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思いの管理、行動の管理/比較ツール論 Evernote編その1/カテゴリよさらば/Slackへのお誘い

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2019/01/28 第433号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。 毎度おなじみの方、ありがとうございます。

先週に引き続き、ゲラが返ってくるまでの間に、まき直しを進めています。

まず、Honkureの更新をじわじわと再開しました。

◇Honkure – 本を読めば日が暮れる、本を書けば日が昇る。
http://honkure.net/rbook/

読み貯めていた、異世界転生もの/異世界ファンタジーの漫画を中心に上げています。実用書・ノウハウ書系はR-styleへのアップになりそうです。

つぎに、「かーそる第三号」の制作。目標は二月中発売で、現状はラフ稿のその一歩手前ができたところ。あと、編集長として書かなければならない文章が二、三残っていますが、それ以外はだいたい素材が揃っているので、あとは編集作業を進めていくだけです。

残すは、『僕らの生存戦略』の進行と、『断片からの創造』の下地作りを進めたいところですが、そこまではまだ手が回っていません。もう少し落ち着いてからになりそうです。

で、こうしていろいろやっていると、妙にゲームをやりたくなる気持ちが薄れていくことに気がつきます。原稿が切羽詰まっているときは、本当に原稿作業ばかりで、ことあるごとに「ゲームに逃げたく」なることが多かったのですが、ここ最近はすっかりそういう気持ちが薄れました。

やはり、「同じ作業をずっとやり続ける」というのは、さまざまな側面から良いことは少ないのでしょう。

〜〜〜Slack〜〜〜

これまで散々「ひとりSlack」というものに挑戦し、そのたびに失敗を経験してきたわけですが、たまたま複数人でSlackを使い始めたところ、おどろくほどよく利用するようになりました。

そもそもSlackは、グループのためのツールなのですから、当然の結果なのかもしれませんが、「誰かがいるかもしれない、見ているかもしれない」という感覚は、(少なくとも自分にとっては)とても強い力を持っているのだなと、改めて感じました。

私はLINEを触ったことがないのですが、グループチャット的な楽しさがそこにあるのなら、皆がそれを使うのもなんとなくわかる気がします。あんまり濃度が濃いと疲れそうですが。

〜〜〜未読・既読管理はどこにいった?〜〜〜

去年末くらいから少しずつEvernoteの運用スタイルを変更している話はたびたび紹介しました。簡単に言えば、普段使うノートブックを一つに限定するやり方です。

で、そのやり方に馴染みつつあるのですが、あるときふと気がつきました。「既読管理がなくなっている」、と。

それまでのやりかたはこうでした。まず、買った本はメディアマーカーに登録する。するとメディアマーカーの機能で、自動的にEvernoteにノートが作成される。そのノートを「知的欲望」というノートブックに移動する。このノートブックが、「未読本リスト」の代わりになる。

で、本を読了したら、そのノートを「Medialog」ノートブックへと移動する。このノートブックが「既読本リスト」の代わりになる。

このように、「知的欲望」ノートブックを覗けば、未読本の一覧が手に入ったのですが、ノートブック一本体制に移行したことにより、これができなくなりました。現状は未読本も既読本も同じノートブックに入っています。

仮に、この状況に対策するなら、やはりタグでしょう。最初に「未読」というタグを付けておき、読み終えたらそれを「既読」につけかえる。これで、それぞれのタグが一覧のリストとして機能します。

あるいは、本の情報だけは特別に別扱いして、読了済みの本を移動させるノートブックを作る、という手もあります。これだとタグ付けの手間は減りますが、読み終えた本がたまたま目に入るというセレンディピティ的可能性は失われます。

さて、どちらにするか、と考える手前で私は思いました。「これって、いるかな?」、と。

それまでは当たり前のように、未読本・既読の本の管理をしていたのですが、Evernoteの運用方法を変えて以来それをしなくなり、そして、それをしなくなっていることにしばらく気がついていませんでした。そりゃそうでしょう。なんせ、未読の本は机の周り(とKindleの本棚)に一杯あり、しかも時間と共にそれは増えていくのですから。

