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愛しの我がEvernote

私の大好きなツールについて語る「My Favorite Tools」。第一回はデジタルノートのEvernoteをテーマにお送りします。

It's My life!

2008年から使い続けているEvernoteは、ノートの総数が7万をこえました。

書いた原稿、思いついたアイデア、プロジェクトのデータ、日記帳、コレクション的な写真、エトセトラ、エトセトラ。多種多様なものがこの中には保存されています。

自分の人生の記録がこの中にたっぷり詰まっている。そういっても過言ではないでしょう。

食料を蓄える動物はいくつもいますが、記録を蓄える動物は人間くらいかもしれません。同じホモ・サピエンスでも、記録を蓄える前と後とでは、ぜんぜん違う動物ということもありそうです。テクノロジーによる人間拡張。マルクーハンさんも面白いことをおっしゃいます。

エウレカ!

私はEverntoeというツールが好きですし、自分のEvernoteも大好きです。概念としてのEvernote、実体としてのEvernote。クラスとしてのEvernote、インスタンスとしてのEvernote。そのどちらもが、私に何かを訴えかけてきます。

とは言え、出会いはそれほど劇的でも明瞭でもありませんでした。むしろ、どう使えばいいのかわからない「なんじゃコリャ」感でいっぱいだったと思います。

メーラー風であり、新規ノートもいくつか作れる。ノートとノートブックの違いって? へぇ〜、Webクリップが簡単に保存できるんだ。そんな大雑把な印象でした。だからアカウントを作ってもさほど使うことはなく、たまにWebクリップを保存している程度でした。

でもあるとき気がついたのです。そうか、これは情報カードボックスなのだ、と。自らの着想を書き留め、情報を保存し、人生の綜合アーカイブとして運用していくものなのだと。

その発見をよすがにして、Evernoteについての記事をブログにたくさん書いてきました。すでに記事総数は400に迫る勢いで、一日一記事読んでも読了に一年以上かかる計算です。

でもって、そうした記事が縁となり、書籍をいくつか書いて、物書きにもジョブチェンジしました。我ながら奇妙な人生を歩んでいます。

自分とEvernoteの関係を改めてふり返っても、ものすごい情熱というかマニアックさがあります。しばらく後に、ヴァネヴァー・ブッシュさんのメメックス構想を知ったときは、同じにおいというか、ああこの人もきっとマニアックなんだろうな、と感慨深く思いました。なんだかんだで、私たちは歴史のレールの上を歩いています。

ツールの手引き

Evernoteは、一見するとよくわからないツールです。何に使っていいのか示唆を与えてくれるものはほとんどありません。特に、ツールが日本に入ったばかりのころはその傾向が強くありました。そして、だからこそ私はEvernoteに強く惹きつけられたのでしょう。

ツール自身がこう言ってくるのです。「どう使う? ねえ、どう使う?」と。もちろん妄想に過ぎません。でも、その妄想こそが大切なエネルギー源です。初期に盛り上がっていた人たちもきっと同じだったのではないでしょうか。ツール自身から可能性という名前の光がこぼれ落ち、それに惹きつけられるように人が集まる。そんな現象があったように思います。

似たような感触は、「ひらくPCバック」をはじめて触ったときにも感じました。「こう使いなさい」という押しつけがあるのではなく、むしろ、あなたたちがこの道具の使い方を見つけてください、という控えめな提示だけがあり、それに触発される形で利用者の気持ちが高まる。これはとても良い関係のように思えます。

これからのEvernote、これからもEvernote

しかし、最近のEvernoteにはそうした感触はあまりありません。普及したことで一般的な使い方が定着したからなのか、解説書が増えて模索する要素が減ったからなのか、それとも新しい使い方を刺激するような新機能が追加されていないからなのか、そのあたりはわかりません。

ただ一つ言えるのは、Evernoteについてのブログ記事があまり増えていないことです。こればかりはどうしようもありません。

とは言え、ブームが下火になっても、機能のシフトがどんどんビジネス寄りになっても、あいかわらず私はEvernoteを使い続けていますし、これからも使い続けていくでしょう。クラスとしてのEvernoteは別にして、インスタンスとしてのEvernoteは、7万以上の「私のノート」を蓄えてくれています。

その愛着はもしかしたらサンクコストなのかもしれません。しかし、だとしたらどうだというのでしょうか。愛情とは常に不条理さを含むものです。そうでない愛情など、単なる計算結果にすぎないでしょう。

人生が記憶の総体だとしたら、記録はその総体をたしかに肉付けしてくれます。記録を貯め込むことには、人間ならではの条理と不条理さが含まれています。

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