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「遣唐使」の話。

なぜか昔から遣唐使に惹かれる。

さらに言うと、鑑真の渡日の苦心談とか、高岳親王航海記という小説とか、大黒屋光太夫の漂流譚とか、天正遣欧少年使節の足跡あたりにも興味津々だったりする。
これらの共通点は、造船や航海技術の未熟な時代に、大海原で木の葉のように翻弄された人とたちの記録ということになるのだが、無性に胸が掻き立てられる。ひょっとするとジブンの前世は “海に挑んだ関係”のヒトなのかもしれないと思うほどだ。

先日、出張で博多に行った。
博多に行くと、必ず立ち寄りたくなる鴻臚館という場所がある。ここはかつて西鉄ライオンズはや初期の福岡ダイエーホークスがホームグラウンドとした平和台球場のレフトスタンドに位置する遺構で、はるか古代は大陸や半島との海外交易の拠点となった施設である。
遣唐使が日本を発つときに順風を待った場所であり、逆に大陸・半島からの船が到着した際には使者や商品をもてなす場所でもあった。
当然ながら当時の建物等は残っておらず、建物の基礎のようなものや壕などがあるだけだが、眺めているだけで頭の中に往時の人々の息づかいや商人の躍動する様がまざまざと蘇るようで飽きさせない。

遣唐使について改めて思いを馳せてみた。
当時において渡唐という行為は文字通り「命がけ」の事業で、その成功率は50%にも満たなかったという(諸説あり)。一度に4〜500人の政治家、僧侶、留学生らが四艘ほどの船に分乗したようだが、まさに各地から選りすぐられたエリート人材ばかりであったろう。
だが渡唐できる確証はどこにもなく、そのうち一艘がたどり着くかつかないかというハイリスクであった(往路は無事でも復路で遭難・難破ということも少なくなかった)。

遣唐使としてのミッションを完遂し、無事に帰国を果たした空海や吉備真備らは今の日本の歴史を作ったけれど、その裏では数え切れない人材や書物、経巻、宝物などが海の藻屑と化したことは事実だ。
その中にはこんにちの日本の国体や歴史を大いに変えるヒトやモノもあったに違いない。

我々に許されるのは、そのifを勝手気ままに妄想することのみだ。けれども、その妄想は尽きることがない。

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