たくさんの物語に触れること

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~2019/05/20 第449号

はじめに


はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。

いよいよ電子雑誌「かーそる」の第三号が、(ほぼ)完成しました。

原稿は一通り揃っていて、修正も終わり、あとは最終的なデータを紙版(PDF)と電子書籍版(EPUB)で確認するだけです。

で、一応「かーそる」は電子書籍で読むことを想定してデザインなどを決定しているのですが、やはり紙版は紙版で良さがあります。なんというか、佇まいがかっこいいのです。

とは言え、BCCKSの紙版はPOD(プリントオンデマンド)なのでどうしても価格が高く、「皆さん買ってくださいね」とは言いづらい雰囲気があります。

だから、やっぱり両方あるのが良いのでしょう。異なる楽しみ方と価格帯。それは、マーケティング的にリーチを拡げるという意味合いもありますが、それ以上に多様性の肯定という点で大切なような気がします。

〜〜〜うちあわせCastの状況〜〜〜

現在第八回を放送しているうちあわせCastですが、ぼちぼち聴いていただけているようです。

なんの目算もなく、ただ「そういう番組あったら、面白そうじゃん?」という気持ちでスタートさせた番組ですが(私の動機の8割はだいたいこういう感じです)、第一回で300回弱の再生回数となっており、わりと「嬉しい誤算」な状態です。

たぶん、この手の話に興味を持ってくれる人は、マスメディア規模では存在しなくても、500〜1000人規模ならいらっしゃるのでしょう。そういう人たちに楽しんでもらえる番組になったらいいな、と考えながら今後もやっていきたいと思います。

もちろん、それ以前に自分(たち)が楽しくやる、ということが大切なわけですが。

〜〜〜指針をネタ帳に置いておく〜〜〜

その「うちあわせCast」をたまたま妻が家にいるときに収録していたのですが、収録が終わったあとに、「早口すぎてキモい」と妻から指摘されました(妻は思ったことを率直に口にします)。

ええ、知っているのです。私がだいたい早口になってしまうことは。なので一度はゆっくり話そうと決めた回もあったのですが、一週間も経てば、その「指針」は綺麗さっぱり忘れて、日常的動作へと戻ってしまいます。自然の摂理です。

しかし、さすがに面と向かって「キモい」と言われて放置するわけにもいきません(フィードバックは大切ですね)。そこでふと思いつきました。

いつも「うちあわせCast」を始める前には、Scrapboxの「うちあわせCastのネタ帳」というページを開いて、どれをテーマにしましょうかという5分くらいの検討が行われます。

ここに「指針」を書いておくことにしました。開始する直前に、必ずこのページには目を通すのですから、指針を置いておく場所としては有効でしょう。

これはちょっとしたライフハックではあるのですが、それとは別に、「ネタ帳」というネーミングが、「ネタ以外のものを置いてはいけない」というなんとなくの感覚を発生させてしまう問題点はあるよな〜、ということを感じました。その時点まで、ネタ帳に指針を置いておくなんて、考えたこともなかったわけですから。

おそらくそれは、第七回・第八回のうちあわせCastで出てきた、「専用ツール」と「汎用ツール」の違いの話に呼応しているのでしょう。

〜〜〜ゴミ袋をゴミ箱に入れておく〜〜〜

とあるカフェで、食器類を返却するときに、紙のおしぼりをゴミ箱に捨てようとしたら、ちょうどゴミ袋を替えた直後だったのか、そのまま底が透けて見えました。そこに、ゴミ袋の姿を発見したとき、おもわず「賢い」と思いました。

ようするに、こういうことです。

ゴミ袋を替えるときは、必ずそのゴミ袋を取り出す。すると底が露わになり、そこに次に必要なゴミ袋がすでに存在している。非常に合理的です。

私はこういう合理性が大好きなのですが(ライフハック的ではありますね)、それ以上に、そういう工夫を好む人間がこの世界にいる、という事実の方が嬉しく思います。

時間的効率性で言えば、せいぜい数十秒の手間かもしれません。それでも、「ちょっとでも、仕事に工夫をいれていくぜ」という気持ちは、仕事全般に良い効能をもたらすような気がします。あくまで、気がするだけですが。

