音楽の花嫁_表紙

【長編小説】音楽の花嫁 16/19


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ふと視界の端でちらりと何かが動いた。目を上げると、そこにはバイタの群れからはぐれて、誰かの腐った分身がひとり、ぽつりと立っていた。手首につながれた鎖はちぎれ、飼い主に置き去りにされた、いや、飼い主をどこかに置いてきた迷い犬のようだった。こちらを怯えた様子で見つめているが、目は好奇心を隠せずきょろきょろとせわしなく動いている。まるで小動物のようだ。
「大丈夫、あなたは食べないよ」
 私は笑いかけた。笑おうとしたのが久しぶりで、笑えているのか不安だったが、向こうも笑い返してくれたので――それも久々に笑おうとする人のぎこちなさを持っていたが――うまく笑えていたのだろうとほっとした。だって、自分は殺人マシーンのような気がしていたから。そうやって人間っぽいやりとりが出来るだけでもう感動だった。
 その誰かの分身は、突如小走りで私の元へ駆け寄って来た。一回動くと止まらないおもちゃのミニカーみたいだった。なんだか行動が読めない。そしてその分身は私の直前で急ブレーキをかけると、まるでショーケースに入ったケーキを見つめる子供のように熱っぽいまなざしで私を見つめたのだった。そうされて初めて気付いた。私の肌は、この胃の中に来る前の分身のようにつやつやと白く光を放ち、陶器のような滑らかさをもって輝いていた。その分身は私の肌に触れようとして、しかし、伸ばしかけた腕を力無く戻して首を振った。それは、醜く腐った自分が美しいものに触れることなんて許されない、と、自ら禁ずる素振りのように思われた。
「いいのに。私だって、汚れきっている」
 そう言って私は大きく腕を広げ、その誰かの分身をきつく抱き締めた。
 すると腕の中の分身はみるみるうちに光に包まれながら手触りを変えていった。眩しくて目を閉じると、次に目を開けた時に私の腕の中にあったのは、ネムルのギターだった。間違えようがなかった。ボディに土色に変色した乾いた血がこびりついている。
『はっはっはー、見つかっちゃったねー』
 腰に差していたコンコルドの羽根から声がした。懐かしい、ネムルの声だった。
「ネムル! どういうこと?!」
『僕の棺によろしくって言ったじゃん。まあーそれも成仏出来ない幽霊だったんだけどさー』
「ネムルって男じゃないの? なんで分身があるの?」
『はっはー、お姫様は頭の回転が速い。うふふふ、お察しの通り、わたくし女だったのよ。しかも、元・バ、イ、タ』
「えー?!」
『では、おとぎ話を始めましょうー』
 それからネムルは毛糸玉を転がすようにするすると喋り出した。
『昔々あるところに、可愛そうなバイタがいました。さんざん男達にいいようにされて、身も心もボロボロで、ゴミ捨て場にうずくまっていました。そしたら死んだと間違えられて、収集員に拾われ、女王の腹へと回収されていきました。そこでめそめそ泣けど暮らせど消化も進まず。ある日どろどろに溶けた醜い死にかけの男が、お腹を空かせた様子で、棺の中をじっと見つめていました。「僕の分身をお食べよ」バイタはそう言って棺の蓋を開けました』
「嘘……」
 分身を食べた私が言うのも何だが他人にくれてやるというのも、よほどの度胸が無いと出来ないことのように思った。だって、自分の半身をもいで与えるようなものだ。しかもそんな、見知らぬ餓えた男に。
『おいしそう、と思ってくれたのが嬉しかったんだよ』
「それでも、さっき私が見てきたような卑しい男達でしょう?」
『卑しい奴ほど腹が空いてる。自分がそのお腹を満たすおいしいお肉になれるとしたら、それはもしかしたら、なんだかとっても素敵なことじゃないか? と思ったのさ。だってなかなか、だらだら生きてて、それ以上の価値のある人間になんか、なれないじゃないか?』
「……」
 ネムルのその言葉はフォークで心臓を突くように私の心に刺さった。確かにそう、それは真実を言い当てている、でも、だからと言って生きさばらえてしまうのが普通なのに。ためらい無く自分の半身を投げ出した、バイタだった時のネムルの孤独を思うと、胃の底から悲しい気持ちが忍び込んできた。
『あー、どこまで話したっけ、そうそう、でもその男は分身を食わなかった。そのかわり、僕のその言葉を聞いて満足げに頷いたと思うと、ピッカーと光に包まれて、立派な身なりの紳士に変身したんだ』
