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シェイクで文章を書く/『僕らの生存戦略』の手書きメモ/バレットジャーナルとアイデアメモ

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2019/04/29 第446号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。
毎度おなじみの方、ありがとうございます。

さてさて、ゴールデンウィークです。聞くところによると、10連休らしいですね。めちゃくちゃ長い休みです。

とは言え、フリーランスの私にはまったく関係ありません。というか、日中の空いたカフェを探すのが困難になる、という意味で、マイナスの影響があるくらいです。

そもそも、こうした大型連休には良い思い出がありません。コンビニ店長時代には、

・お客さんが多いのに
・スタッフに欠員が多く
・おつりの準備なども大変

という頭の痛い課題を抱えていました。

お正月休みでもスタッフ不足の問題は発生するのですが、そもそも客数が少ないので、案外のんびりと仕事をしていられます。しかし、GWは違います。GWは戦場です。スタッフがたくさん必要なのです。

みたいなことをここで力説しても仕方がありませんが、以下のTwitterのアンケートを見る限りでは、

連休に良い思い出がない人は、私以外にもきっと23%くらいはいるのだろうな、と思います。

〜〜〜はてなダイアリーからの移行〜〜〜

「はてなダイアリー」が終了するという話は小耳に挟んでいたのですが、どうせしばらく触っていないし、そのまま消滅でいいかと、まったく放置していたところ、はてなさんからメールがありました。「兄貴、はてなブログに移行しときましたぜ」という雰囲気のメールです。

そのメールを読む限りでは、どうやらはてなダイアリーの記事が自動的にはてなブログに移行される処置が行われたようです。で、以下のブログが勝手にできていました。

2012年で更新が止まっていますが、読み返してみると懐かしい気分が湧いてきました。今とは随分変わってしまったものがあり、今でもぜんぜん変わっていないことがあります。そういう差異をたしかめられるのが、記録のいいところですね。

とは言え、もう上のブログを更新していく気力もあまりありませんし、そもそも細かい文章はすべて発想工房にアップしているので、上記のブログから「これは残しておこう」というものを発想工房に移動させて、このブログ自体はこのまま放置となりそうです。

〜〜〜いきおいだけのフリーランス〜〜〜

たまに「フリーランスとしてやっていくためにはこれが必要!」のようなツイートがタイムラインに流れてきて、それを読むと「ふむふむ、たしかにそうした知識や技術があればよさそうだな」とは思うのですが、問題は、私自身がまったくそうした準備をせず、えいやとほとんど勢いだけでフリーランスになってしまっていることです。

たしかに業務に必要な知識などはたくさんあるのですが、そうしたものはフリーランスになってから勉強しました。請求書の書き方も、税務処理も、どうやって「自分の仕事」を作っていくのかも、必要に応じて、つまり場当たり的に学んできました。

それでなんとかなっちゃっているのが現状です。もちろん、生存者バイアスではあるでしょう。

で、意識的に集めているわけではないものの、私をフォローしてくれている人にもフリーランスの方が結構いらっしゃって、そういう方たちもどうやら、「なりゆきまかせ」とか「仕方なしに」とか「勢いだけで」で、──つまりしっかり準備を整えてではなく──フリーランスになられている様子。もちろん、それだって生存者バイアスかもしれません。

でも、と私は思います。

フリーランスにとって必要なのは、完璧で十全な準備ではなく、必要なことをその場その場できちんと学んでいく姿勢なのではないか、と。

いやむしろ、しっかり準備したんだから後は心配しなくても大丈夫的に「安心」してしまって、変化が止まってしまうことが、一番マズイのではないか、と。

フリーランスという不安定な職業形態でやっていく以上、常に不安と隣り合わせで生きていくしかありません。それとうまく付き合い、ときに乗り越えていく力こそが、フリーランス生活を支えていくような気がします。

