見出し画像

Jリーグサポーターは世間から愛されているか?

世間の人々が感じているJリーグサポーターのイメージは?

阪神タイガーズの本拠地甲子園球場にはいわゆる「虎キチ」と称されるような熱狂的阪神ファンが大勢いて、試合中の選手たちにも聞こえるくらいの大きな声でヤジをがなり立てている。

と言うのが、プロ野球を普段見ない人たちの間でも通用するイメージとしてすっかり定着し、それがあたかも様式美であるかの如く、ある意味で「愛すべき対象」として捉えられている向きもあるように私は感じているが、それがJリーグのスタジアムへと場所を変えるとどうなのだろう。

世間一般の人々が感じているJリーグサポーターのイメージとは果たしてどんなものであるのか。

「反社会的」な姿を模倣してきたJリーグサポーター

勿論、少なくない人数の人々がそれを好意的に受け取っているのも事実なのだろうが、それがイコール「愛すべき対象」にまで昇華しているかと言えば甚だ疑問は残る。

「サポーター」という言葉が持つ陰のイメージ、傍若無人な若者たちがスタジアムで大暴れしたり、対戦相手サポーターとの間に激しい乱闘を引き起こしたり、不甲斐ないチームに対して数千人が一斉にブーイングの嵐を巻き起こしたり、こうした言わば「反社会的」なサポーター像を抱いている人たちも世間にはかなり多く存在しているはずだと私は思っている。

ただし、こうした「反社会的」なサポーター像自体が、ほとんどの場合は大きな誤解であることを日頃Jリーグのスタジアムへ通っているファンは良く知るところでもあるだろう。

しかしながら、こうした極端なサポーター像が形成されるに至ってしまったのには、欧州や南米といったフットボール先進地域で今もなおサポーター同士の争いが絶えず、そのあまりに非日常的でショッキングな光景が、日本社会にとって到底受け入れられる「スポーツの実態」であるはずもなく、そんな「非日常的でショッキング」なサポーターの姿を少なからず模倣してきたJリーグサポーターがいたからこそ、甲子園の「虎キチ」のようにJリーグのサポーターが愛される機会を持てていないように私は感じている。

ブーイング

だから、世間からやや誤解をされてしまっているJリーグのサポーターが、一寸の曇りもなく「愛されるべき対象」であるかと言われれば、私は素直に首を縦に振ることは出来ない。

試合を運営するクラブ側も、そうした問題が起きないような対策を適切に打てるようになってきたこともあって、ひと昔前のJリーグに見られた対戦するチームのサポーター同士が暴力沙汰の争いをするようなことはほとんどなくなったと言っていい。

今ではむしろクラブ側が定めたスタジアム内での取り決めに対して、それを執拗に順守させようとする新たな先鋭的サポーターすら生まれてきているほどだ。

しかし、それと反比例するようにして、あるひとつのサポーターによる行動パターンが、シーズンを重ねるごとにエスカレートしてきているように思う。

それは敗れたチーム、敗れたクラブのフロントに対する辛辣な猛抗議、つまりブーイングについてだ。

「こんなに必死に応援しているのに~」

「サッカーのサポーターとはこうあるべき」

始まりはこのような、欧州や南米のフットボールシーンに見られる光景の模倣であったのだと私は思う。

しかしこれがいつしかJリーグにおいてもサポーターの行動パターンの中に完全に組み込まれていってしまった。

そして欧州や南米に見られるブーイングの光景の背景にはあるもの、そこについては模倣しようがないので、Jリーグのサポーターは独自にブーイングする正当な理由を見出そうとする。

それが「こんなに必死に応援しているのに~」という論法ではなかったか。

「応援でチームを勝たせる」という思い違い

この「こんなに必死に応援しているのに~」にはその感情が生み出される前提の哲学が存在する。

それこそが「応援でチームを勝たせる」という非常にスピリチャルな哲学だ。

サッカーに限らずスポーツはなんであってもそうだが、そもそも「応援の質」で勝敗が決まる世界ではない。

100歩譲って「応援することでチームが戦いやすいムードを作る」ことは出来たとしても、それがそのまま試合の勝敗にまで影響を及ぼすことが出来ると考えてしまうのは、かなりの思い違いであると私は言いたい。

そしてこの「応援でチームを勝たせる」という哲学を信じ、自らのあらゆるエネルギーをそこに注ぎ込んだサポーターたちであればあるほど、チームが思うような結果を与えてくれなくなると、先に書いた「こんなに必死で応援しているのに~」という感情へと途端に変質し、そのストレスをチームやクラブのフロントに対して猛烈な勢いでぶつけてしまう。

みっともない人 みっともない集団

こうした人間心理の移ろいは、決してJリーグのスタジアムにだけ存在するものではなく、例えばごく普通の家庭における子育ての場面においても、そっくりそのまま置き換えることが出来よう。

「こんなに一生懸命に働いて、安くない進学塾にも通わせているのに、なんでお前の成績は上がらないんだ」

そしてこの親はこう思う少し前まではこう言っていたのではないだろうか。

「俺が頑張って進学塾の月謝分まで働いて、コイツを一流中学に入れて見せる」

こんな風に一般社会にいくらでも見られるこうした光景と、Jリーグのサポーターがブーイングする光景とには構造的な違いが何ら存在しない。故に、これを私は「反社会的」なサポーターの姿だとは考えないが、それでもややみっともない姿であるとは思っている。

「大の大人が」などと野暮なことを言うつもりも毛頭ないが、やはり「みっともない人」「みっともない集団」に近づくことを世間は極力避けようとする。

冒頭の「愛すべき虎キチ」には近づいて「ひと笑い」貰ってもいいかなと思えても、スタジアムのゴール裏で怖い顔をしてチームやクラブに罵声を浴びせている人たちの所へ行ってみたいという人がいれば、彼が普通の感覚を持ち合わせていない人間である可能性に危機感を持つべきかも知れない。

ファンになるきっかけは雰囲気とサポーター。サッカーじゃない。

元日本代表のスター選手で、現在はJリーグクラブの経営者をしているある方がこんなことを言った。

「ファンになるきっかけは雰囲気とサポーター。サッカーじゃない。」

私はJリーグのゴール裏を定位置とするような熱心なサポーターが「みっともない集団」であって欲しくない。

何故なら、それでは彼らがいつまでも「愛すべき対象」となれないだろうから。

そしてこれは勿論、日頃Jリーグスタジアムのゴール裏にもいる私自身への自戒も込めて。

毛利龍のツイッターはこちらから


『フットボールでより多くの人々の生活に彩りを生み出せたら』 と考える、フットボールライター(仮) 2017年、25年続けたフラワーデザイナーの仕事に別れを告げ、日本サッカーの為に生きることを決めてしまったが、果たしてその行く末は!?