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第四回: 意気込みと重い計画

前回、佐々木さんが以下のように書かれました。

「時間があるのにやれない」というときには、時間がなくなってしまう状態が怖いのです。日頃から「時間欠乏」に悩まされている人にしてみれば、貴重な時間は貴重すぎて、使うことができません。

時間が貴重すぎて使うことができない。なかなか辛い状況です。しかし、タスクリストに載っている行動を実行しようがしまいが、時間は過ぎていきます。つまり、時間を使っています。

この点を考えると、ふと思い浮かぶことがあります。

お金と時間は、よく類似性を持って語られます。「時は金なり」というダイレクトな諺もあります。

今まであまりお金を持っていなかった人が、突然大金を手にすると、うまく使えず浪費してしまう、あるいは「下品」な使い方をしてしまう、という状況は成金などと揶揄されます。

もっと卑近にあぶく銭という言葉もあります。苦労せずに得たお金のことで、そうしたものは「パーッと」使ってしまいがちです。

普段時間欠乏症の人が、「休日」という大きな余白時間を手にしたときの状況は、このようなものに近しいのかもしれません。あぶく銭ならぬ、あぶく刻(どき)です。

たちが悪いのは、休日の自由な時間というのは、たいてい何の労もなく手に入ることです。むしろ朝起きた瞬間に天から降ってきたような感覚すらあります。

もし忙しい一日の中で、なんとかやりくして20分の時間を確保したならば、その時間ではきっと事前にやろうと思っていたことに取りかかるのではないでしょうか。

しかし、休日は違います。朝起きたら突然財布に100万円入っていたような感覚があるのです。これでは無駄遣いしてしまうのも仕方がないかもしれません。

ここで起きているのは、一見前回佐々木さんが書かれたのと逆のことです。つまり、恐怖心による慎重さではなく、余裕の感覚による放蕩です。

何せ時間は大量に持っています。だから、すぐに目についたものから取りかかってしまう。Twitterを開いて、面白そうなサイトをチェックする。気になる言葉があればWikipediaを読み漁る。本棚から漫画を取り出す。「大丈夫、大丈夫。まだまだ財布にはいっぱい入っている」──そうして時間は徐々に過ぎ去っていきます。

カレーの材料を買いにいったのに、財布にお金が入っているからと、店頭で目についたデザートやらお菓子やらを大量にカゴにいれてしまう。結局野菜売り場に辿り着いたときには、もうカゴが一杯で新しく入れることができない。あるいはお金を使い果たしてしまっている。そんな状況です。

しかし、ここで気になるのは、なぜ真っ先に野菜売り場にいかなかったのか、という点です。

朝一にたっぷり時間があるのは間違いありません。そこには、さまざまな行動の選択肢があることもたしかです。もし、余裕があるならば、真っ先に「しかるべき行動」をとって、残り時間でWebサーフィンを楽しめばよいでしょう。何をどう考えても、それが合理的な判断と言うものです。

しかし、実際はなかなかそうはなりません。なぜか。

考えられる一つの可能性として、「計画の重さ」があります。

「明日は休みなので、普段はなかなかやれていないあれをやろう!」と計画されるようなことは多いでしょう。そこには少なからずの意気込みがあります。

この意気込みという奴は、なかなか扱いがやっかいなのですが、ともかく自分にとってその行動は心理的に「重い」ものです。重要性が高いのです。実際に必要な時間の量も多いかもしれません。

となると、その行動はなかなか選択されません。

もう一度スーパーのたとえを使いましょう。私が買い物に行って、買い物リストに「トイレットペーパー」と書かれていたら、ほとんど間違いなく最後にそれを取りに行くでしょう。「ウィスキーのボトル」と書かれていても同じです。

明らかにカゴのスペースを大量に占拠してしまうもの、あるいは重量が大きいものは後回しにされがちです。で、売り場を一周回ってみたらカゴが一杯だったので、「今日はまあいいか」と先送りされてしまいます。

ここには皮肉というか、逆説的な状況があります。有効に時間を使おうとタスクリストに「重い」タスクばかりを並べてしまうと、むしろそれが選択できなくなるのです。

そうした重いタスクに比べれば、Twitterを覗くのは簡単そうに思えます。しかも、時間財布にはまだたっぷり時間が入っています。「大丈夫、大丈夫」──そうやって時間はどんどん過ぎていきます。


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