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第七回:古くて新しい出版

解体を続けましょう。今回解体するのは、「マスメディアの絶対性」です。

まずは、時計の針を戻します。パピルスの巻物に、葦のペンで文字を書く。っと、戻しすぎました。さすがにこれは出版ではありませんね。もう少し調整して、グーテンベルクが革命を起こした1600年代のヨーロッパあたりとしましょう。

アレッサンドロ・マルツォ・マーニョの『そのとき本が生まれた』は非常に面白い本で、グーテンベルクその人ではなく、その印刷技術が伝わったヴェネツィアにおいて出版事業の花が開いたことが紹介されています。

その時代のヴェネツィアには、著者が指摘する出版事業が成功する三つの条件(知識層の集中、豊富な資本、高い商業力)が揃っており、そこからたくさんの小さな書店(印刷&販売)が生まれただけでなく、それぞれの書店は切磋琢磨し競争していました。そうした競争が創意工夫を刺激して、現代で「本」としてイメージされる情報パッケージングスタイルが生まれた、というわけです。たぶん、そこには豊かな多様性があったのでしょう。

人類が文章を書き残してきた歴史はずいぶん古いものですが、現代で思い浮かぶ「本」のイメージは、歴史全体の長さに比べればそれほど古いものではありません。極端に言えば「最近」できたものです。

それだけではありません。その時代のヴェネツィアで販売されていた本は、印刷技術はあったものの、それほどの大量部数ではなかったでしょう。現代で2000部だと少ない印象ですが、ヴェネツィアであればそんな在庫はとても抱えていられなかったでしょう。

結局の所、本がたくさんの人に読まれるためには、本を安価に高速に複製できる技術だけでなく、それを送り届けるための流通基盤が必要となります。そのことは、フレデリック・ルヴィロワの『ベストセラーの世界史』でも指摘されていて、「ベストセラー」という現象は、非常に現代的な出来事だと捉えられます。

そもそもとして、マスメディアというときの「マス」も、そう呼ぶに相応しい人数に向けて「発信」(≒情報流通)させることができて、はじめて規定されるものであって、ヴェネツィアの出版黎明期には意識すらされていなかったでしょう。

現代で「本を書く」とか「出版」などと言うと、全国の書店に配本されて多くの人に読まれるというイメージが付きまといますが、出版の事始めにはそんなイメージは存在していなかったはずです。むしろそれは、現代で言えば、「これを作れば売れそう」という商業主義的なノリと、「これを作ったら楽しそう」という同人誌的なノリが、微妙なバランスで交じり合ったイメージだったのではないでしょうか。

そうは言っても、そうした黎明期の出版事業が一端としてあり、現代的なマスメディアとしてのパブリッシング(マス・パブリッシング)がもう一端としてあり、人類の歴史は片方の一端から、もう片方の一端へと向けて進んできた事実はあります。マス化に向けて進んできたわけです。

そもそもとして、情報を物理的媒体に書き残すことが、「より広範囲に情報を伝達したい」という欲望の具現化であり、その延長線上に、写本や印刷技術などの技術は位置づけられます。テクノロジーは、情報の広範囲の伝達をより安価に、手軽に行えるように発達してきたわけです。現代ではそこにデジタルメディアが加わり、もはや複製されることが当たり前(≒複製するコストが意識されない)な状況にもなっています。

ここで考えたいのは、商業的な事情です。

写本から印刷本に変わったことで、本の単価は劇的に下がりました。だからこそ、アレッサンドロが指摘した三つの条件(知識層の集中、豊富な資本、高い商業力)が必要だったのです。

それと同じ変化が、デジタルメディアの登場で発生しており、しかもそれはより強く表れています。現代では、より豊富な資本を持ち、より高い商業力を備える企業、つまり巨大な出版社やメディアプラットフォームだけが出版事業として生き残ることが可能でしょう。

とは言え、です。

先ほどの話は「出版事業が成功する」条件の話でした。言い換えれば、「出版」という行為を「事業」として成立させるための話です。

しかし、この二つは密接に結び付いてはいるものの、決して切り離せないものではありません。むしろ、デジタルメディアの出版は、おどろくほど低コストで行えるために容易に切り離せます。なんなら「趣味」で出版してもいいのです。

それは別に、浮ついた気持ちで本を作ればよい、ということではなく、採算のことをあまり強く念頭に置かずに本を作ってもよいのだ、という積極的な意味づけです。そもそもとして、人は趣味ほど真剣に取り組むのではないでしょうか。

こう言い換えましょう。

デジタル出版を視野に入れることで、近代で固まりつつあった「出版」のイメージをいったんリセットして、再出発する。

現代はそういうタイミングにさしかかっているのではないでしょうか。そして、ヴェネツィアで小さな書店を営んでいた人たち(たぶん苦労が多かったでしょう)と、現代でセルフパブリッシングに取り組んでいる人たち(たぶん苦労は多いでしょう)を重ねることで、現代からの出版を、文芸復興ならぬ出版復興として位置づけていく。

そんなことになったら、面白そうではありませんか。

もちろん、そのためには出版人による切磋琢磨と競争が必要なわけですが。

鷹野さんの原稿に続く)

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