〜〜〜質問下手〜〜〜

インターネットというのは、地球上最大の質問空間です。Twiiterなどにちょっと気になることを書き込めば、ババーンと答えが集まってしまうことも珍しくありません。

なにせこの世界には、私のような「誰かが困っていると、ついつい答えたくなる」性(さが)をもった人が一定数存在しています。そういう人たちが、特に頼まれてもいないのに、自分で調べたりなどして答えてくれるのです。

しかしながら、このお節介な私であっても、投げかけられている疑問をスルーしてしまうことがあります。質問や疑問が漠然とし過ぎている場合です。

質問が漠然としているので、まず「私はその状況を適切に理解できているだろうか」ということに確信が持てません。その人が想定している問題と、私が認識した問題が大きくずれていれば、「お節介」は「余計なお節介」へと成長してしまうでしょう。そういうときは、やっぱり二の足を踏んでしまいます。

もう一つ、質問が漠然としているので、私の手に負える問題なのかどうかの判断も難しくなります。Evernoteのちょっとしたテクニックならいくらでも教えられますが、Windowsのレジストリを書き換えないとどうしようもない問題は、私が口を出せる領域ではありません。

このような判断は、お節介erの私でも働いているのですが、そのジャッジメントが微妙になると、口出しも微妙になります。

「求めよ、さらば与えられん」という言葉がありますが、少なくとも質問に関しては、求め方が返ってくるものに影響を与えそうです。

〜〜〜見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を3冊紹介します。

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 ソクラテス、ダ・ヴィンチ、ウルフ、ベンヤミン、ヒッチコックらと“未知の土地”を旅する思索の書。
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 超管理社会、核戦争、巨大災害、社会分断、ポスト真実…理想(ユートピア)とは真逆の悪夢(ディストピア)に接近する現実を前に、創作は何ができるのか?古典から話題作まで。
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 勝つも負けるも運次第。そんな不確実性が支配するカジノや株式市場で勝ち続けるにはどうしたらいいのか。著者のエドワード・ソープは得意の数学理論で必勝法を見つけ出した。ギャンブラーとして、投資家として大成功した数学者の自伝だ。
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〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. うちあわせCastで自分が話すとしたら、どんなテーマを選びますか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週も、一つの大きな記事をお送りします。少し長いですが、ぜひお付き合いくださいませ。

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2019/05/20 第449号の目次
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○「たくさんの物語に触れること」

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

※今週号のEpub版は以下からダウンロードできます。

○「たくさんの物語に触れること」

荒木優太さんの『無責任の新体系』は、個人と責任論(無責任論)の話からスタートしながらも、その最後はテクスト論(読書論)で結ばれています。

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 改めて要約しておけば、本書のメッセージは単純で、第一に物語を読むことは素晴らしく、第二にたくさんの物語を読むことはさらに素晴らしく、第三にたくさん読むのと同じくらい何度も読み直すことが素晴らしい、ということだ。
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なぜ、そうなるのでしょうか。そこには、本書で展開される正義論が関係しています。

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 人生は具体的なものだ。言い換えれば、個々別々であり、それぞれが容易に一般化できない経験の厚みを備えている。そういった特異な人生の群れに対して普遍的に妥当しうる正義の原理を構想するには、全知の神の化身のようなモデルに頼るのではなく、非力ゆえに傾き偏る多様な人生をテストする必要がある。
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 かもしれない、の想像力が貧困ならば、そこから得られる正義の原理も必然的に貧弱なものになってしまう。
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少し説明が必要でしょう。

本書では、責任にまつわるさまざまな論考を巡りながら、最後にジョン・ロールズが提案する無知のヴェールへと辿り着きます。

無知のヴェールとは、自分がどんな状況に置かれているのかがわからない状態で同意できるルールであれば、普遍的な正義に近接できるであろう、というロールズの概念です。たとえば、自分が白人男性なのか黒人女性なのか子どもなのかがわからなければ、それぞれの立場が手ひどく扱われるようなルールには怖くて賛同できないでしょう。だから、そういうシチューエーションでルールについて考えていこう、というわけです。

