第二十九回 社会におけるメディア(5)

前回では、「情報の流し方が、自分の価値としても返ってくる」といったことを書いた。

情報の流し方にもいろいろある。事実をそのまま流したり、解説を加えるなどを加工を行ったりと、さまざまな。その当たりは工業的産業が原材料をどのように扱っているのかをイメージすれば、おおよそは理解できるだろう。

で、その「流し方」が発信者の価値として返ってくる、というのが今回のテーマである。

具体的な例を使ってみよう。たとえば本を紹介するとする。

そのときベストセラーを紹介したらどうなるだろうか。もちろん、それを求めている人はいる。でも、そうした情報はたいてい他のメディアでも紹介しているものである。つまり、代替が存在する。

この場合、何かよほど付加価値のある情報を付け加えるか、速度や見せ方に違いがないとそもそもとして情報を伝えるのは難しい。ただし、無難ではある。「ベストセラー」という外的評価が確立しているものだからだ。

この辺りの話は「セール」に置き換えても良い。料理で言えば、「素材が良ければ、たいてい美味い」となる。だからこそ、代替が効いてしまう。

別の紹介の仕方もある。たとえば、まだ知られていない本を紹介すること。あるいは、評価が十分ではないと自分が感じる本を紹介すること。そんなやり方だ。

まずもってこれには勇気がいる。なぜなら盾となる外的評価がないからだ。言い換えれば、そうした紹介ではあなた自身の価値観を提示しなければいけない。そこには否定される可能性もあるわけで、ちょっとした心理的ジャンプは必要になるだろう。

ただし、逆に言えばそれは代替が効かない。あなた自身の価値観が誰かからの借り物でない限りは、そのメディアはそのメディアのみの存在感を示す。

それだけではない。まだ知られていない本を紹介することで、少しは本が売れるかもしれない。そして、その本の売れ行きが増刷の判断に関わるかもしれない。その増刷によって、(本の)著者の評価が決まり、次回作へとつながるかもしれない。

そこまで大きなものではなくても、紹介によって著者が勇気づけられるようなことは十分あり得るだろう。

これがメディアが社会や個人に影響を与える、ということだ。そして、その手つきが、メディア自身の評価ともなる。

ベストセラーを紹介ばかりするようなメディアは、言ってみれば「便利な」メディアである。有用性は高いし、利益も生むだろう。でも、発生させている価値は実はそれほど大きくはない。というか、それは代替可能な価値だ。たまたまそのメディアが手にしてはいるが、別のメディアだって構わないという類の価値である。

だからこそ、そのメディアはいくらでも代替できる。受け手は便利でさえあればなんでも良いのだ。

そうではないスタイルのメディアは、自らの手で価値を創造している。まだ評価の無かったものに、新しい評価を与えている。もちろん、それにはリスクも伴う。でも、だからこそ、そのメディアは価値を作る存在である、という評価も受ける。

言うまでもないことだが、これは「どちらのタイプが儲かるのか」という話はしていない。というか、それならば圧倒的に前者が優位だろう。ただし、そちらのスタイルは基本的にゼロサムゲームであり、先行者利益が圧倒的に高い。「先にやったもん勝ち」であり、一部が全体の大半を握ることになる。

後者のタイプは、手にできる利益の規模は小さいだろうが、存在余地はあまたにある。それぞれのメディアに、それぞれの価値観があるからだ。だから、必然的に手つきも変わってくる。

もし、価値=手にする金額の多さ、と考えるならば、こんな話はまったく滑稽だろう。が、それならば青空文庫などは何一つ価値を生み出していないことになる。それに頷くのは難しい。

社会的な価値は、金銭的利益に変換できるものもあるが、そればかりではないだろう。その点を見失うと、社会というシステムやそこで起こる現象の多くを見失ってしまうことになる。その点は注意しておきたい。

人と本が出会える場所はいろいろある。

新刊書店、古書店、図書館、あるいは他人の本棚。それぞれがメディアである。それはそのまま個人が運営するメディアのある種のモデルとしても機能するだろう。そして、それぞれのメディアが情報を流す手つきによって、社会の中に位置づけられ、他者からの評価を得る。「役割」とはそのようなものだ。

何も堅苦しく考える必要はない。しかし、情報を社会に向けて流す以上、メディアは必ず社会の中に位置づけられる。そして流す情報により役割が認知され、それがそのままメディアの価値として生じてくる。それは、個人が運営するメディアにおいても同じことである。

つまり、どんな情報をどのような手つきで流すのかが、そのまま「あなたは誰なのか?」という問いに対する答えとなるのだ。別に「私は〜〜です」と自己紹介を入れる必要はない。もちろん、それを入れても言い。でも、それを入れるというのも一種の手つきであることは忘れてはいけないだろう。

ながながと書いてきた連載であるが、次回でちょうど30回でありキリも良いのでそこで最終回としよう。何かまとめ的なものを書けたらと思う。

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