 そこでネムルは声色を器用に変えて紳士の口調を真似た。
『「君を試していたんだよ。自分の身体を捨てられる人だけが、本当の音楽を鳴らせる。でも同時に、自分の身体を最も大事にする人でないと、本当の音楽を鳴らせない。今まで君は、男を喜ばせるだけのニセモノの音楽を鳴らしてきたね。でもこれからは、自分の音を鳴らすんだ」』
 そう言うとまた口調を戻して、
『これは、僕の人生の座右の銘さ。そう言ってその紳士は、食われてもいいと思って捨てたはずの分身を、ギターに変えてくれたんだ。ぽかーんとしちゃったけどね。とりあえずギターなんて触ったことが無かったから、適当に弦を撫でてみたけどもうそれだけですごく良い楽器なのが分かった。でも、「これ、弦が六本あるのに僕の指は五本しか無くて、どうするんですか?」って、アホな質問しちゃったわけ。そうしたらその紳士は笑って、自分のズボンの中に手を突っ込んだ』
「え」
と私とコンコルドが言うのが同時だった。
『「これが僕の六本目の指です。別に要らないのであげましょう。あなたは分身をくださろうとしたんだから」とか何とか言って強引に僕の左手の小指の隣にくっつけやがった。「これで僕もあなたも、男でも女でもない生物として生きていけるじゃないですか」って。いきなり訳分かんないものくっつけといて、何言ってんだよチクショーと思ったけどさ。自分がもう、楽器が弾けて、男として生きていけて、しかも六本目の指をおかしなところに持ってる、っていうのは、変なものフリークの僕としては、ちょっといいかなと思っちゃったわけよ。それから僕は女王の腹を抜けて軍隊をぶっ倒して、今に至る』
 いつかメイドが、たった一人でオケを負かしてトップを奪ったと言っていたのを思い出した。そしてネムルが「オケの男は覚悟が無い」と言っていたことも。そんな苦難の末に手に入れたギターなら、あんな音色を奏でられるのも頷けた。
『ねえ、ヒツジ、性別って選べるんだよ。君は女だけど棺が無い。でも男に奪われたのではなく、自分で自分の血肉にしたんだ。それが君の試練だった。苦しかったろうけど、君はもう自分でなんだって選べるんだよ』
 自分でなんだって選べる。別に今まで、性別を変えたいと強く思ったことは無かった。でも、性別は選べる、とネムルに言われてみれば、そう、今まで幾度も自分の性別にとらわれて窮屈な思いをしてきたのだと気付いた。
「あ!」
 そうだ、またネムルの雰囲気に呑まれるところだった。
「ねえ、今、女王の腹を抜けたって言ったよね? どうやって抜け出すの? 教えて!」
『ちっちっちー』
 ネムルが指をふっている顔が目に見えた。
『今、何でも自分で決められるって言ったところじゃーん。すぐ人に頼るのだめー!』
「ヒントでもいいから!」
『大丈夫、生きてる者はそこから抜け出す策はあるはずだよ。死んだ奴は無理だけど。ああそうだ、ヒツジ、僕の分身を抱き締めてくれて、ありがとう』
 ネムルはそう言った。ネムルにありがとうなんて正面切って言われたのは初めてな気がして、慌てた。
「え、いや、あれがネムルだって、し、知らなかったし……」
 やたらと照れてしまって言葉がつんのめる。
『うん、そこで彷徨ってた亡霊が成仏して良かったよ。結局、僕が女を憎んでたのは、自分の卑しい出自の裏返し、同族嫌悪だったわけ。分かってたけど。でも君が抱き締めてくれたら、すーっと、それが無くなった』
 私はギターを見つめた。さっき好奇心いっぱいできょろきょろとせわしなく動いた分身の黒目は、確かにネムルに似ていたかもしれない。
「ねえ、弾いてよ、ネムル」
 私はさっきからうずうずしてどうしようもなかった。身体中が欲していた。ネムルのギターの音色を。
『僕はそっちには行けないって、言ったでしょ。自分で弾きなさい』
 そう言ってまた、ぷっつりと交信を切られてまった。でも今回はその沈黙の意味が分かる。
 私はギターを抱きかかえると丁寧に寝かせ、添い寝するように自分も隣に横たわった。ネックを掻き抱いて鼻を押し付けると、かすかに木の良い匂いがした。ピックガードに浴びせられた血の乾いた痕跡を見ると、腰がぬるま湯に溶けていくような、甘く気だるい気持ちが広がっていった。これは、ネムルの傷だ。双子の胎児のように抱き合って眠った夜のことを思い出す。傷は、近道だ。痛いけれど、そこを広げて君の中身を見ることが出来る。私はたまらなくなり、ギターのボディに頬をすりつけた。血の匂いか、あるいは金属の匂いか分からないが鉄臭さが鼻孔を刺激して、肌の上を火が燃え広がるように興奮が駆け抜けた。鏡のように輝くつやつやのピックガードを汚すように顔を押し付けて、舌を這わせて、こびりついた血を舐め尽くした。野生の動物のように粗野で、夢中で、自分の飢えのことしか考えていなかった。
