音楽の花嫁_表紙

【長編小説】音楽の花嫁 10/19

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馬車から下されると、私は要塞のようなすさんだものをイメージしていたのだが、賑わう城下町に囲まれた中世風の美しい城がそびえていた。鎧を着た衛兵がつかつかと馬車に歩み寄る。私だけが連れて行かれる。技師と女性にはもう会わないかもしれない。
 城の中には一体こんなに必要なのかというほど家来が溢れていた。どこもかしこも掃除中で、すでに透き通るほどに磨かれた大理石の床に何十人もの家来がへばりついて布で拭き続けている。城の全ての箇所が恐ろしいほどに綺麗だ。幾つもの階段を昇りつめ、最上階の一番奥にあると思われる部屋へと通された。いきなり大佐に会わされるのかと思うと緊張するが、一歩中に入り床を踏みしめた途端おかしいなと思った。じゃりっと音がしたのだ。釘や針金やスパナが散乱し、歩くだけで靴底に痛い。部屋を見渡すとエレキギター、ベース、エフェクターやアンプやツマミのついた機械がまるで粗大ゴミのように転がされている。おかしなことにその部屋だけが、他の部屋の汚れを一手に引き受けたように汚いのだ。部屋の明かりは薄暗く、奥に誰かの背中があることに目が慣れてからやっと気付いた。
「ネムル大佐、寵姫です」
 家来が声を掛けても
「ふーん」
と鼻で返事をしたきり振り返らない。家来が去ったので部屋に二人で取り残されてしまった。
 敵と言えども殺すのではなくうまく取り入って愛されないといけない。
「あの」
 緊張して声を振り絞ると
「あーまたー。チョーキチョーチョーキ!」
 針の飛んだレコードのように素っ頓狂な声を上げて振り向いたネムルの顔は真っ白で、幽霊に遭ったのかと思った。ずっとこの部屋で日光を拒絶し続けているのだろうか、それとも化粧でもしているのか。私と大して変わらぬ背丈で、男の人にしては小柄の細い身体を紺色の軍服の中に泳がせている。猫っ毛でさらさらと落ちる前髪を神経質そうに二三度払いのけ、そのたび頭の上に乗っている軍帽が大き過ぎるようでぐらぐら揺れる。まるですぐ大きくなるからと上のサイズの制服を買い与えられた中学生のようだ。なんとも落ち着きが無い。
 ネムルは前髪の中から私を見た。大きな目玉の中で黒目がビー玉のようにごろついている。白目がやたら白い。
「あ」
と言ってまた私に背を向けいろんなつまみをバチバチと鳴らした。ウィウイーン! と、掃除機が暴走したような音がした。耳の中にぐねぐねした棒を突っ込まれたようだ。
「怖がらないね」
 ネムルは言った。ただの寵姫ではないことがバレたかと思ってひやりとしたが、
「どうせあっちの連中にロボットとか性倒錯者とか人肉食者とかマッド・サイエンティストとか言われて来たから拍子抜けしてるんでしょ、意外とフツーで」
 その通りだったので黙って頷いた。もっと、童話の「青ひげ」のような屈強な男かと思っていたのだ。
 ネムルはぴょんぴょんと私のところにやって来て背中にまわった。
「そんな綺麗なおべべ着てもらっちゃって悪いけど、お妾に来てもらったわけじゃないんだよなー。どっちかっていうと僕はこっちの方が好みだ、強そうで」
 ネムルはひらりと私の前に身を翻すと私のぼろぼろの制服をつまんだ。草むらから飛び出てくるバッタのように動作が唐突で、掴めない人だ。
 ネムルは床から虫メガネを拾い上げた。でもそれは割れていた(床に投げ置いていたんだから踏まれて当然だ)、ガチャガチャと床を漁ってまともな虫メガネを見つけるとレンズを通して私を見た。
「そーれーでー。君が、この世で一番、好きなものは?」
 ネムルの視線は私の目を突き通して私の頭蓋骨の裏まで到達した。何も、何も視線を止まらせるものが無く頭の中が空っぽなのを見透かされた気がした。目が、灼けるように熱い、しかし目を逸らすことも出来ない。ネムルの虫メガネはどんどん近付いてきて、レンズに映る歪んだ曲線の世界に吸い込まれてしまいそうだ。
「……無い、です」
 私は敗北を認めた。無い、と言うのは屈辱だったが、ネムルの視線から解放されるにはそう言うしかなかった。
「無い~? そんなこと無いでしょ、忘れてるだけでしょ。それじゃあ第二問。君の名前は?」