つまり、未読本・既読の管理をしていなくても、私が読む本を探すことに困る、ということは起こらないようです。だとすれば、未読本・既読の管理の意義は、二つの要素に絞られます。

意義1:買った直後には読まずに放置され、そのまま存在が忘却されていく本をもしかしたら読む可能性を手にする
意義2:一年の振り返りで、自分が何を読んできたのかを確認できる手段を手にする

まず、「意義1」ですが、現状ノートはすべて時系列で固定されているので、三ヶ月前に買った本は、三ヶ月分Evernoteをスクロールさせない限り目に入りません。「知的欲望」ノートブックに入れていたときは、本の情報しか入っていなかったので、軽いスクロールで数ヶ月分はさかのぼれたのですが、現状では無理です。となると、買ってしばらく放置された本が、再び読まれる確率はほとんどありません。未読本だけを抽出できれば、そういう本に手を差し伸べることができます。

「意義2」に関しては、現状のEvernoteのリストでは、「買った本」が時系列に並んでいるだけで、いつ読んだのかがわかりませんし、読み終えたどうかもわかりません。情報量としてはやや不足しています。

こうして考えてみたときに、「意義1」の役割はそんなに強くないなと、思い至りました。たしかに以前は、週次レビューで「知的欲望」ノートブックを読み返し、「そうだこの本を読むつもりだったんだ」と発掘していた事例もあったのですが、頻度としてはそれほど高くありませんでした。なくなったらなくなったで別に構わないかな、という印象です。

「意義2」についてはたしかに情報が欲しいのですが、「既読」のタグを付けただけでは日付の情報はわからないので、この管理とは別に既読本のリストを作っていく必要があります。

ということを、総合的に考えると、別に「自分がまだ読んでいない本のリスト」は、あえて手間を変えて作らなくてもいいんじゃないか、という結論に達しました。

Evernoteにおける書籍・読書情報の管理手法はまだ定まっていませんが、ぼちぼち全体の再構築が必要になりそうです。

〜〜〜自分の名前〜〜〜

私の名前は「倉下忠憲」なのですが、正直なところ、この漢字四文字を目にしたときの「自分のことである」という感覚は、「Rashita」という7文字を目にしたときに感じる感覚よりも、たいへん小さいものです。

もちろん、その四文字が自分のことを指していることはわかります。自分という感覚もあります。しかし、薄いのです、少なくとも「Rashta」という文字に比べれば薄いです。

もちろん、それはネット中毒だからなのですが、もう少し精緻に見ていくと、本人認証が関わっていることがわかります。たとえば、つい先日姪っ子が入院するというので、入院の保証人として書類に名前を書きました。当然漢字四文字の方です。

で、それを書いたのが実に久しぶりだと思い出しました。私は普段、社会生活的なことをほとんど送っていないので、自分の名前を書くことをまったくしないのです。ポイントカードやアンケート類は一切断りますし、自分で病院に行くことも稀です。何かの会員になったり、書類にサインを求められることもありません。

これが私がコミットしたものですよ、ということを示すために漢字四文字の名前を使う回数が極めて少ないのです。

一方で、インターネットです。ログインするたびに、Rashita(やそれに近しいID)を入力します。あるいはその名前の代わりにGmailのアドレスを入力します。その入力が、私がコミットしたものですよ、として使用され、認識され、実行されるのです。

「これが私の名前である」という感覚は説明が難しいところですが、その言葉を個人認証のために使っていないと、徐々に自分の中の実感は薄まっていくのではないか、というのは言えるかもしれません。