これは実にまっとうな話にも思えますが(少なくともリベラルとしてはまっとうでしょう)、批判の声もあります。

たとえば、そもそもそんな想像は高度な知的操作であり、一部のインテリだけが実行できるのであって、原理的な普遍性に欠けている、というものです。

あるいは、自分の立場がわからないということは、自分が何者なのかをまったく考慮しないということであり、それは私たちが依って立つ社会(共同体)を無視することになるのではないか、という批判もあります。これは日本でも有名なマイケル・サンデルのコミュニタリアニズムによる反論です。

で、こうした議論も面白いのですが、『無責任の新体系』はまったく別ルートからこの問題にアクセスします。

・本は深読みすることもできるし、提示されたままに「そのまま」読むこともできる
・「そのまま」読むことは、文脈を俯瞰しないような偏った読み方である
・その読み方は公正でも中立でもない、ある意味で「愚かな」読み方である

著者は、この愚かさ(≒無知さ)と、無知のヴェールの「無知」を接続させます。すごいバイパス手術です。

つまり、偏った文脈がある。それをたくさん集めていく。すると、どうなるか。全体を俯瞰するのではなく、「Aである」「Bである」「Cである」「Dである」というような複数の(偏った)文脈が集まることになる。

このようなさまざまな「〜である」が集合するとき、それはあらゆるものでありうる、という状況を引き起こします。言い換えれば、「もしかしたら〜〜かもしれない」という想像力を刺激するのです。

具体的に考えてみましょう。

・白人男性が主人公の物語を読んで素直に感激する
・黒人女性が主人公の物語を読んで素直に感激する
・子どもが主人公の物語を読んで素直に感激する
・白人男性が敵役の物語を読んで素直に怒りを感じる
・黒人女性がが敵役の物語を読んで素直に怒りを感じる
・子どもが敵役の物語を読んで素直に怒りを感じる

ある人の中に、こうした文脈が積もるとき、それは疑似的な無知のヴェールとして機能するのではないか。本書が提示するのはこういう道筋です。

つまり、対象をモデル化して簡単に(≒わかりやすく)片付けてしまうのではなく、一回一回の事象にきちんと向き合った上で、「〜〜かもしれない」(別の何かであったかもしれない、自分もそうなったかもしれない)をイメージできれば、それは温和な正義へと近づいていけるのではないか、というわけです。

どうでしょうか。非常に面白いですね。

ただし、これだけでは実際十分とは言えません。ひとりの人間が引き受けられる文脈の数は有限ですし、さらに偏りの偏りもあります。どれだけたくさん集めても、カバーしきれない文脈が残ってしまう、ということです。

しかし、そうした人たちが集まればどうなるでしょうか?

ひとりの人間に、偏った文脈が集まることによって、多様性への道が切り開かれるのならば、そうした人間が複数集まるとき、そこにはさらなる多様性の扉が生まれてくる。そんなイメージが持てます。

そしてそれが、「集合知」と呼ばれるものの真なる実現であり、民主主義が本来的に目指す場所でもあるのでしょう。

■多様性の中にある集合知

集合知というのは、たとえば、たくさんの人に肉の塊を見せて「これって何グラムだと思います?」と当てずっぽうに答えてもらうと、その答えの平均は正解にかなり近い、というものなのですが、ここではバイアスの相殺が働いています。

つまり、すごく多く見積もる人と、すごく少なく見積もる人の予想が消し合うわけです。だから、それなりに妥当な数字に落ち着く結果になります。

逆に言えば、、同種の考え方の人をたくさん集めても、そこには集合知は発生しません。バイアス(偏り)の相殺が起きないからです。むしろそこでは、エコーチャンバーというか、マイクとスピーカーのハウリングみたいな現象が起きてしまうでしょう。日本の「空気」と呼ばれるものが、ときに悲惨な事件を発生させてしまうのも、この辺りが関係していそうです。