 再び虫メガネが突きつけられた。この世界で名前を聞かれたのは初めてな気がした、そして、驚くことに、ネムルの視線が頭の中をくまなく照射しても、私には、思い当るものが無かった。
「名前も、忘れちゃったの? 可愛そうに」
 私はうなだれた。脳みその一部を切り取られていたことが判明したようにショックだった。
「しかし、一番大事なものを忘れているのに生きているのは、すごいね。でも忘れてるだけだよ、それ」
 ネムルは人差し指を一本出して猫をじゃらすように私の前で振り動かした。
「とりあえず君の名前はヒツジね。お城に迷い込んだ、名前を忘れた可愛そうな子羊ちゃん。『ネムル』に『ヒツジ』じゃ丁度いいだろ」
 ネムルは後ろを振り返るとがさごそやって
「僕の一番好きなものはこれ」
と言ってこちらを向いた。肩からエレキギターが下がっていた。それからネムルはパソコンをいくつも立ち上げた。そう言えばこの世界に来てから初めて機械の類を見た気がした。向こうのオケには電気を使う楽器は無かったし技師の周りにも一切機械は無かった。まるでこの部屋に世界中の機械が集合しているようだ。
 マイクスタンドを幾つも立て、コードをつないだり外したりするとネムルはマウスをクリックした。左右に据えられた、人くらいある巨大なスピーカーから小刻みに交互に重低音が響き、私は船酔いのように地面が揺れる錯覚を起こす。それからネムルがシンセサイザーや画面やいろいろなツマミを次々叩くと星が落ちるような電子音や鍵盤、サンプリングされた工場の騒音などあらゆる音が降ってきて部屋の中に犇いた。屋根を叩く豪雨のように音が多過ぎて何拍子かも分からない。ただ床を揺らすような重低音が私を翻弄するように左右不規則に訪れて、私の内臓も合わせて揺らされる。
 やがて無数の音が収斂していくとともにネムルのギターのカッティングが始まり四拍子に整えられた。ネムルはマイクスタンドに何か叫んだがそれは直接には聞こえず、マイクからコードが伸びている機械をネムルがいじることで逆再生されたり電子音に変わったりして音の渦の中に吸い込まれていく。足元に何十個も転がっているエフェクターをネムルは踊るように踏み変える。幾つものマイクスタンドを渡り歩いて叫ぶ。ギターの音なのか、ネムルの声なのか、サンプリングされた女の声なのか分からない。ネムルが飛ぶ弾丸を掴む勢いでバチバチとツマミを落とす。ピックを捨てて床に落ちているスパナでギターを叩き始める。それでも音が出るらしかった。頭が全方向から圧縮されるように痛い。脳味噌が混ぜっ返されるようだ。立っていられなくなりうずくまる。声を上げようと思ってもスーハーと息が素通りして声が出ない。このまま殺されるかもしれないが、私の声でこの人を殺すことはできない。この部屋はネムルの音楽の圧力でいっぱいで私の声など押し出す隙間は無い。
 脳天から耳へ風が吹き抜ける。ものすごい速度で落ちる感覚と浮く感覚が同時に訪れる。今までに人生で感じた全ての悲しみが耳元をかすめる列車のような勢いで過ぎ去っていく。
 どこかに吹き飛ばされたと思った瞬間演奏は終了し、目の前には相変わらず床があった。
「これが、僕の世界で一番好きなもの。どうだった?」
 ネムルが寄って来て私に手を差し伸べてくれた。とても立ち上がれないと思ったが、ネムルの手を掴むと腰がすっと伸びた。身体が天から一本の糸で釣られているように楽で、試しに跳ねてみると身体が軽い。関節も、まるで脳からの命令の伝達速度が格段に上がったように機敏に曲がる。
「やっぱりな。死ななかったね」
 ネムルは言った。
「それどころか、元気になってる」
「はい……」
 それは私も認めざるを得なかった。
「君、歌い手だね」
 ネムルはきっと私を指さした。観念して私は頷いた。
「最初来た時から分かっていたよ。だから僕の曲を聴いてもらいたいと思ったんだ。どう? ちょっとしたジェットコースターみたいでしょ?」
「そう……ですね」
 確かに意識がすっきりとして余計なものがこそげ落ちた感じはジェットコースターに似ていた。でもそれより遥かに意識の振れ幅は大きかったけれど。
 しかしなんて不思議な音楽だろう。
「すごく気に入りました。ネムル大佐」
 私は心の底から沸き上がってくる新鮮な驚きを素直に言葉にした。