〜〜〜トロッコ問題の恐怖〜〜〜

トロッコ問題、というのがあります。詳しくはググッてください。

で、トロッコ問題は、倫理的な問題の提示なのですが、たとえば、「偉い哲学者さんが、一人(ないしは5人)を殺す方が倫理的なんだ」と言っていたから、自分はそうする、といって何の葛藤もなく、決断してしまう人がいるとしたら、それは結構怖いことだと思います。

「答え」って、そういうときにはあんまり役に立ちません。もちろんそれは、「役に立つ」という言葉の定義しだいなのですが。

〜〜〜見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を四冊紹介します。

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 「社会秩序はいかにして可能か」をめぐるhowの問いとwhatの問い。この社会学の根本をめぐる問題をあらためて問い直す。
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 ヘンペルのカラス、アキレスと亀、絞首刑のパラドックス、モンティホール問題……面白いパラドックスから哲学的思考を学ぶ入門書
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 論理学って、こんなに面白かったのか! 出来あいの論理学を天下り式に解説するのでなく、論理学の目的をはっきりさせた上で、それを作り上げていくプロセスを読者と共有することによって、考え方の「なぜ」が納得できるようにした傑作テキスト。初歩の論理学が一人でマスターできる。
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 あなたがより高い成功や業績、より大きな幸福を手にしたいと思うならば、物事を大きく考え行動することだ!考えの枠を広げる方法を説くシュワルツ博士の名著。
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〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけですので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 本は自宅で読まれることが多いでしょうか、それともそれ以外の場所でしょうか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週は3つの連載と1つのお知らせでお送りします。

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2019/01/28 第433号の目次
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○「思いの管理、行動の管理」 #BizArts3rd
 有名な二つの手法を対比してみます。

○「比較ツール論 Evernote編その1」#比較ツール論
 新連載(ハッシュタグ)です。

○「カテゴリよさらば」 #物書きエッセイ
 いかなる本を作っていくのか、についてのお話です。

○Slackへのお誘い
 最近はじめたSlackワークスペースについて。

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

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○「思いの管理、行動の管理」 #BizArts3rd

GTDとタスクシュートという二つの手法があります。

大きな括りでいえば、どちらも「タスク管理」の一手法ではあるのですが、それぞれの指向性はまったく異なります。

今回は、その違いについて考えてみます。

GTDもタスクシュートも、どちらも「行動」の「管理」を試みようとしています。

しかし、この「行動」(タスク)は、いくつかの側面を持ちます。一つは、現実の私たちがとる行為そのものとしての側面。もう一つは、その行動を表す情報としての側面です。

「コピーを五部とる」

というこの表現そのものは、間違いなく一つの情報です。そして、その情報が意味するアクションは一つの行為と言えます。

つまり、タスク管理によって管理されるとき、タスク(あるいは行動)は、情報としての側面と、行為としての側面の両方を持っているわけです。

そして、GTDではその情報的側面が強調され、タスクシュートでは行為的側面が強調されます。これが情報的視点から見たときの、二つの手法の違いです。

GTDもタスクシュートも、どちらも未来の行動を多少なりとも制御しようとする点では、共通項を持っています。しかし、整理しようとする対象は大きく違っています。

GTDが管理する対象は、「やろうとしていること」です。これは最終的には行動として実行されますが、その前段階では情報として扱われます。言い換えれば、それは思考/思念/思案/心情/心象と表現はいろいろありますが、頭の中に浮かんでいる〈思い〉そのものです。

つまり、GTDが管理するのは、「頭の中」です。

GTDは、「ストレスフリーの整理術」という邦題で解説書が大ヒットしましたが、これは非常に適切なネーミングだと言えるでしょう。なにせストレスフリーを実感するのは、「頭」だからです。解説書でも、「水のような心」を求める旨が示唆されていますが、それは行動の話ではありません。「状態」です。もっと言えば「頭の状態」です。

そして、頭の中は、基本的にはバラバラに飛び散っています。私たちの〈思い〉は、連想でつながり、そこには体系だった理路がありません。それを組織化することが、GTDの眼目です。