〜〜〜うっかりショートショートを、書く生活〜〜〜

午前中にタイムタイムラインを見ていたら(日常茶飯事ですな)、以下のツイートが目に飛び込んできました。

2000字、ショートショート、SF。私の得意分野(嘘)ではありませんか。

で、自分だったらどんなタイトルの小説を書くだろうかなと、Scrapboxでタイトルのブレストして5分ほど遊んでいたら、なんとなくイメージが湧き上がってきました。一つの星が、冷たく、冷たくなっている情景です。なぜ、その星はそんなに冷えてしまったのか。

そう考え始めたら、もう止まりません。そこから一時間ほどで、一気にショートショートを書き下ろしてしまいました。

ただし、書き終わってみると、これはあんまり「小説」とは言えないな、ということでオルタニアさんには投稿せずに、自分のブログにアップしておきました。

で、朝のゴールデンタイムを、仕事とぜんぜん関係ない執筆に時間を使うのは、もちろん「脱線」なわけですが、それが脱線と評されるのは、前のメルマガにも書きましたが、「私は一日をこういう風に使う」という事前の想定があるからです。

その想定通りに動くことが、効率的であり、「成果」を最大にするためには必要なのかもしれませんが、だからといって、上記のような活動があまりにも強く「脱線」だと(それはいっそ倫理違反であるかのように)感じられることは、なんとなく窮屈な感覚があります。

ですので、一日の最初にその日のタスクリストは作りつつも、あまり強くそれに縛られすぎないように気をつけています。

〜〜〜Dynalistのゾクゾクパワーアップ〜〜〜

◇March update: new mind map view (not a joke!) | The Dynalist Blog
https://blog.dynalist.io/2019-march-update/

◇Recurring dates | The Dynalist Blog
https://blog.dynalist.io/recurring-dates/

Dynalistに新しい機能がどんどん追加されています。基本的にプロ機能(有料ユーザーのみが使える機能)ではありますが、ツールが発展していくのを見るのは、なかなか楽しいものです。

が、しかし。

そうやって、どんどん新しい機能が追加されていく風景は、なんとなく過去の知的生産ツールが辿ってきた道を彷彿とさせて、若干不安になってきます。

でもまあ、有料ユーザーが増えないと、サービスを維持するのも難しくなるので、この辺は難しい問題ですね。

〜〜〜今週見つけた本〜〜〜

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 言語の本質を対義的概念とみなして、その構造が出来事の矛盾の構造と相応関係にあることを洞察する。バークのレトリック観に魅せられた筆者。フーコー読みをへて、やがて“文字/声”の区分を思考の補助線として位置づけ、伝達媒体の相異が「近代的知/ルネサンスの知」という分節とパラレルな関係にあることを主題化する。
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 コミュニケーションについて問うことは、人間とは何か、について考えることである。
 コミュニケーションはいかにして可能かという問いに切り込む「沈黙の双子」、認知科学や人工知能におけるフレーム問題という難問に挑む「ロボットのジレンマ」、思弁的実在論の検討、さらには脳科学、精神分析における無意識、心理学や精神医学と社会学との接点に浮かび上がる諸問題を鮮やかに考察し、多彩な視点からコミュニケーションの本質に迫る。
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 >>
 人間は競争に勝つために、他人をあざむくだけでなく自分をもあざむく。しかも本人が意図しなくても、脳が勝手に理由づけをし、人を動かすのである。AIと予測市場理論の気鋭研究者が不可思議な動機の正体を科学的に解明。
 <<

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. フリーランスに憧れますか。現在フリーランスの人は組織に属することに憧れますか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。

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2019/04/29 第446号の目次
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○「シェイクで文章を書く」 #知的生産の技術

○「『僕らの生存戦略』の手書きメモ」 #物書きエッセイ

○「バレットジャーナルとアイデアメモ」 #ノーティングの技法

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

○「シェイクで文章を書く」 #知的生産の技術

前回は、構成を動かせない執筆が持つ苦しさについて書きました。

正直なところ、そういう文章の書き方は、「不自然」な印象があります。もちろん、文章というのはすべて人工物なわけですから、すべての文章は不自然だと言えるのですが、それとは違った意味での不自然さがそこにはあります。つまり、ナチュラルな頭の使い方から外れている、という感覚です。