「そう。僕は君が死ななかっただけで嬉しいよ。ヒツジちゃん。と言うわけで、晴れて僕の第一夫人にお迎えするよ」
 ネムルはひざまずいて私の手をとりキスをした。びっくりして目を丸くしているとぴょいと立ち上がり、
「と言っても、とりあえずそうしないと捕虜扱いになっちゃうってだけだから、あんま気にしないで。気楽にやろう。それとネムルって呼んでよ」
 その時家来が勢い良く扉を開けた。
「大佐! 困ります! ちゃんと防音扉を閉めないと! メイドが何人か死にました」
「あーごめんごめん。おもらししちゃったー。まあ、でも、掃除のメイドはあり余ってたから、丁度良かったんじゃない?」
 家来は憤慨した様子で扉を閉めた。この国でも命はやたら軽いようだった。
「やれやれ、ちょっと行ってくるからのんびりしてて。でもあいつ怒らすと面倒だから音は鳴らさないでね」
 ネムルはギターを下すとそこらへんに放り投げた。床に落ちているいろんな工具とぶつかり合いガチャーン! と派手な音がした。
「あ、それと、分かったと思うけど君に僕は殺せないからね。一番好きなものを思い出さない限り、君は僕を殺せない」
 バイバーイと言って振られた、軍手袋をはめられたネムルの左手には指が六本あった。

それから私は城でネムルと共に過ごす生活が始まった。と言っても私はネムルの部屋の隣に、城のネムル以外の部屋と同様埃一つ落ちていない美しい部屋を与えられ、食事も服も何一つ不自由無い生活を送りつつ、たまに呼ばれてネムルの遊び相手をするだけだった。一応新婚生活ということになるのだろうが、ままごとのようだったし夜も別々の部屋で眠った。基本的にネムルは朝から晩まで機械に夢中なので私が呼ばれるのは新作のエフェクターが出来たり曲が出来たりした時だけだ。
 身の周りの世話をしに来るメイドは日によって違ったが、一様に私のことを罪の無い囚人のごとく憐れんでいた。
「ご主人様に何かひどいことはされていないですか?」
「ううん、暴力もふるわれない肉も食われないし解剖もされてないよ。たまにエフェクターの試作品を聴かされたりするのがちょっとどきどきするけど」
「エフェクター……、それは機械のことですか?」
「うん、音をいじくる機械で……」
「それはそれは、大変結構なことでございます」
 メイド達は機械というものを一様に怖れているので、それでもう震え上がってしまうのだった。
 ネムルの音楽は一体どういうものなのだろう。今までに無い身体感覚を呼び起こす。まるで泣き明かした後のように、意識に余計なだぶつきが無くなって頭の中が整頓された感じがするのだ。
 本人に聞いてみた。
「ねえ、オケの音楽はクラシックって言うんだけど、ネムルの音楽は何て言うの?」
「さあ。テクノでもニューウェーヴでもオルタナでもプログレでもノイズでも好きに呼べば。僕はポップスって思ってるけど」
「ポップスではない……気がする」
 そもそも歌詞もメロディも無い。
「全部自分で作ってるの?」
「まあね。ギターも弾くし鍵盤も弾くし、ドラムスとベースは打ち込み、それと電子音とか自然音のサンプリングとか」
「戦う時も一人なの?」
「一人だよ。他にも使うのは足手まといだ」
 驚いた。一人で、何十人もいるオーケストラに勝ち越しているだなんて。
「オーケストラには連勝しているよ。あいつら覚悟が足りない。たった一人で、戦場に立って全ての耳と対峙する覚悟が。だから何人集まったって一緒。僕には勝てないよ」
「ということは、寵姫も何人も来ているの?」
「なんで? 嫉妬?」
 ネムルはいたずらっぽく笑った。私は慌てて
「いや、あの、メイドが、すごく私のこと心配してるから、前に来た寵姫が可愛そうな目にでも遭ったのかな、と思って……」
「そいつならそこにいるよ」
と言ってネムルは私の足元を指さした。そこにはエフェクターがある。
「これ……?」
「そう。金属製のお人形を担いできた子はみんなエフェクターにしてしまった」
 もしかして、足元に転がる何十ものエフェクター全てがそうなのだろうか。
「そうだね。作り方を教えようか?」
 ネムルはまるで料理のレシピでも聞かれたように気軽にそう言った。
