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伝説の日本刀:(四)『裁断銘』と簡単な『刀剣用語の話』

※本エントリィには江戸時代における、罪人の遺体を用いた試斬についての詳述が含まれます。その様な内容について忌避感を感じる方は閲覧を避けていただけると幸いです。

本エントリーは『河井正博氏』よりご寄稿いただきました。
河合正博氏プロフィール:随筆家、歴史と刀剣の愛好者
本編は以下からどうぞ。

【江戸期の試斬について】

前回、国宝「童子斬り安綱」の太刀の「六つ胴敷き腕、土壇払い」の斬れ味に関する逸話が出たので、日本刀の江戸時代に於ける『裁断銘』について、少し寄り道をして触れてみたい。

また、安綱の太刀の解説部分で、佐藤寒山先生の専門書から一部引用させて頂いた文章が、難解だったとの若い女性の方の感想も頂いているので、後半で、若干、日本刀の用語についてお話ししたいと思っている。

但し、日本刀独特の『刀剣用語』は意外に広範囲なため、本稿では、日本刀の形状に関する用語を中心にご案内してみたい。

日本刀が武器である以上、戦乱の時代の「斬れ味」に関する伝説は多く、ちょっと思い付くだけでも、織田信長の「へし切長谷部」、京極家伝来の「ニッカリ青江」、立花家伝来の「雷切り丸」等々があり、それぞれに斬れ味に関する興味深い逸話が伝承されている。

しかし、戦乱が終り、大平の世が訪れると実戦で斬れ味を試す機会も無くなった結果、一般的には、藁の中央に真竹を一本入れた試斬用の「巻藁」や、更に、その周囲をコモか俵で包んで太くして水に漬けた巻藁を斬って、刀身の斬れ味を試している。

けれども、戦場で実際に人を斬った経歴の刀と、巻藁で斬れ味を試した刀では、武士同士の会話でも大きく見劣りがしただろうことは、令和の今日から見ても迫力に相当大きな差を感じる。
増して、戦場の血しぶきを体験した多くの武士達にとって、試し斬りの真価とは、人体以外で試しようの無い感触だったようだ。

そこで生まれたのが、死罪になった首の無い死体を、斬り易いように土と砂を混ぜて一尺(約30cm)弱の高さに築いた檀(土壇)に竹を四本立てて、その間に死体を一つ、あるいは二つ、多い場合は、三つと交互に積み上げて試し切りする「土壇払い」その他の手法であった。

恐ろしいことに死体を両断して、刀が土壇まで達した段階で、切断できた胴の数によって、「一つ胴」や「二つ胴」、「三つ胴」あるいは、「二つ胴土壇払い」等の裁断結果を保証する銘が斬り手の氏名や裁断した場所、年月と共に茎(なかご)に記入されるようになったのだった。

斬り手としては、山野加右衞門永久や山田浅右衛門貞武が有名であるが、裁断銘の中には、切り銘では無い、金象嵌銘や銀象嵌銘等のお金の掛かった銘も存在する。

この傾向は、江戸を中心に江戸時代前期に全国的に流行するが、我々が日常拝見する裁断銘のある刀の作者としては、剣術が流行した寛文頃の「長曽根興里入道虎徹」や「大和守安定」等の江戸新刀の鍛冶が多く、次いで、新々刀期の「固山宗次」等の刀が多く見受けられる気がする。

それ以外では、古刀期の刀、特に、室町時代から戦国時代に掛けての実戦刀である末古刀を江戸時代に試して、「籠釣瓶」や「草の露」等の斬れ味をやや文学的に表現した刀が多く残っていて、拝見していても、雅味のある表現に、思わず微笑ましく感じるケースも多い。

一振りの刀で何度も試し斬りをした刀としては、「加州金沢住人藤原信友」の刀で、「二つ胴、四つ胴、中のおけすえを両三度土壇払い」したとの裁断銘が、金と銀で象嵌している刀を拝見した記憶がある。斬り手は、村井藤右衞門長昭とあった。

それでは、斬れ味の優秀な史上最高の「伝説の裁断銘」として残っている日本刀は何かというと「七つ胴落」の銘のある兼房の刀らしい。残念ながら、写真でしか見ていないので現物は未見だが、試したのは、延宝九(1681)年二月で、切手は中西十郎兵衛如光とある。

