第六回 ブログの歴史と物語

少し前の記事になるが、ブログ「ネタフル」のコグレさんが、とある対談で興味深いお話をされていた。ちなみに当連載では、少し前の記事や話題を中心に扱っていく。逆に言えば、最新の話題をホットなタイミングでは扱わない。少し落ち着いて考えてみる、というのが本連載の隠れテーマでもあるからだ。

話が逸れた。コグレさんは次のように述べられている。

コグレ:そしてできれば、1回限りのイベントではなく、継続して関係を育てていただきたいなと思います。前編でも述べたようにブログの魅力は、歴史と物語があること、これに尽きます。続けることでよりよい関係が築かれ、物語が積み上がっていく。そうしてますます、ポジティブな情報が広がりやすくなっていくのです。

個人メディアの進化と見直されるブログの価値:後編 - 電通

「ブログの魅力は、歴史と物語があること」

とても良い言葉だ。そして真実でもある。長年続けてこられたブロガーだからこそ、この言葉はすっと胸に落ちてくる。

まず、逆に言ってみよう。歴史と物語が生まれないようであれば、別にわざわざブログを使う必要はない。うん、これもそうだろう。さらにもう一歩踏み込んでみる。

ブログというメディアの真価を最大限に発揮させるには、歴史を重ね、物語を紡ぐように意識するのがよろしい。

よし、今回のテーマが出てきた。上の文からは、三つの疑問が生まれてくる。良い兆候だ。新しい問いを生まないのならば、一体考える必要なんてあるのだろうか。問いこそが、思考の駆動力である。

話が逸れた。三つ挙げる。

・その1 「歴史」と「物語」とは何か?
・その2  それはどのような力を持つのか?
・その3  どのようにしてそれは生まれてくるのか?

「歴史」と「物語」

考えてみると、人はそれぞれ「歴史」と「物語」を持っている。「歴史」は別に言うまでもないだろう。30年生きてきたら、30年の歴史がそこにはある。

では、「物語」はどうか。これも皆持っている。別に突飛な体験である必要はない。時間軸に沿って変化する要素があれば、それで十分である。そもそも、私たちが持つ「自分」という感覚そのものが「物語」とも言える。それは単なる事実の保存庫ではない。そこには弱いストーリーとも呼べる何かが含まれている。

だから、ブログが歴史と物語を持っているのも、そんなに不思議なことではない。ある人が、自分の人生をブログに重ね合わせていけば、自然に歴史と物語は生まれてくる。

こう考えてみよう。写真が一枚ある。その一枚の写真でわかるのは、その人の外見や雰囲気といったものだ。そして、それだけである。でもそうした写真がたくさん含まれたアルバムがあったらどうだろうか。きっと、その人のひととなりがより深く見えてくるだろう。

そして、そこからは、歴史や物語が感じ取れるはずである。

もしかしたら、ある人は食べ物の写真ばかりかもしれない。別のある人は家族と一緒の写真でいっぱいかもしれない。あるいは、自分が写った写真が一枚もない、という人もいるだろう。

どのようなものであれ、どうしたってその人の何かを表現はしている。そして、そのことが重要なのだ。

「歴史」と「物語」が持つ力

こうしたものを「メディア的」な側面から考えてみる。なんといってもこの連載は≪「メディア的」に生きる≫なのだ。

≪「メディア的」に生きる≫とは、何かと何かをつなぐように生きていくということだと書いた。つまり、媒体的あるいは媒介的に生きるということである。

では、媒体的な存在からみて「歴史」と「物語」、そしてそこから生まれる関係性はどのような意味を持つだろうか。

わかりやすいように、ニュースを例にあげよう。

伝えたい情報が、もともとニュースバリューを持っているものだったとしよう。なら話は簡単である。そこには「歴史」も「物語」も必要ない。だってそうだろう。iPhoneの最新機種の情報が載っているなら、それがどんなブログであるかは大して気にならない。情報がそこにあれば十分である。

だから、ニュースバリューがあるネタを扱っている限り、ややこしいことは考えなくていい。ただただ早く、あるいは詳しく、情報をてきぱきと載せていれば、情報と人をつなぐことができる。

では、自分が良いと思ったインディーズのアーティストだったらどうだろうか。その良さを伝えるために、ブログで記事を書いたとしたら。

もちろん、もともとそのアーティストに興味がある人になら、情報をつなげられるだろう。でも、それはあんまり意味がない。あなたがきっとやりたいことは、そのアーティストの魅力を知らない人に、思う存分知ってもらうことだろう。