「ネムル」
 この傷をつけた時のネムルの気持ちを思った。自分の中身を見せびらかすように、ぱっくりと腕を切り開いたネムルの。
「ネムルはコピーじゃない、誰かに操られてなんかない、本物だよ」
 それを証明するには女王を倒すしか無いのだ。胎児の反逆だ。
 よく狙いを定める必要があった。コンコルドの羽根を握り締めて強く振ると、たいまつだったそれはぐんと重みと硬さを増してサーチライトへ変化した。真っ暗で広大で、じとじと濡れた胃の壁が続く、しかしその中にひとつだけほころびがあって良いはずなのだ。
『あれですよ』
 コンコルドの声がして教えてくれた。
『職業柄、傷の匂いには敏感なのです』
「ありがとう」
 そこには、まるで空に走るカミナリのような巨大な亀裂が縦に走り、それを縫い跡がつなぎとめていた。母は帝王切開で私を産んだ。
 私はサーチライトを使って丁寧にその場所を確認すると、ひとつの決意を込めてギターを手にした。「楽器を粗末に扱っちゃいかん!」という、オーケストラ部の顧問の先生の口癖が脳裏をよぎり、思わずくすりとした。でも、クラッシュギターという文化だってあるのだ。
「ネムル、行くよ」
 私はネックをしっかり握り締め、ボディを振り上げて斧のように肩に担いだ。「次の戦争は一緒に出よう」と言ってくれたネムルの声を思い出すと力が出た。この世界を終わらせるんだ。音楽の響かないこの世界を。チャンスはたった一回。おじいちゃん、私はおじいちゃんみたいに、しくじらないでやれるだろうか?
 渾身の力と研ぎ澄まされた集中を込めて、ギターをその亀裂へ向かって投げ飛ばした。ぶんぶん唸り回転しながらそれはネムルの腕を切ったナイフへと変わり、闇を裂き、そして亀裂へ命中した。
 自分の内臓が裂けたのかと思った。それほど近くで鳴った音に感じた。女王の肉が裂けていく音だった。耳ごともぎとっていくような、ものすごい音だった。

そして、裂け目から光が飛び込んできた。まるで私を殺そうかという程に眩しい――随分と長く胃の中にいてしまった私の汚い部分を検分するかのように――しかしどんなに汚くても、これが私だ。光の先は、暗闇に慣れた私の目で見ても何も見えない。でも何があっても進もうと思った。ここから出るのだ。
 冷たく新鮮な空気が、私の肺目がけて飛び込んできた。胃の中のぬるく淀んだ空気に慣れていた私には痛い程だったが、それでも全て吸い込んだ。これからは空気を二人分吸わないといけない。
 左右の鼓膜を数え切れぬ種類の音が叩き散らしてきた。あたりを見回すと、私が救えなかった夥しい数のバイタ達や、鎖でつながれた腐った分身、手足の無いマルタの亡霊が、光に吸い寄せられるように宙へ昇って行き、そして光に当たったと思ったら楽器に変身していくのだった。何組もオーケストラが組める程の数だ。それが、生まれ変わった身体を試すように、めいめい好き勝手に鳴り散らしているのだ。ネムルのギターであり、ナイフであったものは小さく縮んでタクトとなって私の足元へ落ちて来た。それを拾い上げ、そして目を閉じると、心の中を平らに均すように、静かな気持ちを行き渡らせた。ああ、この音たちは、懐かしかった。チューニングを始める前、オケの仲間達がぱらぱらと集まって来て、楽器との仲を確かめるように吹き慣らす、弾き慣らす、雑な音たち。
 目を開けて、タクトを持ち上げた。するとがやがや喚いていたオケはぴたりと黙った。
「ここから出ましょう」
 私はそう念じて、緊張をオケ全体に行き渡らせた。十分に気持ちが伝わるまでの時間をたっぷりととった。そして私のこの決意をタクトの先まで注ぎ込めるまで。
 ここだ、という時が現れ、タクトの先が私へ頷きかけるようにわずかに垂れた。それを見て私がタクトを振り上げ、空気を叩き切るように振り落とすと、その瞬間に全ての楽器が爆発した。
「……?!」
 あっけにとられる私の前に、フルートも、トランペットも、チェロも、シンバルも、自信に満ちた様子できらきらした破片を見せつけ、そして得意げに舞っていくのだった。音楽の花火のようだった。長い長い交響曲を、一瞬に圧縮したようだった。それは世界一美しい音楽だった。この世から消えて行く女達の、潔い辞世のスフォルツァンド。私は彼女達を救えたのだろうか?
