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週次レビューというマジック・ワード/メモ見返しのための動線/Scrapbox、アウトライナー、付箋、ideaBarrett、ideaRange

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2019/06/24 第454号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。

押し寄せていたプライベートのタスクがようやく沈静化の兆しをみせはじめたと思ったら、別口からの大嵐がやってきて、日常という船が大きく揺れています。ぐらんぐらん揺れています。息つく暇もありません。

でもまあ、なんとかやっていくしかない、というのが人生というものです(突然人生を語り始める)。

ちなみに、こうした「非日常」に放り込まれると、リピートタスクやルーチン(日課)みたいなものは、ことごとく崩れ去ります。砂で作ったお城くらいに簡単に崩れます。「いやもう、それどころじゃねーんだよ」という魂の叫び声が上がります。

とは言え、普段の生活では、そこまでリピートタスクに依存していないので、なんとなかなると言えばなんとかなります。というか「なんとかなる」という感覚を持てています。

たぶん一番大事なのは、そういう感覚の有無なのでしょう。

〜〜〜在庫切れの悲しみ〜〜〜

ふらっと『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門』(以下やるおわ)のAmazonページを覗いてみると、在庫ステータスが「1~2日以内に発送します」になっていました。なんと在庫切れです。

発売日から、ここに至るまで一度も在庫切れになっていなかったので、少し驚きました。

もちろん、急激に大量に売れたというわけではなく、Amazonさんが在庫の仕入れを低めに設定してたところ、それ以上にまとまって売れてしまった、というのが実際のところでしょう。時間が経てば、すぐに在庫は回復するはずです。

とは言え、やるおわには電子書籍版がありません。もし、この時点で「やるおわを買ってみよう」と思う人が出てきても、「なんだ、在庫がないのか。だったらいいか」と判断されてしまうかもしれません。小売業で「機会ロス」と呼ばれる状況です。

で、この状況の「もったいない」ところは、「まとまって売れる→Amazonランキングが上がる→注目されやすくなり、ちょっと買ってみようかと思う人も出てくる→しかし在庫がない」という構造にあります。単に在庫が切れているだけでなく、ランキング上がっている状態で在庫がないのが「もったいない」のです。

まあ、そんなことを言っても私ができることは特にありません……と思っていたら、鷹野凌さん( https://twitter.com/ryou_takano )から「他のネット書店はどうですか?」とリプライを頂きました。

そうでした。ネットで本を買えるのはAmazonだけではないのです(よく忘れてしまう)。

さっそく確認してみると、hontoさんでも楽天ブックスさんでも在庫はありました。たぶんその他のストアでも在庫は盛りだくさん……かどうかはわかりませんが、普通に買えそうです。

というわけで、Amazonで在庫切れになってしまった場合は、著者は在庫のあるストアのリンクをバンバン流すことが「著者としてできること」になるのでしょう。覚えておきたいところです。

〜〜〜「普通」の感覚〜〜〜

自分が持っている〈普通〉の感覚を確認してみることって、結構大切です。

たとえば、「現状の自分」よりも少し上に〈普通〉を設定してしまうと、やっかいなことになります。現状の自分(≒ありのままの自分)が、マイナスな状態になってしまうからです。

そうなると、プラスになる何かを求めざるを得ません。「もっと能力を」「もっとお金を」「もっと社会的ステータスを」。そうした要請が心の中に渦巻き続けます。

もし、そうした要請を達成しても状況は改善しません。なにせ、〈普通〉は、「現状の自分」よりも上に設定されているからです。相対的に。つまり、自分が少し上にあがれば、〈普通〉の基準も少し上にあがってしまいます。これでは、永遠に満たされることはないでしょう。

一方で、現状の自分そのままを〈普通〉に設定できれば、どうあっても〈普通〉から外れることはありません。自分が上がろうが、下がろうが、それに合わせて〈普通〉の基準も動いていくので、欠落感は生じないというわけです。心の安定という意味では、こちらの方が環境は良いでしょう。

ちなみにこれは、「理想や向上心を持たない」という話とはまったく違います。上を目指したければ、上に向かって進んでいけばいいのです。ただし、それはあくまで〈理想〉です。〈普通〉ではありません。

理想に向かって進んでいくことは、ある種の欲望です。しかし、普通に至ろうと空虚さを埋めようとするのは、義務感・切迫感・強迫観念であり、それ自身に何の達成感もありません。その点が、欲望を求めることと違っています。

〜〜〜ちゃんと病〜〜〜

上と関係する話。

たとえば、上司などから「もっとちゃんとしよろ」と言われたら、「ちゃんとって何?」と疑問に思いますね(私は思います)。

「ちゃんと」(=きちんと)というのは非常に多義的というか、人によって解釈がまちまちな言葉です。で、そういう言葉を使ってしまうときは、発言者の行為に対する理解の解像度が低いことが大半です。

