第三十回 メディア的に生きる

この連載では「メディア的に生きる」ことについて考えてきた。

現代、そしてこれ以降の社会では個人が直接社会とつながっていかなければならないような環境が待っている。そこでは、個々人が「メディア的」に振る舞うことが大切なのではないかと考えた。よって、「メディア」周りの事象をいろいろ見てきたが、まだまだ十分とは言えない。

たとえば、地方メディアと個人メディアの可能性の検討が済んでいない。また、貧困とメディアについても考えることはたくさんある。が、そうした話題についてはまた別の機会に譲ろうと思う。この連載は、とりあえずここで一段落としよう。

メディアの価値は何が決めるのか。もちろんそれは「いくらのお金を生んでいるか」ではない。それは指標の一つではあるが、逆に言えば指標の一つでしかない。

ある情報をどのように流しているのか。そして、その情報流通でどのような新しい価値が生まれているのか。それがメディアの価値としてフィードバックしてくる。それを軽視して「100万PVです」と誇ったところで、何の意味もない。

メディア的に生きることの難しさは、その価値が事前には誰にも分からないことだ。むしろ、価値を自分で作り出していくような気構えが必要になってくる。

しかし、もし価値を自分で生み出せるなら、それはなかなか強い武器(あるいは杖)を手にしたことになるだろう。それは今後の社会を生き延びていく上で有用に機能してくれるはずだ。

言い換えれば、既存の社会に蔓延していた「成功」の枠組みから脱却し、新しい「成功」へと辿り着く道筋を生み出してくれるだろう。

これからの社会は、日本独特のタテ型社会が崩れ始め、徐々にヨコ型の多層社会へと変化していく。そこで重要なのは、そうした多層にアクセスする力である。そうした多層にアクセスできていれば、ムラに閉じ込められることはない。もちろん、完全なる自由とはほど遠いだろうが、自分の大切なものは守っていけるはずだ。

そのためには、他者に自分の価値を見出してもらわなければいけない。「こっちに来ませんか」と言ってもらわなければならない。あるいは自分が「こっちに来ませんか」と言ったときに頷いてもらわなければならない。

そのための手段はいくつもあるが、「メディア的に生きる」ことはその最も身近なものになるだろう。なにせ現代は情報化社会なのだ。

しかしながら、いささかこの表現は打算的に聞こえるかもしれない。「見返りを期待した発信」というわけだ。これはなかなか難しい問題である。

率直に言って、「見返りを期待した発信」は、たいてい続かない。当初は思うような結果が得られないからだ。あれを続けられる人は、心に「金銭的利得」以外の何かを抱えていることが多い。一般人は近づかない方が賢明である。

だからといって「無償の奉仕」でやればいいのかというと、それも微妙である。なぜならときにそれは「俺さえよければ」に傾くからである。メディアは情報を他者に渡す役割を持つ。そこではどうしても情報の受け手について思いを馳せなければいけない。言い換えれば、サービス精神が必要である。それがなければ、メディアはメディア的な機能を果たせない。

これは「わかりやすい文章を書きなさい」といったことではない。世の中には難しい文章の方を好む人もいるのだ。だから、これは受け手のことを考えろ、という意味である。

商売をする人は、どうやればお客さんが快適に買い物してくれるかについて考える。それが利益を生むための方法だからだ。メディアを運営する上でも、それと同じ眼差しが必要だ。「無償なんだから、なんでもいいだろう」はときに言い訳としても機能してしまう。

だから、中間に留まるのが良いのだろう。

メディアがあり、情報があり、受け手がいる。この3つの関係性を意識すること。そしてそれを社会の中に位置づけること。それがメディア的に生きることだ。

何を発信してもいいし、どのように発信してもいい。ただ、この関係性さえ頭から外さなければ、という保留がつく。

最後にもう一度書くが、何が価値なのかは事前にはわからない。だからこそ、「何が価値なのか?」は常に問い続けなければいけない。この問いから逃げてしまえば、新しい価値はもう生み出せなくなるだろう。

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