点でバラバラに飛び散っている〈思い〉を組織化する。もっと言えば、複数のリストを使うことで、階層化する。

これがGTDがやろうとしていることです。

ここで、なぜリストによる階層化を行うのかの説明が必要となりますが、その話は次回にまわして、ここでは次にタスクシュートに話を移します。

■タスクシュート

タスクシュートも、今の時点から見て未来の自分に作用を与えようとしますが、その対象は〈思い〉ではありません。実際に取り得る〈行動〉です。

もちろん〈思い〉の要素が皆無なわけではありませんが、その重みはたいへん小さく、もっと言えば小さくなるように設計されています。

私が何かしら巨大な夢を抱いていても、タスクシュートの中身が劇的に変わるわけではありません。そこに残される記録は、私たちの日常を支配する多くの繰り返しでしょう。

私が「こうあろう」と思っていても、──その〈思い〉を抱えてながら進行している──日常はたしかにそこにあり、それが私たちの日々を、もっと言えば人生を形作っています。

その〈行動〉に注目し、最適化(という言葉すら〈思い〉が強すぎるかもしれません)していくこと。

それがタスクシュートの眼目です。

よく言われるように、「夢は無限大」ですが、そうはいっても人間は有限の存在です。だからこそ、タスクは無限に増殖するのですが──やりたいこと>できること の構図が崩せないので──、あまりそちらの方に進んでいかない点に、タスクシュートの特徴があります。

でもって、意識がどう分散しようとも、私たちの肉体は一つであり、一時期に取り得る行動も一つです。だから、タスクシュートには一つのラインしかありません。〈行動〉の観点から見れば、複数のリストは必要ないわけです。

もう一つ、タスクシュートが一つのラインにすべての〈行動〉を載せていることには、別の効能があります。

それが「時間の心の会計効果」の相殺です。

人間の心の勘定(計算)というのは不思議なもので、あることに使う時間と、別のことに使う時間が独立してしまうのです。

たとえば、Twitterで気になるゲームの情報が流れてきて、それをダウンロードしてプレイして30分ほど使ってしまったとしましょう。しかし、そのとき、たとえば仕事する時間が30分少なくなったような気持ちはあまり湧いてきません。あるいは、仕事が遅れるせいで、睡眠時間が30分短くなるような気持ちも湧いてきません。

まるで、別の財布から「ゲーム時間代金」が支払われたような感じがしてしまうのです。

もちろん、それは強度の強い錯覚でしかありません。あることに時間を使えば、別のことをするための時間が減るのが現実の結果です。しかし、それを感じにくいバイアスを人間は持ちます。

だからこそ、たった一つのラインに一日の行動を集めるタスクシュートは、その別会計的計算が錯覚であることをはっきりと、いっそ残酷なまでに私たちに示します。そして、より適正な時間の使い方へと(本人がそう望む限りにおいて)導いてくれます。

おそらくこの二点が、タスクシュートが特定の層には人気がない理由なのでしょう。一つには、「夢は無限大」という〈思い〉を抱かせてくれないから(ときにそれを否定するから)。もう一つには、心の別会計を封鎖し、時間の有限性を私たちにつきつけるから、です。

このあたりについては、価値観的な意味での「合う合わない」はきっとあるでしょう。なにが正解というのはありません。

というわけで、最も基本的なところにおいてGTDとタスクシュートは異なっています。どちらが「正しい」というわけでも、巧拙があるわけでもありません。

何かの基準を設定したときに、より「効果的」な方法はあるでしょうが、その基準の選択は個人の自由に任されています。かならず、こうしなければいけない、という規律が立つことはありません。

それでも、〈思い〉を抱えすぎると重いので(ダジャレではありません)、少しは荷を下ろす練習はした方がよいでしょう。その意味では、時間の有限性を(引いては人間の有限性を)自覚させるツールに多少でも触れておくのは有用です。

というわけで次回は、後回しにした〈思い〉の整理とリスト作りについて考えてみます。

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