人の記憶は連想的であり、また、思考もまとまった形で思い浮かぶことはほとんどありません。支離滅裂だったり、詳細が欠落していたりと、問題は盛りだくさんです。で、その問題が盛りだくさんな状態が人間の思考の動きのデフォルト状態ではないでしょうか。

世の中には、まっすぐに理路整然とした話が、そのまま頭の中からポンっと飛び出てくる人もいるのかもしれませんが、私の印象だと、そうした人は稀です(類は友を呼ぶバイアスの可能性はあります)。

もし、そうしたことが当たり前にできないのであれば、最初に筋を作っておいて、その通りに書く、というのは大変至難な活動です。むしろ、書いた後で整えて、筋らしきものを見出す、という方が自然な(≒脳に無理な負荷を掛けない)執筆法と言えるのではないでしょうか。

そこで今回は、構成を後から変えていける場合の執筆、言い換えれば、当初決めた構成に完全に従う必要がない場合の執筆方法をみていきます。

ようは、普段私がどうやって文章を書いているのか、というお話です。

■書きながら、考える

まず最初にポイントだけ提示しておくと、要点は〈行ったり来たり〉にあります。Tak.さんの言葉を借りれば〈シェイク〉です。

シェイクについては、『アウトライナー実践入門』が参考になりますし、おそらく今執筆されているであろう本も、未来の参考文献になりうでしょうから、そちらに解説は譲るとして、簡単に言えば「考えてから(固めてから)、書く」のではなく「書きながら、考える/考えながら、書く」を実践する方法論です。

・何かを仮に決める(仮固定)
・それについて書く
・それを読む
・変化が生まれる
・それを仮固定する
・それについて書く
・それを読む
・変化が生まれる
(以下繰り返し)

このように進んでいくのが、〈シェイク〉です。このシェイクは、大きいレベル(章構造)から小さいレベル(文)まで、だいたい何にでも適用できます。

たとえば、以下の二文をご覧ください。

・実際、よく似たことは起こっている。
・実際、似たことはよく起こっている。

最初の一文は、私が1st touchで書き下ろした文です。それを読み返し、二行目に書き換えました。

私が意図していたのは発生の頻度が高いという意味での「よく」だったのですが、一文目では、類似性の高さであるかのように読めてしまいます。だから、「よく」の場所を移動したのです。そして、それを読み返して、「うむ、これなら問題あるまい」と納得しました。

非常に小さいレベルですが、シェイクの手順をなぞっています。

で、こういう文章の書き方は、ごく一般的なのではないでしょうか。最初から完璧な一文を書き下ろすのではなく、まず思うところを書いてみて、それを読んでたしかめ、より良い(と思える)形へと書き換える。その繰り返して、「自分の言いたいところ」へと近づけていく。こういう書き方です。

これは要するに、自分の頭の中が、適切に文を構成する形で、情報を出しているわけではないことの表れでもあります。言い換えれば、自分の脳内に思いつくイメージの順番は、それを読んできちんと意味が伝わる順番とイコールではない、ということです。

だからこそ、いったん書き出してみてから、整えるやり方が良いのです。

■私だけではない

一般的に、自分は「自分の文章の書き方」しか知らず、他の人がどう執筆を進めているのかはヴェールの奥にあるので、上のやり方が本当に一般的なのかはわかりません。

が、私は特殊な立場にあります。かーそるの編集長なのです。

編集長は、書いてもらった原稿を使いEPUBなり紙本用のデータを作ります。で、それをゲラとして読んでもらって修正があれば指示を頂いて、私がデータを書き換える、ということを繰り返します。

で、やっぱり、上のような(≒「よく」の位置を移動させるような)修正がほとんどなのです。簡単に言えば、そこにある文章を、より意味が通る形に書き直す、という行為です。それを繰り返すことで、少しずつ文章の精度アップが進められていきます。

