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病んでウジウジするフリをしなくても芸術は出来る(ピコ太郎が最高という話)


今更ながら、ピコ太郎にハマっている。日本語学習中の学生のためにちょうどよい歌はないものかと探していたら、自分がハマってしまった。

何がいいって、メッセージ性が一切ないところだよ。

メッセージ性が一切なく、語彙とリズムの快楽だけを追及している。
言語の「意味」を脱色している。

すげえ尊いなと思った。
あー本当に私がやりたいのはコレかもーと思った。
でも実はこれが一番難しい、技術の要る道だというのは知ってる。

「君のナイーヴさ分かってるよ」と歌い、「共感」を煽る方が、よほど簡単なやり方である。少なくとも病んだ社会では。

病んでウジウジするフリしないと芸術ができない、みたいなノリが、一部の日本の芸術やっている若者の間に蔓延している気がして、それが嫌だった。それが嫌だと思いつつ、自分もそこの瘴気を吸いつつ、芸術を作っていた。(だから私の作るものは基本暗い。)

でも、どう考えても当たり前だが、別に病まなくても芸術は作れる。それを、ピコ太郎が証明してくれた、と勝手に思っている。

病んでウジウジしてるフリをしなくても、芸術は作れるのだ。そしてそうやって作ったものは、病んでない人のもとへ届くから良い。

ピコ太郎は外国人と子供にウケる。日本の瘴気を吸っていなくても、楽しめる。

創作者が病んでウジウジするフリをして作ったものの何がいかんかというと、受け手もまた、病んでウジウジするフリをするところである。そうして、「私も弱い! 分かる分かる!」という「弱い弱い合戦」が始まる。あるいは、「そんなの分かんねーよ」とか「強い側も強い側で辛いんだよ」とかいう戦争が始まる。

別にウジウジしてない人へウジウジを植え付けるのはよくないし、弱いことと繊細であることも当然ちがう。

いわゆるネットでバズるものって、「共感」とか、「弱さの開示し合い」みたいなのが多くて、それが嫌だった。(詳しくはここ☟に書いた)


共感とか、弱さの開示、という、道具立てそれ自体が悪いとは思わない。
しかし、私は「弱い弱い合戦」に飽きてしまっていた。

が、そういう、「弱い弱い合戦」の蚊帳の外にいても、突き抜けることはできる。というか、そこを突き抜けてこそ真の芸術であり、それ以前でとどまるとしたらしょせん、巷の喫茶店で繰り広げられる「わかるわかる」と言い合う馴れ合いトークと同じである。


ピコさんはきっと「色々あった人」なんだろうな、と思ってウィキペディアを見てみたらやっぱり色々あった人だった(もともと芸人らしい)。
そのあと彼のツイッターを見てみたら、有名人の引用RTリプとかをめちゃめちゃしていて、「うわー日本語をしゃべるなー!」と思ってしまった。

私は彼のファンだが、彼の人間性は引き受けたくなく、語彙とリズムの快楽マシーンとして享受していきたい。

ピコ太郎さん、どうかどうか、日本語学習者用の歌を作ってくれないかな?
完全に無意味で、語感と音楽の鋭さにバキバキに特化した、超キャッチーな歌。でかいひらがな字幕と英語もついてたらバッチリ。
この条件を満たしてたら、世界中の日本語学習者によって鬼爆再生されると思う。

👆この動画は完ぺきである。これを、初級形容詞と動詞の全てで作ってほしい。


ちなみに彼の新曲である「完PAPA宣言」に関しては、素晴らしい替え歌だと思いつつも、家族観にまつわる歌詞について疑問点がいくつかあるので、集中して聞けない。

メッセージ性があると、齟齬が生まれてしまい悲しい。



渋澤怜(@RayShibusawa

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