それはさておき、人々がそれぞれに偏った読みを行い、偏りを多重に集め、そうした人がたくさん集まることで、偏りが相殺されて、それなりに妥当な結論が導き出されるかもしれない、と考えるのは、なんとなく心躍るものです。

少なくとも、民主主義社会を構成するすべての人間が、高度な理知を備えていなければならない、と説かれるよりもずっと「手が届きそう」な気がしてきます。なんといっても、私たちは自分の愚かさを「修正」しなくてもいいのです。愚かなままままで、しかし自分なりに多様な物語を引き受けて、社会に参画すればいいのです。

ひとりの人間の中にたくさんの物語が宿れば、その人の愚かさはまったく変わっていなくても、違った結論(判断)が引き出せるかもしれない。

この見方は、結構たくさんの本を読んできてもちっとも頭が良くなった気がしない私には、たいへん気分よく感じられます。

■自分の物語を読み替える可能性

この話をさらに、千野帽子さんの『物語は人生を救うのか』にも接続させてみたいと思います。

『物語は人生を救うのか』は『人はなぜ物語を求めるのか』の続編にあたる本で、物語論を背景にしながら、人が生きることと物語の関係性が書かれています。

いろいろ面白い話があるのですが、今回注目したいのは第6章の「ライフストーリーの構築戦略」です。

この章では、著者が子ども時代に体験した話が中心に語られていているのですが、興味深いのは、その体験の物語(≒意味付け)が、あるときがらりと変わってしまった、という点です。

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 何十年も経って、やっと僕は過去の経緯を(そして自分でも気づかなかった自分の動機を)物語化=理解することができました。
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この変化によって、著者は記憶の中にある登場人物の行動について納得(≠共感)し、自分自身の心とも折り合いがつけられた、と報告されています。物語り(≒意味付け)が変わったことで、少なくともそれまでよりも生きやすい状態になれたわけです。

私はこれを、〈物語の読み替え〉、と呼んでみたいと思います。硬く言えば、記憶(事実)の再解釈ということですが、それよりも、物語の読み替えという方が実感に即していそうです。

■物語の硬直性

物語の読み替えが、生きやすさを確立するために有用であるにせよ、問題はそれが非常に難しいことです。

人は周囲に漂う「物語」を吸い込み、それを素材にして自分の人生の物語とします。ここで言う「物語」とは、小説作品に限定されているわけではありません。人々の中にある「語り」全般を意味します。

たとえば、ある年代の男性ならば、「高校(か大学)を卒業し、それなりの企業に入社し、そのまま定年まで勤め上げる」というロールモデルは、ほとんど検討の余地のない人生の物語だったでしょう。「それ以外の生き方」というのは、検討の候補にすら登っていなかったのではないかと思います。

では、なぜそうなったのか。そういうロールモデルが、遺伝子的に人間に備わっているから? おそらくは違うでしょう。

親の生き方・親が勧める生き方・まわりの大人たちの生き方・メディアが語る生き方。

こうしたものに触れることで、その人の中の「人生の物語」は形成されていきます。そして、一度形成された物語は、前向きのエンジンを持ち、予言の自己実現的なブルドーザーを回して、人生という地面を均していきます。

たとえば、「それなりの企業に入社し、定年まで勤め上げる」というロールモデルを持っている人は、それ以外の選択について検討しないので、そうなるように生きていきます。つまり、ここでのロールモデルは単なる選択肢ではなく、決定済みの選択肢なのです。

もし、その道行きが順調ならば何も問題はないでしょう。問題は、自分とその物語がズレてしまったとき(あるいはズレそうになってしまったとき)です。

そうしたとき、自分の頭の中にある物語が(本書の言葉を借りれば)「本筋」として扱われ、そこからズレてしまっているリアルの自分の人生が「間違っている」(脱線している)と感じられてしまうのです。

