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「神秘捏造」ミステフィカシオン~女人訓戒士O.D~

シーン7【いまわの声】

教室の真ん中の窓が開け放たれ、風景の静止した昼下がり

手本から目を上げる頃、銀杏の葉が落ちてゆく

時折なんのはずみか、舞い上がりながらひらひらと落ちる

秋は一番短い

日差しが強いと汗ばんで、お気に入りのジャガード織りのがま口を持てない

なんだか手垢で汚してしまいそうで

銀杏と紅葉のコントラストが、秋の色だと思えた

そう言うのなら稲穂と甘薯芋の色もそうだ

空に映える鮮やかで暖かな色

夏や初夏のきらきらしさではない

春のぼうっとした霞みではない

ひし形や三角が繋がった帯状の光

それは少し白っぽい膜で抑えられた、黄色や赤紫の反射線だった

太陽に照らされて輝いて、突然槍のような氷雨に突かれて、一瞬にして過ぎ去ってしまう金色の季節

視線を手本の文字に落としながら、意識は遠い過去に向かっていた

魔法の世界と繋いでいるかのように、そこに近づくにつれ歌声は天の裾から聴こえてくる

そのじつ、開け放たれた窓から逃げて行く旋律だった

銀杏の葉が呼応して、はらり・・落ちる

ビロードの黒い艶のドレスを着た少女

落葉が敷き詰められた森の、公園のベンチの前で佇んでいる

まだ積もったばかりの新しい落葉の色なのに
冷たく斬るような清浄な冬の空気が、背後の森から漂っている

濃いグリーンの細いリボンを、カチューシャにしている

「おかあさま」

少女がひとことだけ口にする

この世にはもう肉体はない

それでもいなくなったままの姿でずっと

私を呼んでくれる


歌い終わると、彼女は喝采の祝福を受けた

「はい、よろしい。とても素晴らしいお声だったわ」

きちんと黒い羽織に身を包んだ女教師は、満足かと言えばそうでもないように、彼女に頷いて見せた

滑らかに白い肌だが蒼く、頬骨の高い神経質そうな顔立ちだ

判定は合格点だが、満点ではなさそうだ

待ちきれず、周りから声が上がる

「素敵だわ、翠子さん!マーティの大地の園ね!朗読からいきなり歌ってしまわれるなんて、さすが英語スピーチ全国二位の才女だけあるわ!」

「本当に!肝が座ってらっしゃるわ!わたくしなら恥ずかしくて、度忘れしてしまうわよ」

豊穣をもたらす天使の祝詞

大地の歌は少し、女教師にとって解釈と意味合いが違うのだった
彼女が足を踏み込めない大地は、霧と永久の凍土で閉ざされている

「はいはい、皆さん。それくらいになさい。時に、祐天寺翠子さん」

「はい、江原先生」

「あなたは『L』の発音の手前にさしかかると躊躇なさるわね?読み込んでいるし、貴女自身どこで『L』が現れるかわかっています」

「はい、江原先生」

「そしてそこに行く前の瞬間に、とても早い段階で、あなたは『L』の完璧な発音を外す自分を想像しました。恐れですね?そしてそのミスは完璧に発音出来たはずの手前の単語さえ、端切りしてしまいました」

「はい、その通りです、先生」

「あなたは『L』の発音を鍛練しています。ですがどうしても引っかかってしまうのですね」

「はい、江原先生」

「励みなさい。鍛練し続けて、つかえても舌を噛みながら、もっと読み込んで下さいね」

「はい、精進いたしますわ」

*******

祐天寺翠子は鏡の前にいた

その鏡は壁際ではなく、わざわざ西洋式の手洗鉢を、同じ台に取り付けてドアを開けて入った先にある

ドアのすぐ脇には長椅子があり、学生鞄をそこに置くとすぐ鏡に向かい合った

鏡の両脇から正面の天蓋付きの寝台が見えた

本当ならすぐにでも寝台に腰かけて、そのまま横になって眠りたいくらい消耗していた

コンクールの後の冷めやらぬ高揚感なら、疲れさえ翠子の技量の糧になったのに

(また『L』に負けた)

翠子は口をあけた

下顎を後ろに引っ張るように、唇の運動を始めた

あ、い、う、え、お

レッスンのための運動とはいえ

様々な口の開閉

角度を変えながら翠子は二十面相に変身する

かなり崩れ落ちる顔相を見て、教室の皆が見たらなんと噂するだろうと、脳内で同時変換していた

そして『いーっ』と顎を突き出してみる

口を縦に開きながら徐々に大きく

『えーっ』と舌を出す

舌の先が意識とは別に違う生物のように勝手に動いた

やりはじめの頃、舌の裏が痛かった

舌の裏の肉の色と、そこに潜った異質な蒼いのか紺紫なのか、えもいわれぬ筋が不気味だった

強靭そうだが、薄皮一枚から盛り上がっているその血管は、刃を当てれば即血を吹き上げるに違いなかった

徐々に、徐々に

舌を下唇の下まで垂らしてもなお

外界に伸ばしていった

(顎が外れたら舌はだらりと伸びるのかしら)