もちろん、そんなことにいちいちツッコミを入れていたら人間関係は融解していきますので、適当に頷いておくのが処世術ですが、それはそれとして、自分が「もっとちゃんとしないとな」と思ったとしたら、「この〈ちゃんと〉って何だろう?」ということは考えられるようになっておきたいものです。

〜〜〜先に解釈あり〜〜〜

先日Twitterで、『ファクトフルネス』という本の感想を見かけたのですが、どうにも首をかしげるものでした。

『ファクトフルネス』では、「この世界にはまだまだ問題がある」と「長いスパンで見ればこの世界は少しずつ良くなってきている」が両立することが指摘されています。これは私の解釈ではなく、本文にそう書いてあります。

でも、その感想には「この世界は問題がないかのように書かれている点が納得いかない」という旨が書かれていました。

いや、まさにそうではない、ということが書かれているのでは?

おそらく、本文を読んでいないわけではなく、読解力がないわけでもないのでしょう。単に、先に解釈を作り、それに合わせて「読んでいる」のだと思います。

先に解釈ができていると、解釈に合わないものは読み飛ばされてしまいます。あるいは、解釈に合わせて読み替えられる場合すらあります。

とは言え、これは特異な現象ではありません。私たちのコミュニケーションや情報摂取は、先に解釈を作って、あたられることが頻繁にあります。おそらく、その方が効率が良いのでしょうし、脳内のエネルギー消費も小さいのでしょう。

ただし、それが現実を著しく歪めている場合には注意が必要です。というか、自分が「正しく」受け取ったと思っている情報が、決定的に間違っているかもいれない、という自覚が大切なのでしょう。

〜〜〜最近のマイ・テーマ〜〜〜

最近のマイ・テーマは、〈語り直す〉と〈間〉(あいだ・ま)です。

といっても、そうしたテーマ性を持って情報摂取にあたっているわけではなく、Scrapboxにメモを書きつけている際に、これは〈語り直す〉に関係するなとか、これは〈間〉の話だなとか、ということに気がつくのです。脳内タグ付けの進行、と言えるかもsいれません。この感覚は、なかなか楽しいものです。

で、そうしたことが意識できてるのも、Scrapboxの効能ではあるでしょう。キーワードに敏感になるのです。

もちろん、単にタグづけを進めるだけなく、いつの日か本としてまとめてみたいものです。いつのことになるのかはわかりませんが。

〜〜〜欲望との付き合い方〜〜〜

戦中の日本には、「欲しがりません勝つまでは」という標語がありました。個人の欲望を抑えて、共同体の利益に貢献しようという思想ですが、この標語をひっくり返せば「勝ったら、欲しがっていい」となります。

そして、戦後の高度経済成長です。あまりに成長した日本は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と謳われました。これは、経済戦争での勝利と捉えられるでしょう。そうです。勝ったのです。

結果、バブル経済がやってきました。なんといっても勝ったのですから、「欲しがる」気持ちは全体的に肯定されています。そしてそれは、資本主義・工業産業が要請するものとピタリ一致しており、大量消費がなんの抑制もなく、大いに促されることになりました。

というような流れを見立ててみると、日本社会や文化においては、個人における欲望との付き合い方が極端だということがわかります。

徹底的に抑制して共同体に奉仕するか、逆にその他の一切合切を無視して個人の欲望を肯定するか。その両極端しかありません。言い換えれば、共同体が顔を覗かせると個人が消失し、個人が全面に出てくると共同体が消え去るのです。

本当は、この二つを同時に視野に入れることが大切なのだと思いますが、そうそう簡単には変わらないものなのかもしれません。

〜〜〜見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

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 ホモ・エンパシクス──ヒトは共感する動物である。われ思うでも、われ遊ぶでもなく、共感してしまうゆえに、「私はある」。このソフトな全体主義の時代に、根本的に異なる人間像と世界観を提起する。
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 「稽古」とはいかなる思想か。武道や芸道などの道の思想とはどう関係するのか。修行や修養、はたまた練習、レッスン、トレーニングとは、どうちがうのか、どう同じなのか。そこに秘められた「智恵」が意味するものとは。「稽古」を知の地平に解き放ち、東洋的心性のありかを探る。東洋的身体知の世界を開く注目の書。
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 イギリス暗黒文学の旗手が、芥川龍之介の生涯を恐るべきヴィジョンと魔術的な語りを通じて幻想文学として語り直す。
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〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 最近のマイ・テーマは何かありますか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。

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2019/06/24 第454号の目次
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○「週次レビューというマジック・ワード」 #BizArts3rd

○「メモ見返しのための動線」 #知的生産の技術

○「Scrapbox、アウトライナー、付箋、ideaBarrett、ideaRange」 #物書きエッセイ

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

○「週次レビューというマジック・ワード」 #BizArts3rd

GTDというタスク管理システムがあります。「いや、GTDはタスク管理じゃないんだ」みたいな差異化を巡る議論もあってなかなかややこしいのですが、GTDが行動に関する情報整理システムであることは疑念の余地はないでしょう。