「普通の女というのは必ず、『好きなもの』を持っているんだよ。大体の場合それは恋人になるんだけど。まあ、片思いの相手であったり、俳優とか、架空の物語の登場人物の場合もあるけど。とりあえずとにかく人だな。僕のギターはその姿を見せることが出来るんだよ」
「え、どういうこと」
「音楽催眠って僕は呼んでるけど、というか僕しかこのことは知らないし喋る相手もいなかったんだけど」
と言ってネムルは部屋の奥へ私を促した。そこには昔の電話ボックスのような狭い小部屋があり、やはり肘があるが背の無い椅子が一脚ある。四方に吸音材が貼られておりさながらスタジオのようだ。
「ここにお姫を座らせて、僕は部屋の外でギターを弾く。弾くといってもただ一音だけ。姫の様子を観察して、エフェクターを調合していく。人によってツボは違うけれどまあ大差は無い。ただ、小刻みの調整が要るし何種類かを調合するからパターンは無数にある。人間の声と一緒だ。これは間違い無く僕にしか出来ない。スイートスポットに当たると、姫は呻いたり、喘いだり、叫んだりし始める。好きなものと混じり合う夢を見始めるらしい。それを僕は録音させてもらうんだよね」
「……」
 それは、もしかしたらどんな性倒錯より質が悪いかもしれない。メイドが一様にネムルを「青ひげ」扱いするのが分かってきた。
「大体の場合、これだけじゃ姫は死なない。これは音楽ではなく、まあ、ただのチューニングみたいなものだからね。次に、姫にこの録音を聴かせるんだ。すると出力されたところに入力が戻る、まあハウリングとかフィードバックとか呼ばれる現象みたいになる。世界で一番好きなものに対する求愛は、女が出せる一番美しい音楽なんだ。ただしどうやら『恥』という感情と隣り合わせらしく、冷静な自分の耳で自分の出力を聴くと、バン!」
 ネムルは風船が破裂する真似をした。
「そっちの国には『録音』という技術が無いんだろう? だから向こうの女は、生まれて初めて自分の声を聴いて、しかもそれが最も恥ずかしい声ならば一発でダメになってしまうんだろうね。金属製の分身はエフェクターに使う。本体は、多分そっちと一緒でグリスとか、ギターの弦に使わせてもらう。木製のは、まあ、ギターの胴に使ってもいいんだけど今のところ間に合っているから、木製の娘が来たらメイドにして大理石でも磨かせてるよ」
「なぜ、普通に音楽を聴かせて殺さないの? なんでわざわざ、自分の声を聴かせて殺すの?」
「それは、姫の『音楽』を録音したいからさ。それを戦場で使いたい」
「でもそれをわざわざ本人に聴かせて殺さなくても」
「まあ、それは、僕が女嫌いだからだよ!」
 ネムルは「ぎー」と言って猿みたいに歯を見せつけた。
「何がむかつくって、結局人間が人間を愛することなんて、当人からしたら『世界に一人しかいない大切な人』と『私』の特別なことかもしれないけれど、傍から見たら何てことない、どこにだってありふれたものじゃないか。それなのに自分の愛だけを恥ずかしいとか思うのはおこがましいじゃないか。女の気持ち悪いところだ。だからせいぜい、思い知らせて死んでもらうのさ」
「私がはじめに聴いた音楽にも、その女の人達の声は入っていたの?」
「勿論。あれが僕の音楽のキモだ。死んでもいいくらい気持ちいい、とか、死んでひとつになりたい、とか、要はみんな死にたがってるのさ。男も女も。誰の叫びだろうが言ってることは同じ。だからどんな男にも、めいめい好きな女を思い起こさせて、殺す。皆幸せそうに死ぬよ」
 そこでネムルは蝶のように飛び跳ねながら私のまわりを一周した。
「君はそれじゃ死なない。なぜなら君は、自分だけを特別だと思っていないから。自分さえも愛していないのさ」
 愛。その言葉は母に突き立てられたナイフをもう一度押しこめるように、私の胸にこたえた。
「でも僕は君のそこが好きなんだよ、ヒツジ。汚らしい女の恥も思い上がりも無い、そして君は僕の音楽を聴いても死なない」
 ネムルは軍帽を取った。中にはカラフルな色の沢山のキャンディが入っていて私を驚かせた。お椀形にした私の両の手の平に全部乗せてくれた。空っぽになった軍帽を、ネムルは私の頭にかぶせた。
「次の戦争は一緒に出よう、ヒツジ」



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