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性善説ではなく、性悪説に基づく経営

ゆめみの当たり前より

ゆめみでは、性善説ではなく、性悪説に基づく経営を行っています。

そう言うと、人を全く信じていないように思われますが(笑)

本来の意味ではなく、ビジネスの場で「性善説」といえば

「人は善という前提で信用すること」という意味があると思います。

一緒に働く同僚などに対して、そういう態度で振る舞うことは、普通に当たり前だと思います。

それは経営を行う上でも、働くメンバーに対して、性善説を前提に一緒に働くことは当たり前なわけです。

当たり前な概念過ぎて、それ以上、経営の観点で、新しい発想は産まれにくいです。。

次に、本来の意味での「性悪説」を考えてみます。

本来の性悪説では、「人間は本来利己的で、善なる行いは後天的に可能」という考えです。

利己的という考えは、産まれたばかりの赤ん坊を考えると納得はいきます。

この考えに沿って、「生まれながらに人間が持つ素晴らしい能力を大事にする」という観点で設定しているルールがあります。

罰は一切ない、人間が最も得意な行動をしない場合を除いて

また、善なる行いは、後天的に、正しい指導者の教えや、礼節を守ることによって身につくと考えると、人間の無限なる成長の可能性を信じて、指導する、学びが得られる環境を作る

という経営的な観点にもつながると考えています。

一方で、本来的には利己的な部分があるので、利己的に振る舞うのは、自分を守るためにそうするのであり、自分が自分を幸せにするための根源的な行為だとして、それを信用した上で、経営としては制度設計に配慮をするべきという考えも生まれます。

まあ、本来の意味では、性善説も性悪説も、どちらも、人間には、善行も悪行もあるという考えでは、同じことを言っているし、どちらが正しいというものでもないです。したがって、どちらでも良いのですが、何をベースにして考えるかで発想に違いがうまれるという中で、経営を行う場合は、本来の意味での性悪説に注目しています。

自分自身が働く中で大事にすべきは、本来の性善説であるべきだと思います。




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