第九回 あなたはYouTuberを笑うのか?(3)

僕は彼らを笑うことができるのか。答えはNoである。

振り返ってみれば、自分だってそうとうに愚かしい人生を歩んできた。そんな僕がいったい誰を笑うことができるだろうか。

そもそも愚かしい歩みがあったとしても、今こうして僕は生きている。それは結構大切なことだ。だから、死ぬほど愚かしいことでないかぎりは、何をしてもいいと言っても間違いじゃない。

でも逆に、「自分は愚かしい人生を送ってきた。だからこそ、彼らには同じ轍を踏んで欲しくない」という理屈付けもできるだろう。一つの出発点から、真逆の提案が出せるわけだ。つまり、この理屈付けにはたいして意味がない。

なぜ、そのようなことになるのか。それは「僕の人生は僕の人生であり、彼らの人生とは違う」からだ。でも、上記のようなアドバイスは、あたかもそれが同じようなもの(あるいは似たようなもの)として語られている。そこに過ちがあるわけだ。

前提に過ちがあるのだから、その後はいくらでも好き勝手に展開できてしまう。だから、こういう考えを辿るのはもうやめよう。特に意味も益もない。

人はそれぞれ違う人生を生きている。そして、人は「人間である」という共通点を持っている。違っていて、同じ。これが難しさの源だ。

だからまず、僕は自分のことを語ろうと思う(違っている)。そしてその後に、何か普遍性のあることを探してみたい(同じ)。

たとえば、僕は昔からいろいろなものになりたかった。

たぶん最初は、プログラマーにあこがれていたと思う。それもフリーのプログラマーとしてやっていける凄腕の技術者に。理由は簡単だ。そうすれば組織に属さないで生きていけるから。それに僕はゲームをするのが好きだったし、自分でゲームを作るのも好きだった。トランプを使って独自のルールをいろいろ考えて遊んでいたこともある。ゲームを作るテレビゲームも結構好きだった。だから、これはなかなか良い選択に思えた。

いろいろな言語の入門書も読んだし、自分で手を動かしたりもした。シューティングゲームとかタイピングゲームとか、そういうやつだ。「基本情報技術者」という資格も取った。

でも、やっぱり気がついたのだ。これで生きていくことは僕にはできないと。今でも日曜大工的なレベルでプログラムは書けるが、それで仕事しようとも、あるいはできるとも思わない。

なりたかったものは他にもいろいろある。動機は基本的に同じだ。会社に雇われないで生きていくこと。プロハスラーになろうと思ったこともあるし、プロ雀士の試験を受けることも割合真剣に考えた。デイトレにもはまり込んだし、一日2万円勝てば、これで喰っていけるな、とパチスロに通っていたときは皮算用したこともある。パソコンを手にしてからは、小さな会社のWebサイトをいくつか構築した。もちろん、仕事として請け負ったのだ。そのためにPhotoShopとillustratorの使い方を勉強した。

それぞれの分野で、湯水のような時間となけなしのお金をつぎ込んできた。でも、どれ一つとして仕事にはならなかった。僕の職業人生欄に書き込めるものは、何も無い。いったいそれと、YouTuberを目指す人にどのような違いがあるだろうか。たぶん一緒だ。何か違いがあるにせよ、それはドングリの背比べにすぎない。

だから、僕に彼らを笑うことはできない。それにもともと笑うつもりもない。なぜだろうか。

それぞれの分野についてはかなり熱中したが、最終的に実を結ぶことはなかった。なにせ今の僕の仕事は物書きで、前職はコンビニ店長である。無情なほどに関係がない。だったら、それらは無駄な行為だったのだろうか。無意味な行為だったのだろうか。

そうかもしれない。あるいは、そうじゃないかもしれない。

今のこの時点で振り返ってみれば、無駄な行為とそうでない行為は選り分けられる。でも、人生を歩いているその瞬間に、そんなことが可能だろうか。

たしかに僕が一時期熱中したことは、今の僕の仕事にはなっていない。でも、たとえばデザインを勉強したことで、自作の電子書籍の表紙作りは大いに助かっている。ソフトウェアの使い方をちょこっと囓っているだけでもずいぶん違うものだ。

他にも、微量ながら、あるいは間接的に役立っているものはいくつもある。ただし、全部ではない。そこが難しいところだ。

人生の効率化を望むなら、無駄なことは排除していきたい。でも、ある時点で「これは将来に役立つから」とか「これは役立ちそうはないから」なんてことが見通せただろうか。なにせ、その段階では将来自分が物書きになって、自作の電子書籍を作るなんて知らないのだ。

だから、未来を確定させる力がない限り、何が無駄で何が無駄でないのかはわからない、とは言えそうだ。そして、未来は常に不確定な要素を持っている。別の言い方をすれば、人生は何が起こるかわからない。

民族学者の梅棹忠夫さんが残したこんな言葉がある。

人生をあゆんでいくうえで、すべての経験は、進歩の材料である。

30歳くらいになると、とても身に染みる言葉だ。でも、ちょっとばかり注意が必要だろう。少し間違うと「起きていることは、すべて正しい」的解釈になってしまう。それは大きな勘違いだ。

一つには、人生をあゆんでいく、という姿勢が必要であること。もう一つはそれが「体験」ではなく、「経験」として知覚されていなければならない、ということ。この二つに留意が必要である。

ただし、ここで「体験」と「経験」の違いについて説明するのは、いささか込み入ったことになるので避けておこう。ただボーっと過ごしただけでは、それは経験とは言えないんじゃないか、ぐらいに理解してもらえばいい。

さて、僕は何が言いたいのだろうか。

(つづく)

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