そういうときにこそ、物語の読み替えは効果を発揮するわけですが、もし、その人の引き出しにある物語が貧弱ならどうなるでしょうか。

■インプットと創造性

小説創作に面白い話があります。本をたくさん読まない人ほど、作るストーリーが「よくある話」(≒陳腐)になるそうです。

アイデアを、既存の要素の新しい組み合わせだと捉えれば、既存の要素のストックが少ない場合は、生み出せる組み合わせも貧相になってしまいます。人がよく思いつく話は似ていて、そこから「逸脱」するためには、組み合わせを増やすことが必要なのでしょう。

すると、インプットを経ない独創性、というのは基本的に幻想だと考えて良さそうです。

ということは、自分の人生の物語を読み替えるためには、物語のストックが必要となります。たくさんの物語に触れていることが、自分の人生の物語を読み替えるときに役立つわけです。

それはそうでしょう。マッチョな男性主人公が、か弱い女性を助けて、ヒーローになる、という物語しか知らない人が、急に妻が会社勤めをして自分は家で家事を担当する、なんてことになったら、これはもう大パニックです

その人の頭の中では、男性というのは一つのイメージで固定されています。その状況では「読み替える」ことなど不可能です。

でももし、その人が、男性が家事をして女性が働きに出る作品を──内心バカにしながらも──読んでいたとしたらどうでしょうか。

最初はきっと葛藤があることでしょう(なにせ内心はバカにしていたのです)。でも、物語を読み替えられる可能性は十分にあります。ああ、そうか、自分の物語は自分が思っていたのとは違っていたんだな、と思える可能性が残ります。

まったく物語を知らないことと、少しは知っていることの差は、それくらい大きいのです。

■「かもしれない」という間

一つしか物語を知らなければ、状況は即座に意味付けされます。

「状況」→「意味付け」

これではとても選択はできません。

しかし、物語のストックが複数あれば、話は変わってきます。状況と意味付けに、「間」を置くことができるのです。「もしかしたら、〜〜なのかもしれない」を考えられるようになるのです。

この「かもしれない」の可能性を作ることができるなら、自分を苦しめる(しかし自分が作り出している)物語を読み替えるチャンスが生まれます。

だからこそ、たくさんの物語に触れることは大切です。

■ストイックな

この物語の読み替えは、別の側面からも補強できます。たとえば、ストア哲学です。

マッシモ・ピリウーチの『迷いを断つためのストア哲学』では、ストア哲学の教えと実践の手引きがじっくり解説されているのですが、その第12章に著者がローマの地下鉄で財布をすられたときのエピソードが出てきます。当然著者は、最初は怒りに似た気持ちが湧いてきそうです。

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 ストア主義者的な言い方をすれば、初めの気持ちは、驚きと騙されたことへの不満だった。
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でも、著者はその気持ちを読み替えることにしました。

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 だが、すぐにエピクテトスを思い出し、そうした気持ちを受け入れないことにした。
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エピクテトスとは本書の中心となるストア主義の哲学者ですが、彼は自宅のランプを盗まれたときに、泥棒に憤るのではなく、自分にできる現実的な方法で、その状況に対処したと言います。著者はそれにならったわけです。

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 確かに、財布、いくらかの現金、数枚のクレジットカードをなくした。カードについては利用を停止する必要がある。運転免許証も再発行しなければならない。とはいえ、現代のすばらしい電子技術をもってすれば、スマートフォン(これはもう片方のポケットにあったので盗られなかった!)を少し操作し、数日待てばすべて解決できる。しかし、泥棒はそれによって義を失ったのだ。
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もしかしたら、これは負け惜しみのおうに思えるかもしれません。でも、そうではないのです。そこで泥棒に不満を募らせても、「すいません、そこまで不満を持たれるとは思いませんでした。謝罪と共に財布を返します」と泥棒が引き返してくることはありませんし、空から見ている神様が「ふむふむ、そちは不満なのじゃな。財布の代わりに金の斧を与えてしんぜよう」と援助の手を差し伸べてくれることもありません。

不満は、物事を前には進めないのです。もちろん、この「前」というのは、自分にとって良い方向に、という意味です。そして、自分にとって良い方向に物事を進めるためには、自分が実際的にできることをするしかありません。ごくごく、簡単な原理です。

