見出し画像

不登校でその後の人生が狂った話、前編

誰しも学校に行きたくない時はありますよね。
休み明けなどは特に気が進まなくなります。

けれどそんな比じゃないほど強い拒否感がありました。

小学生のときにいじめを受け、1番仲の良かった子が離れていき、親が子供の現状を軽く見ていたことにより、私は小学5年生のとき不登校になりました。

クラスの女子全員からいじめられていたわけではなく、特定の人だけでした。
4年生になり、その子とクラスが一緒になったのが運の尽きでした。
子供の数があまり多くない学校で、その年にまた人数が減ったことにより、1学年につき1クラスとなったのです。
その子からのいじめは、すれ違うたびに肩パンされたり、隣の席になったときに露骨に大声で嫌がったり、その程度のことでした。
特にその子はクラスの中でリーダー格の子に気に入られていたので、周りの子も何も言わなかったのでしょう。

それと同時期に毎日一緒に登校していた子が話さなくなりました。
登校中、学校に近づくにつれて話すことが減り、時が経つにつれ何も話さなくなりました。
何があったのかはわかりません。
そして一緒に登校するのはやめようと言われました。

最初はそれを承諾しました。
ですが私はいじめを受けていてとにかく不安でいっぱいという状態でした。
それを見て母は一緒に登校するように頼んだ方がいいと言いました。

今考えるとこれは大きな間違いでした。
向こうは私がいじめを受けているから一緒に登校することを拒否したのだと思います。
そんなことを知る由もなく、私は母の言葉に従ってしまいました。

その頃あたりから、学校に行っても友達と話さなくなりました。
ただでさえ子供が少ないなか、1番仲が良かった友達は私に近づかなくなったこと、いじめてくる子がいることにより、私の居場所は教室のどこにもなくなりました。

それから間も無く、よく吐き気を感じ、嘔吐するようになってしまいました。
しかし、それを親に言うこともなく何食わぬ顔で過ごしました。

そのまま学校に通い続け、1年が経とうとしたとき、限界がきました。

ある冬の朝、母に学校に行きたくないと泣きつきました。
この時、母は私の様子にただのサボりではないと感じたのか休ませてくれました。
たった1日だけ休みました。

それから年度が開け、しばらくは学校に通いましたが、そのうち休み始めました。
もちろん体調不良ではありません。
おそらくそれが私の限界だったのでしょう。

朝起きれなくなり、ベットから出なくなりました。
ただただ虚無に過ごしました。

その時の学校の担任の先生も私に対して何かすることもなく、時間だけが過ぎて行きました。

母は私がなるべく塞ぎ込まないよう外に連れ出してくれました。
また、精神科にも連れて行きました。
私に問題があるのか、改善策を探していたのだと思います。
いじめが原因ということはわかったようです。

しばらくが経ち、母の提案で学校の保健室に通うことになりました。
授業時間中は代わる代わる先生が指導し、休み時間は保健室の先生と給食を食べたり、保健室に遊びにきた下級生の子と遊んだりしていました。

当時私は、「学校に通っている」と言う事実に救われました。
子供が学校に通うのは当たり前、通えないのは異常という意識が強かったため、教室でなくとも通っているという行為が必要でした。

そのまま6年生になりました。
その時の担任先生は熱心な方で、その時のクラスに蔓延る様々な問題を解決しようと尽力してくれました。

保健室にいる私に給食を持ってくる子を決めて話す機会を増やしたり、学校の行事に参加させるようにしました。

そのおかげでクラスに戻れるようになりました。

しかし、一度特別扱いを受けて、クラスの子と話せるようになったように錯覚しましたが、一度はぶられた存在はそのままクラスの子の輪に入ることは難しいです。
教室に通うようになり、同級生と話そうと努力しましたが、途中で諦めました。

イジメは無くなりましたが、私の居場所はやはりどこにもありませんでした。

そのまま卒業しましたので、私の卒業文集の自由書き込み欄は綺麗なままです。

ここまで長らく書き連ねてきましたが、私はほとんど覚えていません。
不快な記憶は忘れるようにできているようで、後から親に聞いたことや、自分の朧げな記憶を繋ぎ合わせて当時の様子を再構築しています。

ここまで長くなりましたのでそんな背景を持ったまま中学へ行った時どんな影響がでたか、それが今どんな弊害を及ぼしているのかを次にお話ししようと思います。

後編→不登校でその後の人生が狂った話、後編


頂いたサポートは家から出る際の資金にさせていただきます。