顎が痛むほど伸ばしてはみたが、顎が外れてしまっては元も子もない

もしも首を吊ったなら、きっとそんな状態になるのかもしれない

翠子は自分ではない、或る中年の男のそれを想像していた

洗面台の小引き出しから糸を取り出す

『絹小町の白糸』

左人指し指に絡めた

姫切り鋏を持った右の人指し指で引いて、少しひねるようにして糸を切った

両指で舌の根元を結わえる

何度も何度も続けるうちに、なんとなくクビレが出来たような気もする

時々力を込めすぎて、真っ赤な顔をした恐ろしい女の顔を見ていた

それは自分に間違いないのだが、映っている自分を見ている自分は映っていないのだった

鏡というのはなんとも不思議な品だと思った

翠子は夕食まで少し寝台で休もうと思った

*******

翠子の卓上には、週に二回『タングシチュウ』が運ばれて来る

『ビーフシチュウ』なら幼い頃から洋食亭で見慣れている

翠子も以前は『ビーフシチュウ』を好んでいた

それが全国英語スピーチ大会で二位に甘んじ

呪詛の障りであるかのように、翠子は『L』の発音でつまずき続けた

翠子の英語の実力はもうこれまでで、くすんだ将来が見える気がした

栄光に包まれた

輝いて世界の歌姫を夢見ていた

ただそれはオペラ歌手、であるのかは翠子にもまだ判断がつかなかった

西洋人と生まれた時からたがわず、ただ『L』の滑らかな発音を

流暢な英語に固執した

ある休暇の折、級友の子女の遠戚の牧草地に招かれた

翠子は柵に掴まりながら、牛が啼くところを見た

その開けた大きな口から飛び出した舌を見た

瞬間西洋人は皆、この牛のように舌が長いのだから当然だと、翠子は妄執した

西洋人の食文化は長く牛の肉を食べて来たことにある

翠子は帰省後『ビーフシチュウ』から『タングシチュウ』に切り替えた

薄く切らずに、それでいて厚みがあって

出来るだけ柔らかく煮込むように頼んだ

卓上では細かくナイフで解体し、牛の細胞が翠子の体に密に溶け込むように

ゆっくりと咀嚼し味わった

週二回の『タングシチュウ』の後の紅茶は、ことさら美味しいと翠子は満足するのだった

「本当に『タングシチュウ』を食べた後のお紅茶はさっぱりして美味しいわ。わたしのなかの牛の生々しさだけが帳消しにされたような気がするの」


*******


そのようにして祐天寺翠子の英語と歌唱力はメキメキと伸びていった

誰ともなく彼女の舌は、牛の細胞が溶け込んだ成果もあり、確実に数ミリ数センチ伸びていると囁かれた


「あ~やれやれ」

長身のマント姿の男がぼやいている

言葉とはうらはらに、やや愉しそうな含み笑いを噛み殺している

「牛はやっぱり牛鍋。それかビフテキでしょ」

ニヤニヤしながら、なにやら手には鞭のようなもの

先は丸く、小さくすぼんだ穴が空いている

シャボン玉の輪っかのようだ

細い糸が輪っかから垂れていた

「豚は血となる、身を温める。牛は身を冷やして、胃には優しい薬になるなる」


文豪と言われるのは死してから

生きているうちはーどうでもいいことだった

女人訓戒士O.Dとなって生まれ変わった彼が去った後の世では

生の牛肉にバターを噛る、野性味を帯びた肉体倒錯の若者が増殖した

文豪だった頃は缶詰めなんてものが洒落ていたし、ずっと後の世まで牛や馬がちんまりした缶に収まっている
それはそれで不思議な感覚に引き込まれる

新鮮な牛肉のたたきは薄く削がれ、玉葱と酢で和えられたそれはマリネと呼ばれるようになる
胃腸不和に効くらしい

牛の肉は時として重大な感染症を引き起こす

牛が牛、豚が豚、が食べる餌に同類を混ぜ込んで食べさせたことが原因であるとされる

が、あえて人間は人間の餌に人間を混ぜるということはしない
古い歴史の中では存在し、一部では愛好家として今も続いているという

すべては人間の都合というだけの話

まして牛と人間との共(依)存は、女という個体が動物の一部を肉体に取り込む行動にある

その動物の一部を食べて、その一部の能力を肉体に宿す

女は特に自らの肉体に倒錯しやすい

美貌と若さへの執着は凄まじいが

各器官、局所的、造形には各自こだわりが強く出るように見受けられる


人間の体は食べたもので作られている


「わ~かい娘が●▲■。牛のように乳を飲み、牛のように食べ、牛のように眠り、牛のように産む。それが一番だねぇ」


今日も女人訓戒士O.Dは空を見上げる

見上げた窓の向こう側の、美声の君の末路を想像しつつ、行く末を案じつつ

いつも徹夜で仕上げる仕置き道具を引っ込めた

苦い味する茎の長い葉っぱを咥えて見てた

白い雲は平和そうに、足早に流れて行った

空の上は地上より、ずっとずっと強く風が吹いている

「ど~れ、竹子にお団子買って行ってやろうかな。豚串に焼き鳥。なんかそんな気分じゃないしなあ・・」



追記

やっぱりベビースター旨し

チキンじゃねぇかと嗤う

『ベビースター5連を食べながら思い浮かんで書いた夜』

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