生産の技術」について確認しておきたい。

『インターネット的』は、2001年に発売された糸井重里氏の著作だ。発売から10年以上経った2014年にめでたく文庫化もされている。どうやら、発売当初はあまり読まれなかったらしいのだが、ここ最近注目を集めているらしい。次々と新しいものが登場し、古いものはどんどん隅っこに追いやられる現代では、少し珍しい現象である。糸井さんがここ数年で急激に有名になったというわけもないので__もともと有名な方だ__、そうした注目の集まり方に時代のにおいをかぎ取るのは難しくない。

もう一つの『知的生産の技術』は、文化人類学者の梅棹忠夫氏の著作で、発売は1969年。今の若い人からしたら大昔だろう。スマートフォンどころかパソコンすら普及していない時代の本である。しかしながら、この本も長く読まれている。すでに100刷目に届く勢いだ。

この二冊の本は、長く読まれている。言い換えれば、現代でもしっかり読み応えがある内容だ、ということだ。その上、本の内容には呼応関係がある。これが意味するところは大きい。

どういうことだろうか。

二つの点をイメージして欲しい。一つは、1969年ではるか後方にある。もう一つは、2001年でこちらは少し今に近い。この二つに呼応関係があるということは、それを結ぶ線が引けるということだ。定規でも置いて、すすーっと点と点を結ぶことができる。であれば、そのまま現在まで線をつなげられるのではないか。いや、いっそのこと未来にまで伸ばせるのではないか。そんなことをウキウキと考えてしまう。

私が感じる「インターネット的×知的生産の技術」の面白さとは、そういう類のものだ。

言い換えるならば、二つの本から読み取れるもの、あるいはそこから考えられることは、これからの社会でえっちらおっちら生きていくために、わりあい有効なのではないか、という気がするのだ。

その思いは、まだ確信と呼べるほどは強くないが、自分の体験や周りの人の話を聞くにつれ、徐々に強まってきている。また、いろいろな本を読んでいると、やっぱりそうなんだなと確認できることも多い。

その辺りのことを、じわじわと外周を埋めながら、あるいは適当に散歩でもしながら書いていきたい。

次回は、もう少し「インターネット的×知的生産の技術」について掘り下げてみよう。

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