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日本人は季節のことばかり考えてる問題 ~常夏のベトナムに来て気付いたこと~

※本編無料です。

ベトナム移住を機に「季節が嫌いだ」と気付いた渋澤さん。「情緒より合理を好む人には、無季節の気候は向いている」とのこと。しかしそう発見するまでには、季節を文化の根幹に置く日本から一旦出る必要があったと言います。
渋澤さんが日本在住時から感じていた、しかし、日本を出ることでやっと言語化出来た「日本人季節のこと考え過ぎ問題」とは。

最近気付いた衝撃的なことがあるんだが、私はどうやら季節が嫌いだ。

そもそも季節って好きとか嫌いとか以前に空気と同じで生まれてこのかた肌の周りに常に存在してるものなので、好悪があるとは思わなかった。でも、あるのだ、あったのだ。

この気付きには、もちろん私のベトナム移住が直結しているので、よかったらその話を聞いてもらいたい。

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■ベトナムに来てハッキリ気付いた「季節嫌い」

私がベトナムに移住したのは、4ヶ月前の2018年8月。

猛暑の東京to常夏のホーチミン。
気温差が無いので体調を崩すことも無く、スムーズに気候に馴染むことが出来た。

しかし、8月、9月、10月……とホーチミン生活に慣れていく中で、身体が気づいた。
「おや…………いつもとちがうぞ!」と。

人生で31回経験した10月はもう相当に涼しくなっているはずだ。

しかし、部屋のエアコンは自分的最適角度・温度・風量を見つけて以来3ヶ月間変化なし。
タンスの中の一軍もそのまま。

もしかして……この国、季節、無い?!?


■季節の無さと合理性はフィットする

季節が無いことは日本人のメンタリティに大打撃を与える(なぜなら日本人の情緒は季節に依拠して動いている)はずだが、どうやら私は日本人ではなかったらしく、季節の無さを単純に喜んだ。

季節が無いのは間違いなく合理的である。

服は一年中一緒なので、買い物する時も今着られる服を買えばいいだけ。湿度も同じだからスキンケア用品も一緒。押入れには扇風機とヒーターの両方をしまう必要もないし、衣替えも無い。

そして何より、上記のことを考えずに済むから脳の容量が大幅に空く。

思い起こせば逆に、日本にいた時はいかに季節のことばかり考えていたことか。衣替えやら加湿器やらハンドクリームやら……。服を買う時も「これはいつからいつまで着られるか」をいつも考慮する必要があった。

情緒よりも合理性を重んじる、私のような人間には、季節の無い国はめちゃめちゃ向いてる。
(特にミニマリズムは暑い国に向いてる。荷物がものすごく減る)

季節に関するグッズを威勢よく断捨離しながら、「あ、私、季節嫌いだったわ」と気付けた。

しかし、このことを言語化するには一度日本を出る必要があった。

なぜなら、日本って、「季節嫌い」とか言ったら非国民扱いされるようなムードがあるから。

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■「季節」という話題に壊滅的に疎い、日本人らしからぬ私

ご存知の通り、日本の特徴は四季があることである。
日本文化の大半において季節は超重要なファクターであり、そして季節は日本人の情緒の根幹をなしている。

日本人は季節のことばかり考えている。
それは防寒や災害対策などの「生存に必要なこと」のみならず、食べ物の旬や、すぐ散る花、そしてそれに合わせてはしゃいだり、憂えたり、「去年の今頃はこんなことをしていたなあ」と思い出したりしながら、自分の気分も季節色に染め、季節を能動的に楽しんでいくのが日本人の風流である。

しかし私は日本人にも関わらず、そのムードに壊滅的にノレない人間だった。

季節の挨拶などをされても「はあ」としか思えず、小説の季節描写は全く興味が持てないので小説書きのクセに飛ばして読んでた。

美味しいものと美しいものは好きだがどの季節に何が旬だか全く覚えておらず、先日もベトナム人学生に「今は日本は秋刀魚が旬ですね」と言われ「は? そうなの?」と答える始末。

「秋はメランコリーになる」とか「夏は恋の季節」とかも自分の情緒にフィットしたことは一度もなく、私に言わせればプラシーボである。

季節にあわせて気分どころか身にまとうものも全部替えるルールも謎だった。春と秋は全部同じ服で良いはずなのに色や素材で「コード」が存在するのはどうしてなんだろう?
服はともかく、防寒に関係ないメイクやらヘアにも「春色カラー」「秋色カラー」があるのはもう完全にこじつけだとしか思えなかった。

私は日本にいた時は春秋は完全に同じ服でとおしてた。着られる季節が限られる素材(カゴバッグや毛皮)は買わなかった。防寒さえできれば好きな時に好きな服をまとえばいい(と私は思ってる)けど、「季節感」というコードにひっかかるのが面倒なので、そもそもそういう服を避けていた。(そうすると春秋に完全に同じ服を着られる)

そうやって、なんとか我流で季節をいなしてきた私だけど、ああ祖国を離れてやっと気付けたぞ。

私は季節が嫌いだったんだ!!!!

私にとって、単純な気温差・湿度差という意味の「季節」が煩わしかったのみならず、
そこに情緒を乗っけて積極的に楽しんでいくという文化的な「季節」も煩わしいものだった。

日本を離れて、水面下で感じていたストレスを、やっと言語化出来た。


私は! 季節が嫌い! 季節音痴! 季節に死ぬほど無頓着な人間である!!!

■涼しいのは好きだが、季節は嫌いだ

とはいえ、日本を離れてまだ4ヶ月。
いつ「秋が恋しい」とか言い出すとも知れない身ではある。
そして、実はベトナムにも「雨季」「乾季」という季節がある。
どうやらこれから乾季が訪れるらしいので、いつまで「季節が無いのってサイコー!」と言っていられるかも謎である。

でも、私が「日本の秋が恋しい」と言ったらそれは「『涼しさ』が恋しいのであって『季節』が恋しいのではない」と断固言い張れる。

そして私がベトナムの乾季を憂えたとしたらそれはやはり「無季節が恋しい」ということになろう。

前回同様、生まれ落ちた国を離れて気付けることは多い。

(前回記事:「日本はきれいだ」と言う外国人の気持ちがやっと分かった話☟☟)


生まれ落ちてから身体のまわりに必然的についてきた「風景」や「気候」だって、実は、飛行機一本でひっぺがせる。

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私は、「季節の無い国はサイコーだから皆ベトナムにおいで」と言いたい訳でも、
季節に振り回されまくる日本文化をディスりたいのでもない。

季節が向いている人は、季節と季節に依拠した日本文化を大いに楽しめばいい。

そう、それは、選べることなのだ。

流動性が高まった現代では、絶対にここにいなきゃいけない理由は無い。
この地この空気がファイナルアンサーとは限らないのは自明だ。

そしてそんな自明なことすら飛行機一本使わないと気付けないほど、私達の頭は凝り固まりやすい。

少なくとも私はそうだった。


多分、もっといくらでも凝りほぐせるだろうな、と思う。

気分も、考え方も、もっと多くのものも。

(そしてもちろん言語もね。)


この記事が、飛行機一本よりもエコノミーに、あなたに何らかの気付きとなることがあれば、幸甚である。

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渋澤怜(@RayShibusawa


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ここからは完全おまけトークなので有料ゾーンとします。「『季節を語れないと日本の芸術としてダメ』みたいな言説はさすがに時代遅れだという話と、季節嫌いな私が作った季節モノの短歌」



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