第五回 「インターネット的×知的生産の技術」その5 〜メディア的に生きる〜

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長かった回り道もようやく一段落した。ようやく要点に入る。忙しいウェブ向けであれば、本来ここを先頭に持ってくるのが冴えたやり方なのだろうが、あえて真逆の構成を取ってみた。もちろんそれには理由があるのだが、それはまた連載内で触れることになるだろう。

これからの社会は変化し、ゲームもルールも変わっていく。タテ型社会とヨコ型社会はかなり異質である。たぶん言葉の使い方ひとつ取っても違う。前者は業界用語的な世界であり、後者は外国人に説明するみたいな世界である。タテ型社会のつもりで、ヨコ型社会で生きているとエライ目にあうだろう。しかも、これから訪れるのは多層的ヨコ型社会である。そんなものは、人類はまだぜんぜん経験していないのだ。

とりあえず大きな枠組みが変わると、コツみたいなものも変わっていく。大先輩のありがたい教訓も、話半分くらいの気持ちで聞いておくのがよいだろう。

その代わり、自分の頭で考えなければいけない。本当の意味での自分の頭で考える力だ。誰かが「自分の頭で考えましょう」といって即座に「はい、そうです」とうなずくようなものではない。そういうのは、何かが間違っている。歯車が噛み合っていないというか、ずれている。本当に必要なのは、自分で問いを立ち上げる力だ。なのに、答えを与えてしまっている。そのズレは、__発言者が意図的にやっているのでないならば__表現力の不足なのだろう。適切な伝え方ができていないのだ。

さて、『インターネット的』の中で、糸井重里さんは、「インターネット的」なものの特徴を三つあげている。一つは、リンク。もう一つは、シェア。最後の一つはフラットだ。僕は、この三つについてうんうん唸りながら__というのは大げさだけど__考えてみた。それって何なのだろうか、と。

その三つを統合するような身近な何かとはなんだろうか、と。

そうして、出てきた答えが「メディア」であった。だから僕はこの連載のタイトルを「メディア的に生きる」とした。たぶん、そういう風にまとめられるんじゃないかと、そんな気がしたわけだ。

『知的生産の技術』の中で、梅棹忠夫さんは「知的生産」を次のように定義づけている。「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出すること」。これは僕が毎日ブログでやっていることだし、言ってみれば、テレビや新聞といったメディアがやっていることだ。さらに梅棹さんは、知的生産というものを「積極的な社会参加」とまで述べている。その代表的な形がメディア産業だろう。それが現代では広範囲に広がっている。Youtuberだって、メディアだし、知的生産しているのだ。

メディアとは、ミディアムの複数形であり、意味するところは「媒体」である。何かと何かをつなぐもの。それはリンクということだし、そのためには「頭をはたらかせる」ことが必要になってくる。

だからたぶん、この二つの本は基本的な部分で同じものを指していて、僕をそれを「メディア的」という言葉で無理矢理まとめてしまおうとたくらんでいる。

たぶん、自分でブログを運営することも、メディア的な生き方だ。もちろん、それは純粋なメディアであると言い切ってしまってもいい。でも、一歩足を引いて「メディア的」と表現したほうがいろいろなものがスムーズに流れると思う。少なくとも固くならなくて済む。

メディア的であろうとすると、情報に敏感になる必要がある。それは速度の面だけではなく、正確さについてもそうだ。でも、それ以上に「面白そうか」というポイントこそが重要である。だって、そうでしょ。面白そうだから情報はメディアに載るわけだ。ブログを運営するのも同じである。

そこでは、ある種独善的な姿勢が求められる。言い換えれば、何をメディアにのせるのかを自分で決めるということだ。自分で決めて、その結果を自分で背負い込む。そこには共同体のルールなんて関係ない。関係ないというか存在しないのだ。だから、うんうん頭をひねることになる。「自分にとって面白い情報とは何か?」「自分にとって大切なものは何か?」__そんな問いに向き合わなければならない。

