『ヴィンランド・サガ』ビョルンがアシェラッドの友達ってなんでそう思えるの?

アニメ化を機にちょっと検索してみたら、アシェラッドはビョルンを友達(あるいは本当の仲間)だと思っていたととらえている読者が多いことに愕然とした。何でそうなる???? なんかすげー希望的観測だなそれ。

ビョルンがアシェラッドの友達だと思ってる人は、じゃあその前の自称無敵兄弟の弟アトリとの別れは何だったと思ってるの? いやもっと言えば、5巻でのアシェラッドのこの台詞をどうとらえたの?

今まで話したことはなかったがな
オレァ お前らと過ごしてきたこの十数年間
お前らのことが心底嫌いだった
豚にも劣る暗愚なデーン人どもよ
 (出典:幸村誠『ヴィンランド・サガ』第7巻141ページ)

愚かで醜悪で無知蒙昧なヴァイキングを、何より憎んできたアシェラッド。戦うことしか能がなく、そうすれば酒池肉林の天国に行けると本気で信じている。こいつらは戦えば戦うほど、本当の戦士からかけ離れていくクソみたいなバカどもだ。そしてビョルンは、まさに骨の髄からのヴァイキングだ。

考えてもみてくれよ。ビョルンさえいなければ、このクソみたいな世界で唯一の本当の戦士、トールズを殺さずに済んだかもしれない。あいつはトールズの大きさを全く理解しなかったからこそ、子どもを人質にとって投降を迫った。そしてその結果、最強の戦士は失われた。

戦うこと、強いこと。それだけを追い求めるくせに、本当の強さも戦いも知らない醜悪なヴァイキングの代表のようなビョルンを、アシェラッドが友達だなんて思うはずがあるか? バカも休み休み言えよ! 長い付き合いで一度たりとも本心を見せなかったのが、彼がビョルンに心を閉ざしていた証拠だろうが!

アシェラッドは、ビョルン以外の手下たちには、ついに自分の本心を見せた。それが上の引用の台詞だ。

それは奴らが日和ったからだ。猪突猛進、戦いに生き死んでいくはずが、トルケルという怪物を前に日和った。つまり、その時点で奴らは純度100%のヴァイキングではなくなったのだ。だからアシェラッドは、そこで初めて奴らに本音をぶちまけた。

しかし一方、ビョルンはにはそんな時は来なかった。最後の最後までヴァイキングとして生き、死んでいった。強い戦士に殺されることが最高の誉れだと信じて。そしてそんなヴァイキングの価値観を憎むアシェラッドの手を煩わせて!

何だかこの時のやり取りを、2人が友達である証拠だととらえる人がいるのかな? なんかもうそれが、いやいやいやいやいやいや!なんですけど!

よーし、ちょっと冷静になって、このシーンの前後を確認しようか。ビョルンを葬る前に、アシェラッドが無敵兄弟の片割れアトリを見送ったことを思い出してほしい。

この時のアシェラッドの態度は、暗愚なデーン人に対するそれではない。裏切りなんか気にしなくていいと、二度と剣を握らずまっとうに生きて行けと、なんと路銀に腕輪まで贈ってやるのだ。

これはその後のビョルンとの戦いと、対照的なものとして挿入されていると考えるべきエピソードだ。(そうじゃなかったら何でここに挿入されたのかわからん)(ていうかそうでないとアトリが生き残った意味もビョルンを葬るエピソードの必要性もないよね物語上)

戦いの連鎖を生きるヴァイキングから降りたアトリには、人間として接するアシェラッド。しかし最期までヴァイキングとしての死を望むビョルンには、アシェラッドもヴァイキングの仮面を被ったまま向き合うしかないじゃないか!?

……ああ ビョルン
お前はオレの たったひとりの友達だ
 (出典:幸村誠『ヴィンランド・サガ』第7巻95ページ)

これは、仮面をつけたままでしかいられなかったことを示す台詞じゃないのか!? これは最後の最後まで、アシェラッドが毛の先ほどもビョルンにだけは心を開けなかったことの証明に他ならない。

そしてさらに、ビョルンを葬ったアシェラッドは、トルフィンとの代わり映えのしない決闘を受ける。いや、代わり映えしないどころか、いつもより醜く下らない戦いだ。いつになく荒っぽく叩きのめしたのも、立て続けに暗愚なヴァイキングにうんざりさせられたいたせいだ。

そこでアシェラッドは、彼がそこまでデーン人を憎むようになった発端について語り始める―――。

この一連の流れが! 見事に無駄なく物語のテーマに向かっているじゃないか! なんでそうとらえられないの~~~~~~~!

まあでもその理由も何となくわかる。

アシェラッドが孤独だなんてかわいそう
最後までアシェラッドを裏切らなかったビョルンこそ本当の仲間であり友だち

という現代日本人的な価値観のせいですよね。そういう人はおそらく、読む海賊漫画をお間違えでは?

なんかまあ、書いたらスッキリしたわ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?