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拡散する希望


ネットで良い文章を読んだら、どう良かったかを要約して、引用リツイートすることにしている。

良いものは広めた方が良いし、その方が書き手のためにもなるし、また、感想をアウトプットすることで自分の記憶の定着も良くなるからだ。

でも、ときおり、それを躊躇したくなる時もある。

そのリツイートに乗らない、つまり、拡散されない「良さ」こそが大事なのではないかと、感じているからだ。

自分にとって大事なものを、Twitterで拡散するとき、何か、本当は自分の中にゆっくりと蓄積されるべきだったものが、あっさりと外に散ってしまうような、危機感がある。


http://itoh-archive.hatenablog.com/entry/2015/11/13/170413

伊藤計劃のこの文章、昔読んだことがあったけれども、もう一回読んでやっぱり良かったから、Twitterで拡散した。https://twitter.com/RayShibusawa/status/960505849603960838


でも、伊藤計劃のこの文章へ、
私は、小説を、物語を書き続けることで一生かけてアンサーしていくべきで、
だから、Twitterで簡単に「良かった」「エモかった」って書いて片づけられるものじゃない。


伊藤計劃は死んでいて、死んだ彼の物語を読んでまた私が物語を書く。


作家が死んでも物語は生き残る。むしろ、そのために――物語を残すために、人は生きている。


でも、読者のみでなく書き手でもある私は、「私の文章が良かったら、今、拡散して!」とも強く思う。

だって私今生きてるから。明日には死んじゃうかもしれないし、特に生き馬の目を抜くインターネットでは初速が無いものは即埋もれる。初速が無いともう信じられなくなって、昨日書いた文章の結果が明日わかる、でも遅くて、今書いた数時間後には成果が見えてないと落ち込んで、で、そしたら明日書かなくなっちゃうんだよ。

その時「あの人書かなくなっちゃんだー なんだー応援してたのに」なんて言われても無意味だ。


林伸次さんがこのエッセイで「えー?あの名店がなくなっちゃうの?! なんでー?」と言われたら「それはあなたがそのお店に行かないからです」と答えたい、みたいなことを書いている。

書き手も同じだ。


だから、しんどいDMとか重いファンメールじゃなくて、表でシェアしてRTしてよっていつも言ってるの。

私が伊藤計劃を知った時、彼は既に死んでいた。





私が伊藤計劃を一番好きだった時に書いた、彼に影響を受けて主人公の名前を「ミアハ」にしてしまった長編小説がここに置いてあります。
https://crmg.me/c/506

紙の場合はこちら https://rayshibusawa.thebase.in/items/8796135


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