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贈り物としての本 #burningthepage

本は死なない』の第七章『読書文化の存在意義』より。

作者はプレゼントを丁寧に包装して読者のもとに届ける。読者はその包装を解いて中に入っていたプレゼントに驚く。

情報論・記号論では、送信者がメッセージの記号化し、受信者がそれを解読する、という一連の流れが提示されます。上の文章は、その図式でもあります。

でも、本当に大切なのは、それが「プレゼント」である、ということです。

私は『ハイブリッド読書術』で、以下のようにこっそり書きました(大切なことをこっそり書く癖があります)。

「本」は、一側面から見れば「売りもの」ですが、別の側面から見れば「贈り物」でもあります。自分で本を作って、自分の本棚だけに飾っておくならば、読む人のことを考える必要はありません。しかし、本が意味を持ち得るのは、誰かの手に届いて、実際に読まれたときです。著述作業は作者ひとりだけで完結し得ますが、本は読んでくれる読者あって完成するものです。

現代の「本」は多面的な存在であり、ある側面だけを切り取ってしまうと、全体像を見失います。

商業出版のレイヤーで見た場合、「本」は売り物です。商品です。利益を生み出すものです。だから、売れた本は偉い、売れる本が良い本だ、という理屈になります。そして、それは間違ってはいません。そのレイヤーでは。

しかし「本」は贈り物でもあるのです。著者から読み手に贈られるギフト。

そのレイヤーでは売り上げの多寡は、あまり意味を持ちません。どれだけ読み手の心の奥に響いたかという__現代の科学では__定量化できない要素こそが重要です。そして、そこではコスト&パフォーマンスなど計算しようもありません。

あなたが愛しい人にプレゼントを贈る際、「3万円のブレスレットだったら、好感度20はアップするかな」なんて考えないですよね。

もちろん、使えるお金には時間があります。それを考慮しないわけにはいきません。それでも、あなたは使えるお金に無理がない範囲で、相手に贈りたい物を贈るはずです。費用対効果の計算なんてさておいて。

本で言えば、著者がその本に使える時間には限りがあります。ボリューム的な制限もあります。全てを贈れるわけではありません。

それでも、著者は自分が贈りたいと思っているものを、精一杯その本に詰めます。相手にギフトを渡すために全力を尽くすのです。それは心躍る物語かもしれませんし、有用な知識、刺激ある未来図かもしれません。何がギフトになるかは、送り手次第です。

でも、ギフトを贈ろうとする心構えは、きっと同じです。

そうして精一杯のものを詰め込むからこそ、__ちょっと気恥ずかしい表現ですが__本には著者の魂が宿ります。だからこそ、読書は魂と魂の対話になり得るのです。

もちろん、全ての本がそうである、と言いたいわけではありません。むしろ見渡してみると、工業製品的な本も最近では少なくないでしょう。まあ、資本主義社会なのだから仕方ありません。

しかし、そうした工業製品的な本は、社会が情報社会化していくにつれ価値を減じていきます。実際の社会で工業製品が価格競争に追いやられているように。

現代で「本」の苦戦が嘆かれていますが、そもそもとして「どんな本を作ってきたのか」は、一度総括されてもよいのかもしれません。

私が想像するに、社会が工業的産業から情報的産業に移行すればするほど、「本」なるものの価値は上がっていくのではないかと思います。もちろんそれが商業出版のこれまでのやり方で作られる「本」とは限りません。でも、著者の魂が刻まれた「本」の価値は、これまで通り、あるいはこれまでとは違った形で光が当たるようになるかもしれません。

情報ネットワークが密になるにつれ、私たちがギフトを贈れる相手は増えていっています。そして、贈与論的世界がそこで成立するならば、人にギフトを贈れる人ほど、価値の循環構造の中に位置することができるでしょう。

もう一つ、蛇足になりますが、「本は贈り物である」という表現は「本は恵みではない」という意味も暗に含んでいます。つまり、万人に等しく注がれる価値あるものではない、ということです。

だって、全ての人に喜ばれる贈り物なんてないですからね。誰かに向けて贈られるものである以上、それを受け取れない人も出てきます。

誰かにとって面白い・有用な本が、別の誰かにとってはまったく無価値に感じられることも珍しくありません。それはもう、どうしようもないのです。

書き手は(できれば読み手も)そういう心構えを持って本に接したいところではあります。

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