音楽の花嫁_表紙

【長編小説】音楽の花嫁 18/19


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「おじいちゃんは……お父さんは、フルートの名手だったらしいのよ。その道で食べていこうと考えていたくらい、でもその前に戦争にとられちゃったらしいんだけど。でも私は一度もフルートを吹いているところを見たことが無かった。それどころかお父さんは、ラジオでクラシックがかかると顔をしかめて消すくらいだったの。一度私が友達にクラシックのレコードを借りてきたら、『そんなちゃらちゃらしたもんにかまけとらんで勉強でもしろ』って。あの、今シューティングゲームとプラモデルに夢中のあの人が、よ。おかしいでしょ。本当は私、吹奏楽部に入りたかったの。そのレコードを貸してくれた友達がフルートをやっていて、憧れだったのよ。でも、言い出すことも出来なかった……。いっつもねえ、怖かったの、お父さんが。友達に比べて歳とったお父さんだったし、なんだかいろんなお客さんが家にやって来ては『お父さんは立派な人なんだよ』とか『あなたも頑張らないとね』とか、言ってくるのよ。それこそちゃらちゃら出来ない家の雰囲気だったの。だから、お客さんの言う通り、頑張らないと、って。立派なお父さんの娘として、まともにしないと、って、いつも思ってた。実際優等生だったのよ、私、ずっと……。結婚もそんな感じでちゃんとお見合いして、家同士が釣り合うところに行って。子供も、男の子と女の子、一人ずつ産んで。そういう、なんていうのかな、いつの間にか、ちゃんとしてるってことが、私の真ん中に染み込んでいって、それ自身が私って感じになっていったのよね。結婚とか出産とかそういう人生の節目の出来事も、変に流れに逆らずに自然に進んでいけば、私の人生は上手くいくようになってるんだって、思った。すごくいい意味で、タイミングよ。それは自分で選ぶものじゃない。私ね、それしか無いのよ。立派なお嬢さん、とか、あるいはまともな嫁、とか、それを除けたら私には何も無いの。それでもいい、って、ちゃんと子育てが出来て、今度は立派な母親になれればいいと思ってたんだけど、生まれてきた子達はちょっと自分とは違うタイプでね……。お兄ちゃんも妹も音楽が大好き。おじいちゃんの隔世遺伝かしらね。どっちかというと私みたいな、人の評価を気にするってより、自分の好きなことを追求するタイプだったのよね。それでちょっと、戸惑っちゃった。しかも驚いたことにね、あの怖かったお父さんが孫にはでれっでれに優しくなっちゃってねえ。私に見せてた顔はどこへやら。特に娘はおじいちゃんによくなついてたし二人だけの秘密も持っていたみたい。それで、娘が中学に上がる時にオーボエをねだったら、おじいちゃん年金からポーンと買っちゃったのよ。私、悔しくて。……大人気ないと思ったけど、それからあんまり実家に子供を連れていかなくなっちゃった。……まあ、こんなに老い先短い人だったなら、そんなケチなことしないで、もっと孫に会わせてあげれば良かった……」