でもって、GTDをシステムとして決定づけているのが「レビュー」の存在です。特に、週に一度行われる(ことになっている)「週次レビュー」が、GTDをシステムたらしめています。言い換えれば、週次レビューがあるからこそ、GTDはシステムとしてうまく回していけるようになります。

この点に関しては、おそらく反論の声は上がってこないでしょう。どういう頻度でやるにせよ、GTDにとってレビューは欠かせない行為である、という主張には賛同してもらえるかと思います。

しかしだからこそ、ここにはいくつかの問題が潜んでいます。

■問題その1:循環

〈各種リストを最新の状態に保ち、水のような心で次の行動を選べるようにする〉

これが週次レビューの最大の意義です。一週間前に頑張って作ったリストも、時間が経てば状況は変化しますし、自分自身の変化もありえます。その「最新の状態」に合わせてリストを更新するからこそ、各種リストの機能は維持され、私たちはリストから行動を選べるようになります。

逆に言えば、各種リストの更新がされていないと、私たちはだんだん適切な行動を選べなくなります。

ここで持ち上がってくるのが、「週次レビューを行うということもまた、一つの行動である」という命題です。『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門』で書いた「やることを管理するタスク管理もまたやることである」というタスク管理のジレンマと同じですね。

こうなると、循環が発生します。

・リストが維持されていない
・週次レビュー(という行動)を選べなくなる
・レビューが実施されないのでリストが維持されない

非常にガッチリとしたループです。少なくとも、これだけを見れば、抜け出す手段はありません。気合いや根性などの精神論を持ってこないと脱出はかなり難しいでしょう。

この構造を簡単にまとめれば、こうなります。GTDは、週次レビューによって全体が維持されている。よって、いったん週次レビューがドロップアウトしてしまうと、全体の瓦解は止められなくなる。これは、以下のようなナンセンスな発言から理解できるかと思います。

「週次レビューができない? だったら週次レビューをしましょう。それで問題は解決します」

■問題その2:結局何するの?

週次レビューは各種リストをアップデートする活動です。これは、表現を変えれば、システムに発生している問題を解決する場だとも言えます。どういうことでしょうか。

一番ミニマムなリストの改修は、「すでに終えたタスクを消し、新しく発生したタスクを追加する」というものでしょう。これは直感的にわかります。

しかし、これだけでは済みません。たとえば、「いつかやりたいリストに入れておいたものを、プロジェクトリストに移動させる」や「一度はプロジェクトリストに入れたけども、実はこれはやりたいことリストに入れるべきものだった」などの調整作業もレビューには含まれます。

それだけではありません。「今の自分のワークフローでは、多くの気になることがプロジェクトリストに入れられてしまうので、これを変えるためにプロジェクト準備リストを作ろう」というメタな検討すらも、週次レビューの範疇に入ってきます。

つまり、自分・環境・システムに発生している不備・不都合を修正する場が週次レビューなわけです。というよりも、そのような修正が何かしらのレビューに組み込まれていない限り、GTDが提唱する「水のような心」を得続けることは不可能でしょう。

かくして週次レビューはあらゆることを飲み込んでいきます。

「どのような問題があっても、週次レビューさえしておけば大丈夫」

たしかに耳に心地よく響く言葉ではあるでしょうし、「週次レビュー」の定義を広げるならば、これは真となります。そのかわり、週次レビューは魔法の言葉となります。なんでも解決してくれるマジック・ワード。

その結果、「じゃあ、週次レビューって何をすればいいのか?」はどんどん曖昧になっていきます。

■さいごに

たとえば、チェックリストの一番最後に「問題があれば、それを修正する」という項目を入れておけば、すべての問題は問題ではなくなる──という前提が立てられます。

しかしそれは、あまりに大雑把な話に聞こえます。少なくとも、実践を考えるならば、もう少し具体的な指針が必要でしょう。

また、すべてを内包してしまった週次レビューのイメージは、大きく膨らんでいきます。その結果「なんだか、メンドーそう」のような雰囲気が生まれはじめ、それが重圧となって週次レビューから遠ざかってしまう、という状況も起こりえるでしょう。これも魔法化の副作用と言えるかもしれません。

もちろん、言うまでもなくGTDや週次レビューは有用なものです。でも、各種の教本が示しているものだけで十全に自分の人生をカバーできるのかと言えば、少々怪しいと感じています。でもって、それを補うためにGTDの用語を拡張させると、だんだん話が複雑に(というよりも精緻さが欠けるものに)なってきます。

最終的に完成されるシステムにおいて、週次レビューが多くのものを含むことは十分ありえます。ただ、それを「週次レビュー」という言葉だけでまとめてしまうのではなく、具体的に何をしたらいいのかについて具体的に記述しておいた方が、導入としては親切ではないか。そんな風に感じています

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