そしてそれは、これまでの日本で徹底的に不足してきたものだ。それはここまでの連載で書いてきた通りである。メディア的に生きることは、それ自身が何かをもたらしてくれると共に、一種の練習でもある。「自分」というものを確立するための練習だ。そういうものが、これからの社会ではきっと大切になってくる。

リンクは自分から貼ることもできるし、誰かから貼ってもらうこともできる。でも、つまらなかったり意味がなかったりするページはリンクしてもらえない。そこには、旗みたいなものが必要なのだ。目印とかフックと言ってもいい。

で、自分にとっての旗を表明するのもやっぱりメディア的な行為だし、言ってみればそれは知的生産なのだ。もののみごとに、この二つはつながっている。

僕たちは、これからの社会を生きていく中で、「自分のもの」を生み出していかなくちゃならない。たぶん、それは中世ヨーロッパの職人みたいなことになるだろう。

彼らは自分が使う道具を、自分たちで作っていたに違いない。自分の手のサイズにぴったりあう道具を、時間と手間をかけて作っていったわけだ。その職人たちと同じような手つきで、僕たちも自分なりのやり方や考え方を生み出していくのだ。しかも、道具と同じようにそれは「一揃え」が必要である。ハンマーだけで仕事をやり遂げるのは厳しい。ときには小さなノミややすりみたいなものもあった方がいいだろう。そういうツールセットみたいなものがあれば、しなやかに生きていくことができそうだ。

でも、そこにどんなツールが揃っていればいいかを、僕はうまく提示することはできない。だって、靴職人と刀鍛冶では必要な道具が違うだろうから。この話も以前の連載で書いたことだ。人が抱える人生の問題は、人それぞれで違う。だからこそ、僕たちは自分の道具を自分で生み出さなくちゃいけない。

でもって、それができるならば、僕たちはもっと柔らかく生きていけるはずだ。手持ちの何かが機能しなくなっても、自らの手で修繕できるようになる。いわゆるブリコラージュ的な振る舞いができるようになる。問いを立てる力とは、つまりはそういうことだ。答えを与えられても、こうはうまくいかない。

たぶん「メディア的」に生きるとは、他者との関係の構築スタイルと、そこから何かしらのパワーを生み出す方法のことなのだろう。それが僕らの生存戦略というわけだ。

言うまでもないけれども、「メディア的」に生きるとは、広告を取ってきて記事や番組を作る、ということではない。もちろん、そうしてもいい。それがあなたがやりことならば、どんどん進んでいけばいい。でも、それはあくまで全体の中の一部の話でしかないし、それを「成功の法則」みたいに考えると、根本的な部分で前の社会の考え方を引きずっていることになる。

「メディア的」とは、「媒体的」ということだ。何かと何かをつなぐ存在である、ということだ。何と何をつなぐのかは、まったくの自由である。どのようにつなぐのかすら、裁量はあなたの手の中にある(それがぴったりなサイズであるといいのだが)。それはコネクターなのかもしれないし、アダプターなのかもしれないし、プラットフォーマーなのかもしれない。人と人をつないだり、人と情報をつないだり、情報と情報をつないだり、熱意とお金をつないだり……。

今の世界ですら、うまくつながっていないものはたくさんある。それを眺めて、あなたがつなぎたいと思うものをつなげばいい。そのための行動を起こせばいい。それが「メディア的」に生きるということだ。

そして、あなたが何をつなごうとしているのか、ということが、あなた自身の表明ともなる。日本経済新聞は、経済の情報を伝えることで__ゴシップな情報は伝えないことで__、自身の特徴を雄弁に伝えている。「メディア的」に生きるとは、つまりはそういうことだ。

もう一度言うが、広告をとってきて記事を書く、ということだけが「メディア的」な生き方ではない。媒体的であればいいのだ。そしてそれが、多層型ヨコ型社会に対応した生き方となるだろう。

これで、この連載の枕は終わりとなる。次回からは、実際のメディアやそれに近しい話を持ち出しながら、「メディア的に生きる」ことについて考えていこうと思う。

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