第二十四回 ファストコンテンツからコンテンツファーストへ(4)

前回は、「コンテンツファースト」、つまり「コンテンツ第一主義」について触れた。

言い換えれば、それは「コンテンツ」を始点にする、ということでもある。プラットフォームに頼り切るのではなく、またPVのために書くわけでもない。そんな姿勢が「コンテンツファースト」だ。

では、その「コンテンツファースト」を支えるものとは何だろうか。疑問を変形すれば、「コンテンツ」を始点にするとはどういうことだろうか。

これについて考えてみたい。

そもそも「コンテンツ」とは何だろうか。前回では容れ物(コンテナ)の中に入っているものがコンテント(単数形)だと書いた。形式の表現としてはそれでいい。でもそれは、肝心なことに答えていない。

それは「なぜ、それをコンテナの中に入れるのか」である。

それはもちろん、相手(受け手)に届けるためだろう。つまり、コンテンツとはメッセージなのだ。あるいはメッセージを含むものだ。

ここで言うメッセージとはそんなにたいそうなものではない。「言いたいこと」「表現したいこと」「伝えたい(知って欲しい)」ことである。そういう心の動きがあるからこそ、私たちはコンテナにコンテントを詰め込んで、相手に渡そうとする。そうした心の動きがないものは、情報としては成立していても、コンテンツとしての魅力や迫力が欠けてしまう。

言い換えれば、「コンテンツファースト」とは、そうした心の動きを大切にする、ということだ。

ある人が何かしら「言いたいこと」を持っていたとする。それをどうすれば受け手にうまく伝えられるかを考える。だからこそ「メディアを選べる」のだ。プラットフォーム依存だと、これができない。言い換えれば、そのプラットフォームのメディアの形式を越えられない。プラットフォームに閉じ込められてしまうのだ。

「コンテンツファースト」は、視点を逆にする。大切にするのは「言いたいこと」の方だ。その言いたいこととプラットフォームが合致しないなら、別のプラットフォームを選択することになる。

PV重視も同様だ。PV重視では「言いたいこと」はそんなに重要ではない。「いかに受けるのか」が先に来る。もちろん、PVを得るためには仕方がない妥協なのかもしれない。ただし、これから数年のスパンで考えてみると、その代価は非常に大きいものになりそうだ。

「いかに受けるのか」が先に来ると、第一に話題が似通ってくる。そういうのは傾向的なものだから当然だろう。

もう一つは、中の人はどうでも良くなることだ。話題先行というのは、断片的に消費されるので、読み手は書き手について注意を払わないでもいい。逆に言えば、書き手と読み手の信頼関係が非常に構築しにくい(ただし不可能ではない)。

「コンテンツファースト」の姿勢であれば、「言いたいこと」が前に出てくると共に、その後ろにはしっかりと「中の人」が感じられる。

それは実名であろうが匿名であろうが関係ない。ネットの中で個を特定する名前があればそれでいいのだ。そこから人と人の関係性は徐々に構築されていく。それが数年というスパンの後に大きな意義を持ってくる。

こう書くと、「コンテンツファースト」は万々歳に見えてくる。が、そうではない。そんなわけはない。

自分のメッセージを前面に押し出すことは、はっきり言って怖い。単純に拒絶される可能性もあるからだが、それ以上に「私は、こういう人です」と周りに宣言することになるからだ。そこに恐怖を感じない人はいないだろう。

その恐怖に押し流されると、自分の「言いたいこと」の方を世間に合わせるようになる。どういうことだろうか。

それは、周りの人間が言っていることに口を揃えて、その上で「これが私の言いたいことだ」と納得するようになる、ということだ。私が心理学や脳神経学の本を読んで一番驚くのは、そういった暗黙の納得が脳は非常に得意だ、ということである。もちろん、それは自己欺瞞でしかない。ただし自分が自分をだましているので、そこに詐欺は成立しない。でも、心にひずみは残るかもしれない。僕が恐怖するのは、そのひずみの方である。

「コンテンツファースト」の姿勢は、メッセージを大事にする姿勢である、それはつまり発言者の在り方を明示する姿勢でもある。それに伴う恐怖心といかに付き合うかは、大きな課題になるだろう。その点、天の邪鬼な人は恵まれているかもしれない。はじめから、あまり気にしないからだ。

では、メッセージがあればそれでいいのか、というとそんなに単純ではない。それは土台にはなるが、上に何かを載せようと思えばプラスアルファは必要になってくる。

ここではその力を暫定的に「コンテンツ力」と呼ぶことにしよう。もっとざっくり「面白い記事を書ける力」とかでもいいのだが、あまりに締まらないので「コンテンツ力」でいくことにする。

何か題材があるとして、それを右から左に流すのではなく、「面白さ」を発掘し、付与できる力。それが「コンテンツ力」だ。この力が卓越していると、人に受け取ってもらえるコンテンツが作れる。そして、このスキルは、単純に独立している。言い換えれば、題材は選ばない。素材を調理する料理人のようなもので、たとえばその人が何もメッセージを持っていなくても、コンテンツを作ることができる。

だから、メディアの話で最初に取り上げられるのがこの「コンテンツ力」である。この力はあたかも万能のように謳われる。実際汎用的ではある。でも、それは「コンテンツファースト」では二階の部分である。このスキルだけを卓越しても、実はそんなにどっしり構えられない。便利な人としては扱ってもらえるかもしれないが、送り手と受け手の関係性の構築にはさほど役に立たない。

しかし、先ほども述べたように、このスキルは必要である。ただ、このスキルだけに注目すると大事なものを見失う、というだけの話である。

というわけで、言葉遊び的に生まれた「コンテンツファースト」についていろいろ思索してみた。

高度情報社会であり、過密に情報が行き来する現代では、力のあるコンテンツは、読者との結びつきを生み出し、それが結果的に信頼関係の構築に結び付く。

信頼というのはとても大切なものだ。

僕たちは日常的に日本銀行が発行した紙幣を使い買い物をする。なぜあの紙切れでそんなことが可能かと言えば、僕たちがそれを管理する国家というものを信頼しているからだ。その信頼がそのまま紙幣への信頼として機能している。

ある種の信頼は、「行き来」(格好良く言えば流通)を促進する。情報についても同じである。

これまで「ファストコンテンツ」の乱立で、受け手をバカにするような、あるいは無視するようなコンテンツが大量生産されてきた。それを大量に受け取ってきた人たちは、もう飽き飽きしていることだろう。そして、その中で「信頼」というものも失われてきたのかもしれない。

だからこそ、時間をかけてそれを確立できる主体は、情報をきちんと受け取ってもらえるようになる。ただし、そうしたものの構築には時間がかかる。線グラフを拡大したら、全然増えてないじゃないかと勘ぐりたくなるような微妙な傾きしかない。でも、それはたしかに右肩上がりなのだ。

瞬間的に伸びるグラフは、短期ではたしかにすごいのかもしれないが、棒グラフを一歩引いてみたときに途中で途切れていることもある。レバレッジをかければかけるほど、失敗したときの反動は大きくなるものだ。

いつの時代でも、短期間でいろいろ騒ぎ立てる人は出てくる。でも、生き残るのは一体何なのか、ということを考えてみたときに、やはり「コンテンツファースト」の姿勢ではないかと、個人的には強く思う。

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