この点からも、頭の中だけでは、文の精度を高められないことがわかります。一度書いてみないと、それをより良い方向に持っていけないのです。

つまり、シェイクは、特殊な方法ではありません。普段から人が文章を書くときに使っている方法を、全体の構造を作るレベルにまで適応しているだけなのです。

■はじめからうまくいくわけがない

執筆者に対するアドバイスとして「はじめからうまくいくわけがない」というものがあるのですが、上記のように考えると、この言葉には二つの意味があることがわかります。

一つは、初心者が大きな成果を達成できるわけではない、という一般的な意味で、もう一つが「ゼロベースからいきなり完成度Maxの文章が書けるわけではない」という意味です。

シェイクは、後者に対するアプローチだと言えるでしょう。

■三つのレベル

さて、シェイク論が長くなってしまったので、さっそく実践的な話に移りましょう。

私が書く文章は、だいたい三つのボリュームに分類できます。

・小規模:2000字程度のブログ記事
・中規模:1〜2万程度の長文記事
・大規模:4万字~10万字の本の原稿

まずは、ブログ記事からいきましょう。

ブログ記事を書くときに、事前に構成を立てることはほぼありません。タイトルすら未定のことが大半です。だいたいは「こんなことを書こう」という思いがあり、それに関する一文を探すところから始めます。

そうして文章をダラダラと書いていき、だいたい2000字くらいになったら、「まあ、これくらいかな」という感じで話をまとめます。あるいはまとめになるような文章を入れます。

その後、見出しをつけてまわります。文章を書いているうちに、ああ、この辺は見出しポイントだなと思うところがあれば、あらかじめそこに見出しを予約しておく(<h2></h2>だけを書いておく)ことはありますが、その場合でも、見出しの中身は空っぽのことがほとんどです。

一通り書き上げてみて、そのブロックを読み返しながら、適切な見出しを考える。あるいはブロックとして成立しそうな部分を探す。そういう手順です。

また、あらかじめ見出しを書いていたとしても、書き終えた後で書き換えたり、他の見出しをつけた後でそれに揃える形で書き直すこともあります。

さらに、すでに並んでいるブロックを入れ換えたり、まるっと削除することもないではありません。さすがに数千記事書いていて慣れているので、全体を再構成する大手術が発生するのは稀ですが、細かい移動なら頻繁に発生しています。

つまり、完成する直前まで、あらゆるものが「仮」状態にあると言ってもよいでしょう。

で、最後にタイトルをつけます。その文章のタイトルにふさわしい言葉を見つけるわけですが、これはメディアによって少し付け方が変わります。つまり、R-styleとシゴタノ!とコンビニBlogでは、言葉の選び方に違いがあります。

どう違うのかは簡単に言葉にはできませんが、それぞれのメディアっぽいタイトルづけは意識しています。

■中規模

1〜2万字の分量であっても、基本的には上のやり方の延長でいけます。ただし、最初に話の構成(のようなもの)は少しイメージします。なぜでしょうか。

それは、全体像を把握するのが少し困難になるからです。

2000字ほどの文章であれば、頭から読み返して何が書かれているのを把握するのはそう難しくありません。時間もかかりませんし、脳のキャパも大して必要ないでしょう。

が、1〜2万字となってくると、少々困難が出てきます。

また、文章が長くなると、文章が明後日の方向に行ってしまう可能性がギュギュッンとアップします。

たとえば、手順が3ステップしかないならば、1ステップで0.2ズレる可能性があったとしても、最大のズレは0.6までです。しかし、手順が30ステップになると、最大2ズレてしまい、それはもうまったく違ったものになってしまいます。

つまり、長い文章をただ連想だけを頼りにして書いていくと、2万字後には「お前、何言ってんねん。ぜんぜん関係ないやないか」な状況になってしまう可能性があるわけです。

2000字ほどであれば、全体を読み返すのは簡単なので、ズレてしまったときにズレていると気づきやすいですが、長くなるとエディタでは前後の部分しか目に入らず、「その部分だけではたいしてズレていないように」感じられてしまいます。で、結局筋の通っていない文章ができあがってしまう。

私は、連想成分がかなり強めなので、こうした「彼方への脱線」を避けて、ある程度の範囲内に話を納めるように、事前に「なんとなく書くこと」の流れをイメージしておく、というわけです。