しかし、それ以上に重要なことがあります。著者が述べた以下の言葉です。

「そうした気持ちを受け入れないことにした」

そうなのです。私たちはいろいろな気持ちを思いつくわけですが、最初に思いついた気持ちを受け入れなければならない、という法律はどこにもありません。それを、後から読み替える権利を誰もが持っています。

最初に何かを思いついたとき、それは直感的な反応であり、感情的な反応です。『ファスト&スロー』で言うと、システム1の働きによって生まれた情動的反応。そのようなものは、あまり理性的ではありません。バイアスや先入観を持っています。

そうした反応が、個人の心理の平穏によって、あまりよくない傾向を持っていることも少なくありません。これは、『ファクトフルネス』や先ほど挙げた『物語は人生を救うのか』からも補強できます。

悪しきものへの報復や告げ口。そうした感情が、まず最初に湧いてきてしまうものなのです。それ自体は決して悪いことではなく、言ってしまえば、蛇に遭遇したら怖さを感じる、というのに同じような本能的な反応なのでしょう。

しかし、そうした反応が仮に避けられないにしても、「いや、まてよ」と思うことはできます。その上で、それとは違う見方をさぐることもできます。これは、人間だけにできることとまでは言い切れませんが、それでもかなり高度な知的操作ではあるでしょう。

■筋を前に進めるために

小説を書いているときにも、いったん書き出した登場人物の台詞(あるいはモノローグ)を、「いや、こうじゃない」と書き直すことがあります。そのセリフが不完全というのではなく、その先に物語的先行きが感じられないのです。そいうときは、話が前に流れるようにそのセリフを書き直します(実際は、登場人物の声に耳を傾けます)。

ストア哲学における〈物語の読み替え〉も、こうした行為に近しいのかもしれません。

実際、怒りの感情を抱えていても、そこには先行きがありません。『多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。』というタイトルの本がありましたが、いくら私が怒りを抱えていても、対象人物にはほとんど何の作用を与えないばかりか、むしろ反作用のようなことが起こり、余計な火だねが増えて状況が悪化してしまう、ということがほとんどです。

ストア哲学では、自分がコントロールできるものとそうでない物を見極めて、コントロールできるものに注力せよ、という教えが度々出てきますが、「私」という自意識にできることがあるとすれば、まさに物語を「読み替える」(語り直す)ことだけです。

どんな感情が湧いてくるのかを制御することもできませんし、世界中の他者を意のままに操ることもできません。自分の反応を、re:writeしていくことだけができることです。

そのためにも、物語を書き換える力を鍛えておくのは有用です。書き換えられる物語のバリエーションが多いほど、状況に適切に対処できる可能性が増えます。

でもって、さまざまなものに制約されている「私」という存在にとっての自由とは、その語り直しの可能性のことを意味しているのかもしれません。

■物語を読み替える力

人が物事を理解するときの意味付けのフォーマット。それが物語です。

自分の物語を読み替えること。自分語り(モノローグ)を、上書きすること。良い脚本に近づけること。

正義のためだけでなく、良く生きるためにも、多様な物語に触れることは大切です。

自分の中にある物語のストックは、他者への眼差しや、自分の人生の理解にも関与します。逆に言えば、物語に多様性が欠けていると、生き方に窮屈さが生まれます。環境と自分のズレを、うまく最適化できなくなってしまうのです。
※そういう人はよく「信じられない」という言葉を悪い意味で口にします。

そうなると、自分が苦しみ、回りを追い詰めるような状況に陥ってしまったとき、逃げ出すことができません。ルート変更が不可能なのです。

しかし、それは自助努力の欠如というよりは、回りに満ちていた物語があまり豊かではなかったという、ちょっとした不運だと考えておけばよいでしょう。その上で、今から物語の引き出しを増やしていけばいいだけです。

というわけで、ここで「では皆さん、たくさんの物語に触れましょう」と締めてもいいのですが、少しだけ暗雲立ちこめる話をしておきましょう。

現代の情報環境についてです。

■豊かな物語と限られた入り口

現代には、たくさんの情報があります。創作物としての物語や、インタビューなどで開示される人生の物語もわんさかあります。物語の多様性として見れば、申し分ない環境のようにも思えます。