また電話だろうか。そうだ、電話だ。母が誰かと話している。耳だけが鋭敏で、他の身体の部分のスイッチが入らない。目が開かない。いや、目は開いているけれど、暗過ぎて何も見えないのだ。埃臭い匂いが、起き抜けの鼻を刺激して、記憶が蘇って来た。そうだ、私は物置に戻ってきたのだ。
 身体を起こし、力無い身体を奮い立たせて物置の扉を開けた。外もそれほどは明るくなかった。夏の深夜の、涼しいけれどじとじとした空気が肌にしっとりとまとわりつく。
「ひっ」
 縁側で物影が動いた。それは携帯を握り締めた母だった。
「あ」
「あ……」
 母と会うのは久しぶりな気がして、記憶を巻き戻すのに時間がかかった。そう、最後に会ったのは病院で、人でなしと言われた時だった。
「……」
 別に、探し出してくれなくてもいいと思っていた。勝手に病院を飛び出した私が悪いと思っていた。でも、見つかったらそれなりに喜んでもいいだろうに、母の目は、まるで見たことのない動物を見つけたように怯え、警戒していた。それはとても心の冷えることだったが、その母の視線は新鮮で、水のシャワーを浴びたような爽快さをも同時に感じた。今頃分かったことだけれど、私と母は別な人間で、どちらかがどちらかの見ていないところで大変身を遂げて、まったく別な人間になってしまうことだってあるのだ。
「ただいま」
 なんだか合ってない気もするが、他に合う言葉も無かったのでそう言ってみた。
 私はまだ、もしかしたら「死に目にも会わないで! 罰当たりね!」と罵られるのではないかと少しびくびくしていた。でも母はキツネにつままれたような顔のまま、呟いた。
「ただいま、って……あなた、どこか行ってきたの?」
「どこって……ここ。物置」
 私が物置を指さそうとして後ろを振り返ると、驚いた。さっき扉を開けたのだから確かにあったはずなのに、物置はぺしゃんこに潰れ、ただの木の屑の山になっていたのだった。
「あれ、おかしいな……」
「あなた、大丈夫?! おじいちゃんが死んだショックで……」
 そこで母はハッとして口を手で覆った。
「うん、知ってるよ、おじいちゃんが亡くなったのは」
 私が殺したということは言わないでおいた。「秘密を持つと強くなるぞ」というおじいさんの昔の言葉が思い出される。
「あ、それと、これ、おじいちゃんから。お母さんにだって」
 ボロボロに錆びて使いものにならなかったはずのフルートは、いまや光り輝く新品になっていた。私は手に握り締めていたそれを、母に手渡した。
「おじいちゃん、から……?」
「うん。そうだってさ」
 すると母はフルートを見つめ、両腕で掻き抱くと、
「なんで、なんで」
と言いながら縁側に崩れ落ち、声を上げて泣き出した。既に泣き腫らしたであろう頬の上に更に涙が重ねられていく。
「嘘、嘘……どうして……」
 泣き続ける母は、私が見たことの無いような表情をしていた。それは今まで母として子供の前では隠していた感情が剥き出しになった表情だった。悔しいとか、羨ましい、とか。憎い、とか。なんだか子供の頃のように、全力で自分の感情と戦いながら歯を食いしばっていた。それは子供の私をとてもすがすがしくさせることだった。つまり、私を子供扱いしていないのだ。電話の相手と同じように扱ってくれている。
「私……物置に入っちゃいけないって言われてたの」
 嗚咽の合間から絞り出すように母がそう言った。
「どうでもいい人の方が秘密を言えたりするじゃん」
 私は母を慰めるつもりではなく、本当にそう思ってそう言った。
 なんとなく分かって来た。あの物置はおじいさんと同じ時に生まれ、一緒に育ち、同じ時に死んだのだ。多分おじいさんの心の秘密をしまっておく場所だったのだろう。おじいさんはきっと、戦争で親友を殺した自責からフルートを吹くことを自分に禁じたのだ。ボロボロのフルートを引っこ抜いて新しくすることは、この物置を壊すことと同じことだった。そう思って木の屑の山を見ると、私も母につられて泣けてきてしまった。
「綾乃! どこ行ってたんだよ」
 兄の声が家の中から聞こえて来た。私は水を打たれたようにハッとした。綾乃と呼ばれていたのだ、私は。あの忌まわしい名前で私を呼ぶたった一人の人は、この世からいなくなってしまった。
 家の中で三人で集まり、お茶を飲みながらぼうっとしていた。兄と母は祖父の死を看取り、病院からいったん帰宅することになったが、この家の方が自宅より近いし祖父の思い出を味わいたいという理由でこちらで仮眠をとることにしたのだそうだ。父も間もなくこちらに着くという。
 なんとなく怖れていたのは、あっちの世界で何日間も過ごしているうちにこっちの世界の私の身体が死んでしまっているんじゃないかということだったが、恐らく数時間しか経っていないようで安心した。
 皆、疲れた顔をしていた。私のみならず、母と兄もまた、とても大きな感情の振れ幅を経験してきたのだろうと思う。だから私は自分の経験だけを大きな声で言い立てる気も起きなかったし、言っても信じてもらえないだろうと思った。いつか、言える日が来たら言うかもしれないけれど。


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