とは言え、そうしたイメージを作った後は、2000字程度の文章を書く場合とそう大きな違いはありません。階層のレベル自体はほぼ増えていないからです。ただし、作業量だけは結構増えます。文字数が増えているのだから、それは当然です。

■大規模

これが、大規模になるとさらなる準備を必要とします。とても準備ゼロで挑めるものではありません。

まず、ボリュームが増えることで、全体を確認するのはさらに困難になります。2000字ならば、1000文字あたりでちょっと詰まっても、頭から読み返して流れが確認できます。しかし、10万字のコンテンツで、5万字あたりで詰まったら、最初から読み返す、みたいなことはとてもできません。

また、上記に関係することですが、このくらいのボリュームになると、「章」という階層が生まれてきます。

2000字の文章は、文章全体があり、その文章を形作るいくつかの見出しという二階層だったのですが、10万字レベルになってくると、{いくつかの見出しで形作られた}{いくつかの文章}を形作る見出し(≒章)が生まれるのです。

そうした階層が生まれるからこそ、「それぞれの章で言いたいこと」という有限化ができます。つまり、5万字あたりで詰まっても全体を読み返すのではなく、その章部分だけを読み返せば、整合性がとれるのです。

一方で、今度は章同士の整合性を考えなければなりません。結果、2000字レベルと同じパースペクティブでは不十分になってしまうのです。

もちろん、長くなればズレの度合いもさらに増えます。ズレは最大10くらいまでいき、原型を留めないレベルにまで広がってしまいます。

いったん10万字をすべて書いた後、その10のズレを整える作業をやるくらいなら、初めから「この辺を通りましょうね」というラインを引いておいた方がはるかにマシでしょう。

つまり、2万字ずつでラインを引いておけば、それぞれの章でのズレは、2程度で収まり、それなら修正が容易──というより、めちゃくちゃ大変というわけではないレベルにはなります。

最初から一気に長い線を引いていくのではなく(≒ズレが最大化してしまう)、線を引く部分を区切り、それぞれの部分ごとに線を引いていく、そういうやり方で進めていくと、〈行ったり来たり〉がやりやすくなります。

で、それができれば、個々の章の作業は、2万字程度の文章を書く作業に近似できます。あとは、その繰り返しです。

■結局は通して

とは言え、大規模の文章は、いくら章ごとに作業を還元したとしても、最終的には頭から終わりまでを通して確認しなければいけない、という点は変わりません。

以前にも書きましたが、2000字の文章を書くしんどさと10万字の文章を書くしんどさの違いは、+98000字にあるのではなく、〈行ったり来たり〉するときに読み返す文章の量が増大する点にあります。

2000字なら三往復でも、6000字。10万字なら、30万字です。それを読んで、意味が通っているかどうか、メッセージが伝わるかどうかを、文レベル・段落レベル・項目レベル・章レベルで確認していかなければなりません。

と、えらく面倒な作業であるかのように強調していますが、実際にやっていることは、「実際、よく似たことは起こっている」を「実際、似たことはよく起こっている」に直すような細かい修正の積み重ねです。

言葉を換え、表現を換え、順番を換え、見出しを換える。そうしてできたものを読み、「自分が言いたいことがこの文で伝わるだろうか」と考えること。基本的にはその繰り返しでしかありません。

で、それを愚直にやっていると、自然と事前に立てていた構想は変わってきます。自分が引けたラインに合わせて、完成図を修正するのです。

もちろんそれは、失敗でもなんでもありません。私がいいたいことがそこに現れているならば、誰がなんと言おうがそれは(一つの)正解です。単に、自分が最初にイメージしていた切り方に誤謬があっただけに過ぎません。

しかし、たとえ誤謬があろうとも、何かを表してみないことには修正はできません。それは、「実際、よく似たことは起こっている」を実際に書き出してみないと、「実際、似たことはよく起こっている」に書き直せないことと相似です。

作業自体の手間はたいへん大きく、人によってはうんざりしてくるかもしれませんが、私は「あらじめ作った構成をかえられず、その通りに書かなければいけない」ことに比べれば、ずっとずっとマシだと考えています。

みなさんは、いかがでしょうか。

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