第三回 「インターネット的×知的生産の技術」その3 〜答えは誰が出す?〜

前回は、「インターネット的×知的生産の技術」にこれからの社会を生きる上での有用なヒントが見つけられるかもしれないと書いた。そして、そこに落とし穴があるとも書いた。今回は、それを掘り下げてみる。

変化した社会でどのように生きていけばいいのか__これは難しい問題だ。そして、「インターネット的×知的生産の技術」の掛け算からそのヒントが手に入るのだとする。

しかし、どうあがいても、そこで手に入るのはヒントでしかない。ヒントというか考えるきっかけや補助線のようなものだ。

これから僕は、いろいろなことを書いていくつもりでいる。もちろん、できるだけ有用なものをそこに含めようと思っている。しかし、どうしたってそれはヒントにしかならない。

別に出し惜しみしているわけではない。隠しておいて価値が上がるのを待っているわけでもない。単に、提示できる最高のものがヒントでしかないという話なのだ。

だから僕が提出することを、正解のように捉えてもらっては困る。答えのように考えてもらっても困る。提示されたヒントを用いて、自分で考えてもらうしかない。うんうん唸りながらでも、自分が納得できる答えを見つけ出してもらうしかない。

なぜなら、それぞれの人が抱える人生の問題は、一人ひとり違うからだ。だってそうだろう。置かれている環境や、自分の能力、それにやりたいことがまったく同じなんてことはない。だからそれぞれの人が、役立ちそうなヒントを使いながら、自分なりの答えを出すしかない。同じ問題用紙に同じ条件で向かう試験とは違うのだ。

それが、自由な生き方ができ、さまざまな選択肢が提示される現代の難しさである。もちろんそれは豊かさの象徴であったりもするわけだ。

おそらく、この転換こそが一番大きな変化じゃないだろうか。光り輝く「答え」があり、それを手にできたら万事OKという考え方は、「前の時代」の名残でしかない。そこから脱却しないことには、どうにも動きようがないだろう。そして、その脱却こそが一番大切なはずである。

とりあえず、そういう自由で困難な時代で、僕たちはどのように生きればいいのか。それが本連載のテーマだ。

さて、社会が変化するときに困るのは、適切なロールモデルが存在しないことである。逆に言おう。社会の変化とは、これまでのロールモデルがその意義を失う状況のことを指す。

20年前の社会状況に最適化された処世術は、現代では役に立たないだろう。もしかしたら、まだそれが有効な楽園がどこかには残っているかもしれない。そしてこぢんまりと続いていくのかもしれない。でも、それは日本全体には拡大できないし、国民全てにも(もちろん、そこにはあなたも含まれるわけだ)敷衍できない。

そもそも昔の日本で、そんなロールモデルが機能していたのかを僕は怪しんでいる。それが機能しているという前提のもとで、社会が回っていただけなのかもしれない。良い大学を卒業して、一流企業に勤めあげ、定年後は悠々自適の生活。そんな経験をしている人が、日本国内にはたして何人いたのだろうか。もしかしたら数%ということもありえる。そこまで低くなくても、50%を下回っていたとしたら「一億層中流」なんて、戯言でしかない。

少なくとも、「一億層中流」は意識の話であって、実際の生活レベルの話ではなかったはずだ。その意識はマスメディアによって生み出され、維持されていた幻想だったのだろう。

そして、その幻想はきちんと機能していた。もちろん、幻想としての機能をだ。ある程度まで皆が豊かならば、あるいは豊かさが増えていく実感があるのなら、その幻想に人生を託すことはできた。それを「答え」と信じることができたのだ。

でも、実際のところ、中流といってもピンキリだっただろうし、まともに生活するのがやっという人だって少なくなかったはずだ。でも、そんなことをいちいち言い出すと「皆が似たようなもの」という幻想が消え去ってしまう。

消費と生産の観点からすれば、一億層中流というのはとても扱いやすい。なにせ同じようなものを作っていれば、それをたくさんの人が買ってくれるのだ。

結局のところ、「中流」に要点があるのではなく、「一億総」という部分が大切なのだろう。大量生産・大量消費の産業には、そんな文化的傾向がぴったりフィットする。そう考えると、産業の要望に沿う形で、私たちの生活や文化が形作られてきたのかもしれない。コモディティーを生産し、消費するためのコモディティー的人生。

物の豊かさが足りていない時代では、物を作る方が力を持つ。おそらくは、そういうことだったのだろう。が、現代はそういう時代ではなくなっている。

もちろん、そうした「歴史」を単純に批判しても意味がないだろう。僕たちが今手にしている豊かさはそういったものに支えられてきたのだ。そして、人生の「芯」となるものも、そこでは生まれていた。そういうものがまったくなくなってしまうと、人は生きていくのがすごくつらくなる。だからたとえそれが棒であれ藁であれ、埋めるべき何かが必要なのだ。

最近、一億総活躍なんて冗談みたいな言葉を耳にするが、まったくもって冗談になっていくだろう。働き方ひとつとっても、現代ではさまざまなバリエーションが存在している。まあ、実際のところそれは昔から存在していたのだ。ただ、それをマスメディアが話題にしなかったので、なかったことにされていただけに違いない。どちらにせよ、僕たちは選択肢をたくさん持っている。そういう自覚も持っている。これは、やっぱり変化と言えるだろう。

同じように、これからいろいろなものが変わっていくに違いない。そして、その変化を直接目の当たりにもするだろう。それに伴って、生きるということにも独特の難しさが出てくる。

自分と自分の周りの人間が同じように生きていたら、それは安心感がある。

でも、今はそういう状況ではない。

そんな複雑でやっかいな状況において、生きるための答えをポンとひとつ提示して終わり、なんてことがどれほど意味を持つだろうか。むしろ僕たちは、そうして提示された「答え」について怪しげに見つめる視線を持っておく方が賢明だろう。そういうしたたかさみたいなものが、これからの生き方では必要になってくる。これは疑り深くなれ、ということではなくて、なんというかソースをしっかり確認しよう、という類の話にすぎない。

不思議なことに、現代の複雑性・多様性を指摘して新しい生き方を提示する人が、単純な答えをポンと提示して終わり、ということをよく見かける。でも、それって「古い答え」はもうダメですから、この「新しい答え」をあなたに与えましょう、と言っているだけなんじゃないだろうか。それってどこか変だ。ねじれを感じる。

必要なのは、誰かから与えたれた「答え」ではなく、自分で見つけ出した「答え」だろうし、もっと言えば、それを自分で見つけるための力なのではないだろうか。そうした力ではなく、代わりの「答え」を差し出すのは、結局古いパラダイムに人を押し留めることになってしまう。

きっと、これから生きていく上では、いろいろな判断基準を持つことが必要だろうし、それ以上に「自分で決める」ということに慣れていかなくちゃいけない。それは結構しんどいものだが、慣れてしまえば、そして腹をくくってしまえば案外できるものである。

問題があるとすれば、その「慣れるための場」があまりにも少ないことだ。そして、それに対するヒントもやっぱり「インターネット的と知的生産の技術」に眠っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?