しかし、そのアーティストの魅力を知らない人は検索しようとも思わないし、そもそも検索に使うキーワードすら持っていない。そうしたものを伝えるためには、何かが必要になってくる。ニュースバリューを持たない情報に、価値を与える何かが必要になってくるのだ。

それが「歴史」と「物語」から生じる、関心やコミット、そして信頼というものである。

文脈外のあたらしいリンク

メディアが「歴史」と「物語」を持ち、そこに関心・コミット・信頼といったものが宿ると、あたらしいリンクを生むことができる。検索の文脈外にあるあたらしいリンクだ。どういうことだろうか。

私がiPhoneについて検索する。そしてiPhoneについて知る。それはたしかに情報をつなげてはいるが、私の文脈は豊かにはなっていない。単に欠落した情報が補完されただけだ。

でも、たとえば毎日読んでいるブログで面白そうな本が紹介されているのを見かけた場合はどうだろうか。私はもともとそんな本の存在は知らなかったし、もちろん検索しようとも思っていなかった。つまり、自分の中に検索ワードを持っていなかった。それは、私がそうした情報の文脈を持っていなかったことを意味する。

仮に、そうした情報と出会えたのならば、それはあたらしいリンクを生んだ、と言えるだろう。

それが一体どれくらい素晴らしいことであるか想像できるだろうか。それが、どれほど人間を、あるいは人生を豊かにしてくれるかイメージできるだろうか。そうした行為には、自分の人生の時間を投下するだけの価値がある。

どのようにしてそれを生むのか?

あたらしいリンクを生むためには、ニュースがもともと持っているバリューに頼っていてはいけない。もちろん、それを利用するのは構わないが、「歴史」を持ち、「物語」を紡ぐことが必要になってくる。そのようにして、自分のメディア自身に他の人をつなげていくのだ。

おわかりになるだろうか。人と情報をつなぐために、その準備段階としてまず自分のメディアと人をつなげるのだ。それがつながったら、文脈外の情報をつなげる準備が整う。あとは、メディアの使い方次第だ。

「歴史」を持ち、「物語」を紡ぐといっても、別に5年も10年もブログをやらなければいけない、ということはないし、小説風の文章を書かなければならない、というものでもない。

アルバムの話を思い出して欲しい。淡々とでも、自分の興味をコアにした情報を載せていくだけで、そこに「歴史」と「物語」が立ち上がってくる。もう少し言えば、「歴史」と「物語」を読み取ってもらえる情報が揃い始める。

ただし、一定期間の継続はどうしても必要だろう。一枚の写真では、わかることは少ない、というのと同じ理由だ。毎日更新しなくてもいいし、長い休止期間があってもいい。でも、それなりに続けていくこと。それが肝要である。

なぜならば、ここで言う「歴史」や「物語」は客観的に存在するものではないからだ。むしろそれは、読み手が感じるもの、読み取るものなのだ。

断片的や単発なメディアからは、人は歴史や物語を「読み取る」ことはしないし、できない。この点は忘れてはいけないだろう。

10年続けていても、はじめて読む人にとってはそのブログははじめてのブログとなる。そこにまだ歴史はない。でも、そのブログに何度か触れていくことで、少しずつそのブログの歴史や物語がその人の中に刻まれていく。そして、そこから生まれ出てくるものがあるわけだ。

さいごに

載せる情報にもともとニュースバリューがあったり、あるいは感情を強く刺激するようなネガティブな要素があったりすると、情報は比較的伝わりやすい。それは、単にそういう情報を扱っているというだけで、メディアそのものがどう、という話とは関係がない点には注意されたい。

そうしたメディアの在り方が悪い、というわけではない。それも一つのスタンスだろうし、いろいろな在り方が合ってもいい。ただ、それが「唯一の成功法則」みたいに考えるとややこしくなってしまう。

もし、自分がそういう話題に一切興味がないのなら、無理してそういう情報を扱っても、ほとんど意味がない。むしろ、時間の無駄である。

≪「メディア的」に生きる≫というコンセプトで提出していきたい情報は、「あなたは誰なんですか?」という問いに結びつく情報だ。

この人が言っていることに興味がある。次にどんなことを言うのか気になる。

そういう関係を築くことができたら、あたらしいリンクを生み出していくことができる。そして、それを支えるのが「歴史」と「物語」なのである。

ブログは、そうした関係性を築いていく上で非常に有用なツールである。それ以外の使い方ももちろん可能だが、個人がこの社会で生きるということを普遍的に考えた場合、こうした使い方こそ注目されてしかるべきだろう。

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