死体七つを重ねて斬った驚異的な記録だが、一体どの様にして斬ったのか、想像も付かない超人的な記録である。

このような日本刀の歴史を述べると、きっと幕末に活躍した新選組隊士達を初めとする勤王や佐幕の志士達は争って裁断銘のある刀を求めて使用したように考えやすいが、現実に実戦で使用した新選組隊士の刀は、残っている記録から推定すると新刀や当時の現代刀だった新々刀の二流や三流の刀工達の刀が多かったようだ。

何故かというと、闘争が日常茶飯事の隊士達にとって、消耗品である刀は実用に耐える強度と斬れ味さえあれば、安価な方が好ましかったのではないかと考えられるからである。

そういえば、以前に、明治生まれの刀鍛冶の人との会話で、
「江戸時代の刀で銘を切ってある程の刀は、無名の刀鍛冶の刀でも、安心して使える」
と古い人から言われている、とお聞きした記憶がある。

【刀剣用語の話(時代的な形状の違い)】

美術館のガラス戸越しや実際手に持って、「日本刀」を見た時、最初に気が付くのが、刀の長さや反り具合と刀の身幅、鋒(きっさき)の大小だろうか?それとも、予想以上に感じる手持ちの重さや軽さだろうか?

確かに、刀剣愛好家の会話でも、
「素晴らしい姿の『踏ん張りのある』鎌倉時代の太刀ですね!」
とか、
「如何にも寛文新刀らしい、『棒反り』の新刀ですね!」
とか、
「幕末の『勤王刀』のような、幅広で反りの浅い姿でしょう」
等々の専門的な用語が飛び交う場合が多く、困惑される方も多いと思う。

まず、そういった時に最初の手がかりになるのが美術館での展示説明カードや刀剣登録証にある「長さ」と「反り」の表示でしょうか!
「長さ」とは、刀剣の場合、全長ではなく「刃長」ですし、「反り」とは湾刀である日本刀の鋒(きっさき)から棟区(むねまち)までの反り具合です。

慶長時代以後に作刀された「新刀」と呼ばれる刀の場合、平均的に五分(約1.5cm)前後の反りが多く、慶長時代以前に鍛造された「古刀」の場合、それよりも反りが深い傾向があります。中でも鎌倉時代以前の古い太刀の場合、更に古風で反りの深い優美な姿をしています。
以上を整理すると、

・標準的な「新刀の姿」
 上述したように、五分(約1.5cm)前後の「反り」のある、二尺三寸(約70cm)位の長さの標準的な「新刀姿」の刀は見ていても美しく、如何にも日本刀的な印象を受ける。
 刀の身幅も鎺元(はばきもと)である刀身の下部で、元身幅一寸(約3cm)強で、上部に行くに従って滑らかに細くなり、鋒(きっさき)の下の横手(よこて)の所で、元幅に対して三割程、細くなる姿が、外観的にバランスがとれて美観が増して見える。

・「古刀」の時代による姿の相違
 古刀は平安時代から戦国時代まで時代が長く、姿にも大きな変遷があった。
 時代の古い平安・鎌倉時代の太刀の場合、鋒が比較的小さく、前述したように「反り」が深く、如何にも古い時代を感じさせる姿が多い。
 一方、「南北朝時代」になると「大鋒(おおきっさき)」で身幅の広い豪壮な大太刀が登場する一方、戦国時代には、如何にも振り回しやすそうな、短めで手持ちの良い「末古刀」が活躍している。

・激動の時代流行った「大鋒姿」
 鋒の大きい南北朝姿は、使い易く長さを適度に短縮した写し物が、新刀初期や幕末期に登場して一部の侍達に愛好されている。
 一方、「反りに関しては、平均的に反っている刀が比率的、最も多いと思われるが、その時代独特の反りを持った刀も登場している。

・「腰反り」と「先反り」
 鎌倉時代などの古い太刀の場合、馬上で使用する機会も多かった関係で、刀身全体よりも、腰元がより強く反っている「腰反り」の太刀が多く現存している。
 反対に、激烈な徒歩戦が繰り広げられた戦国時代の「末古刀」では、瞬間的に斬り付けやすく、敵に効果を与えやすい「先反り」になっている。   
 そして、平和な江戸時代の刀は、道場剣術の流行もあって、平均的に反っている刀身が多い。

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