 その音楽はあまりに短く、拍手をする暇も無かった。爆風で身体が吹っ飛ばされた。どこが上か下かも分からない。ひたすら眩しくてまるで瞼をナイフで切り取られたようだった。落ちているのか、浮き上がっているのか。舞い散る破片が翻弄するように肌を撫でる。その時なぜか、おじいさんのことを思った。おじいさんが見た手榴弾の破片と私が今見ているものの、どちらが美しいだろうと思った。
『ヒツジ、ぼやぼやしてちゃだめだよ』
 ネムルの声がした。握り締めていたコンコルドの羽根はいつの間にか私の身体を包み込むほどに大きくなってパラシュート状に広がり、私が落ち続けるのを食い止めた。ということはやはり、落ちていたのだ。
『ぼけっとしてると、混沌から再構築された時に戻れなくなるよ。女王は死んだ。今外は大変なことになってる』
「え、何、混沌から再構築って? なんでいきなり難しい言葉使うの?! っていうかこっちも十分大変なんだけど!」
 叫んだら次の瞬間、下からぶわりと突風が突き上げてパラシュートをあおった。私は木の葉のようにくるくると何回転もまわってまたどこが上だか下だか分からなくなる。コンコルドの羽根も、閉じたり、開いたりして混乱している。
「助けて、ネムル!」
『落ち着いて! そもそもここには何しに来たの?』
 そうか、なるほど。ネムルの言葉で頭が冷えた。困った時は始めに戻るのだ。その問いなら、前にネムルに聞かれて答えたことがある。
「おじいさんに会いたい、話がしたい」
 きらびやかに舞って私の意識を撹乱する破片に惑わされぬよう、目を閉じた。
 ネムルは言っていた、自分と似た心拍が女王の中にある、と。自分の心臓に胸を当て、目を閉じたまま空間を泳ぐ。そうすると不思議と風は凪ぎ、私は上下感覚を取り戻した。ネムルがやっていたように、耳に神経を集中させて音を選り分ける。聞こえる、そう、耳を澄ませば聞こえるのだ、めいめいの心拍が。世界は命の音でこんなにも賑やかなのだ。
 これだ、という心拍を見つけたので手を伸ばして思い切り掴んだ。すると私が握った破片はきらきら輝く銀色の破片で、そこに無数の破片が寄り集まって銀色の一本の長い棒となった。それはフルートだった。手ごたえがぐんと重くなったと思うと、フルートの私の逆の方を掴んでいるのが、ああ、あの、懐かしい、おじいさんなのだった。でもおじいさんと呼ぶのもおかしかった。だって、その顔は私と大して変わらないくらい若くて、そして軍帽と軍服を纏っていた。そして、腹には包帯を巻いていた。
「ジョージ?」
 私がそう呼ぶと、彼は目を丸くして、探し物を見つけ出そうとするように私の目を覗き込んだ。
「アヤメ?」
 そう呼ばれた途端、記憶が勢い良く逆流した。「アヤメ!」と呼ばれる声に誘われて物置の底へ落ちていったことがたった今のことのように蘇り、そして今現在もそこを落ち続けているのではないかという錯覚に陥った。なぜ、私は私の名前なんか忘れていたんだろう。
 あらためてジョージの顔をよく見ると、私より何歳か年上だろうか、でも私とはまるで違う、重い石を頭の上に乗せられてずっと耐えてきた人のような険しさが顔に刻みつけられていた。でも、あの、初めにこの世界に訪れた時に出会ったフルート吹きの少年のあどけなさも同居していた。なんだか疲れた時の母の顔にも似ていると思った。
「私、ずっとあなたを探してたんだよ。あなたにフルートを吹いてもらいたくて、ずっと旅をしてきたんだよ」
 私はどうすればいいか知っていた。彼の包帯を巻かれた腹の中、温かい血潮でぬくもっているまだ新しい傷の中へ、腕をのめり込ませていった。彼は、むずかゆいような痛いような、まるで顔に虫でも貼りついてとれないでいるような、何とも変な表情をした。私の指先は、もぐらが自分の家に帰るように器用に腹の中へと潜り込んでいき、ひやりと尖る手榴弾の破片を探し当てた。彼は「うう」と呻き声を洩らした。
「それを抜いたら……俺は俺じゃなくなっちゃうんだよ」
「いいよ。ただ、子供の頃みたいに、何も背負わないで、一番好きなことをして欲しいんだよ」
「そうだな……そうかもな……」
 彼は肺の中の空気を全て出し切るような深いため息をついた。それに合わせるように腹の血も染み出し、私の指先を濡らした。
「ひとおもいに、ぐっとやってくれよ。アヤメ」
 アヤメという名を握り締めるように彼の手が私の頭に置かれて、ぎゅっとつかまれた。私は頷いた。
「出来るよ、おじいちゃんの孫だもの」
 そして破片をつまんだ指先に力を込めたまま、腕ごとぐいと抜いた。



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