しかし、単純にそう言い切れるでしょうか。

インターネットの登場と普及は、情報摂取のスタイルをプッシュ型からプル型へとシフトさせました。情報の受け手が、積極的・能動的に情報を獲得できる環境へと移行したわけです。

このことは、マスメディアが画一的に提供する物語から逃げやすくなった、というメリットがある反面、私たちが自分の物語に閉じこもってしまうデメリットも持っています。どういうことでしょうか。

私たちがキーワード検索で情報を探すとき、自分の持っている語彙の範囲でしか情報を探せません。私たちの限界が、そのまま私たちが入手できる情報の限界をも定めてしまうわけです。

あるいは、私たちが自分のタイムラインを作るとき、基本的には自分が好む情報が流れてくるようにそれを構築します。マッチョな男性観を持つ人のタイムラインは、きっとマッチョな情報が流れ込んでくることでしょう。言い換えれば、「自分の物語」から逸脱する物語はそこには流れ込んでこないのです。

もしこれが極端なところにまで行ってしまえば、人は「自分の物語」に沿う物語しか得られずに、それを読み替えるためのマテリアルを入手できないことになります。自分の嗜好に合わせて状況を選別してくれるアルゴリズムも、この流れを強化してしまう可能性を持ちます。

それだけではありません。

いくら情報(物語)がたくさんあるにせよ、それが目に入らないと、私たちにとっては意味がありません。少なくとも、物語を読み替える役には立たないでしょう。

ここで、ランキングの問題が浮上します。

たとえば、小説投稿プラットフォームだと、ランキング上位の物語が似たり寄ったりになってしまう、という傾向を持ちます。現在であれば、異世界に転生するストーリーが主流でしょうか。

どれだけそのプラットフォームにたくさんの物語が集まっているにせよ、私たちの目に入るのは、ランキング上位の作品ばかりであり、そこには一定の偏りがあることが想定できます。物語の多様性は、そんなに広くないのです。

これは、膨大な情報(作品)を扱うプラットフォームには必ずついて回る問題で、キュレーターやアグリゲーターがその問題を解消してくれることが期待されていますが、実際のところどれだけ機能しているかはわかりません。なんとなく「そのとき話題の、人気の」物語ばかりを摂取しているのではないか、という危機感が湧いてきます。

■さいごに

本来、それぞれの人が必要とする物語は異なるはずです。

このメルマガを読みの方の中には、小説を読んで「まるで自分のことが書かれている」と感じたり、物語によって心が救われたりといった経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。

でも、その作品が、他の人を同じように救うことを期待することはできません。それぞれの人生において、必要な物語は異なるのです。

だからこそ、この世界にはたくさんの物語が溢れていて欲しいのですが、一方でそうした物語がどうやって私たちのもとへ運ばれてくるのか、という問題が厳然として残ります。

自分の狭い好みや、短期的な人気を獲得したものばかりに限られてしまうのならば、いくら豊かな物語空間が広がっていても、私たちが自分の物語りを、自分に適するように読み替えていくのは難しくなるでしょう。

この問題は、表面的には(たとえば経済的には)小さく見えるかもしれません。でも、人が生きていくというレイヤーにおいては、かなり大きな問題であると私は感じます。

好奇心を持って世界を眺め、さまざまな物語に手を伸ばしていく。ときに、ちょっと小バカにするような、嫌悪感すら感じる物語すらも、引き受けていく。

そういう姿勢が欠落していると、公正感のある正義に近接していくのも難しくなりますし、自分の人生が想定とは異なるルートに乗ったとき、読み替えていくのも難しくなります。些細な問題とは、決して言えないでしょう。

大切なのは、物語のチャネルを開いておき、たまに紛れ込んでくるノイズも受け入れることです。その異物こそが、自分の人生の物語を読み替えるときに役立つのかも、しれないのですから。

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たくさんの物語に触れること

倉下忠憲

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倉下忠憲

倉下忠憲のWRM 「読む・書く・考えるの探求」

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