音楽の花嫁_表紙

【長編小説】音楽の花嫁 14/19


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「一番好きなものを思い出す」、そして「棺を上手く使う」。ネムルはそう言っていた。それと、「僕の棺によろしく」とも。でも男の人は棺を持っていないんじゃないだろうか。
 エレベーターで考え事をしているとあっという間に降りる階についてふためくように、気付いたら私は細い食道を落ち続けて少し広くなった場所に着地した。下は胃液でびちゃびちゃ、そしてあたりは真っ暗で何も見えない。まるで地下を走る下水道のようにじめじめして嫌な匂いがする。ふいにふわり、と私を覆うように何かが落ちて来て、嗅ぎ覚えのある獣の匂いがかすかにした。コンコルドの羽根だ。私より先に女王の腹に入ったけれど、空気抵抗がある分遅れて落ちて来たのだろう。私が持つと丁度剣くらいの長さで、試しに振ってみると、ぼっと鈍い音がして先に火が点いた。
『私じゃ女王の食道につかえてしまうからお伴は出来ませんが、微力ながら協力しますよ、お嬢さん』
 羽根からコンコルドの声が聞こえて来た。
「ありがとう」
 燭台のように羽根をかざして、あたりを照らしてみた。視界を埋め尽くすのは粘膜の鮮やかなピンクだ。本で読んだ話で、真っ赤な部屋に数日間閉じ込められると発狂するというものがあったが、それに近いものがある。
「ちぇ、女王だって、色が見えない癖にちゃんと中身はカラフルじゃん。こんなけばけばしい」
 私は実は女王こそロボットなんじゃないかと疑っていたが、そうでもなさそうだった。
 恐らくここは胃なのだろう、緩やかに下っている地面は時たま思い出したようにリズム良く動き、私を奥へと連れ込もうとする。あの、死体のおぞましい臭いが段々と濃くなる。
 ぴゅん、と唾が飛んで来たように何かが私の頬にぶつかった。拾い上げてみるとそれは人間の指で、
「うわっ」
 思わずねずみ花火のように投げ捨ててしまった。指が飛んで来た先を見ると、半分溶けかけた男達が車座になっていた。座っているというよりももう下半身が溶け切って腰から上で立っている者や、片腕が無くて横向けに寝そべる者などいろいろだったが、とにかく座の中心には沢山の指が、まるで酒のつまみのように並んでいた。
「ハイ負けー、もう一本」
と一人が言って、他の男の指をもいでいる。
「畜生、あと一本しか無いのに」
 がっはっはっと男が笑った。まるで胃の底まで空虚に支配されてがらんどうであることを誇示するかのように、その声は胴体の中でよく響いた。井戸の底を覗いたような恐怖が尾骶骨から這い上がる。
 男達の一人が私に気付くと、顔の肉をぼろぼろとこぼれ落ちさせながら口の端を吊り上げ、醜悪な笑みを作った。
「おやおや、珍しいのが来たねえ!」
 その声でいくつもの顔がこちらに振り向き
「こんな胃の底に何しに来たんだい、お嬢ちゃん?」
「残念ながら、一生ここから出られないんだぜ」
「幽霊は死なず、生きず」
「何度も反芻され」
「無限の地獄ってやつさ」
「だからせいぜい、仲良くやろうぜー」
 指があったり無かったりするいくつもの腕が巨大な虫の触手のように私に伸びてきて、車座の中心へと連れ込もうとする。
「歌ってくれよー」
「聴かせてくれよー」
「減るもんじゃないだろー」
 恐怖で喉がからからで、歌うも何も叫び声すら出なかった。コンコルドの羽根を振り回すとそれは私の意思を吸い取ったように硬くなり、まっ黒な棍棒に変わった。いくつもの腕が、棍棒にぶち当たって肘からもげ、ぼとりと転がった。ハンバーグを食べ散らかしたようなひどい有様だった。息を止めて、その場から逃げ出した。
 すると今度は、先ほどよりもっと溶けた人達のかたまりに出くわした。互いが互いの身体の欠陥を埋め合うようにがっしりと抱きつき合ったまま溶け、まるでヘドロのように蠢いていた。どろどろの中のでたらめな場所に目玉や、爪や、髪がある。先ほどよりももっときつい、鼻孔から忍び込んで一瞬で内臓を腐らせるようなおぞましい臭いを嗅いだ。
 どこにあるのかも分からない口が幾つも唸り声をあげながら、私に言いたいことでもあるかのように這いずり寄って来た。何十人分もの声も身体と同様に溶け混じり、何を言っているのか分からない。しかしある時耳のふたがとれたように、「ウタ、ウタ」と繰り返しているのだと分かった。耳にカビが生えるような不快感がびっしりと私を埋め尽くす。本能が私に、逃げろ、という警笛を鳴らしている。のろのろと私の後を追うヘドロに
「来ないで!」
と叩きつけるように言い、振り返らずに走った。

臭気がもたらす涙を振り落とすように目をつぶってがむしゃらに走ったのでどのくらい離れたか分からなかったが、ふいに匂いが変わったので目を開けた。覚えている、この匂いは技師がいたマルタの部屋と同じ匂いだ。でもそれが温められ、蒸れ、下着の中に鼻を突っ込んだ時のような体温の熱気を感じる。私の背後で棺がわずかにカタカタ揺れた。少しは仲良くなれたのか、私は分身の様子をわずかながらに感じられるようになっていた。「棺を上手く使うんだ」ネムルの言葉が再び頭をよぎる。
 もっと光を、と願いながらコンコルドの羽根を振った。すると火は強くなりあたりを明るく照らした。
 見えたのは、女王の粘膜よりもっと鮮やかな、熟れきって崩れ落ちそうに赤い肌をした女達が何十人も座り込み、泣いている光景だった。皆棺はおろし、四肢を力無く投げ出している。手首には重そうな鎖がつながれており、それは棺の中へと伸びていた。女達は皆裸か、ぼろ切れを申し訳程度に纏っただけだ。女は消化が悪いというが、服は先に溶かされてしまったのかもしれない。祖国を追われ、重い荷物を運び疲れた難民の群のように、その場にうずくまり、嘆いているのだった。
 一体何事なのだろうか。その中の一人に近寄って棺の中を見ると
「うわっ」
 私が呻くのと私の棺がガタリと揺れるのが同時だった。覗いた棺の中の分身には、蛆が沸いていた。
 女の手首から伸びていた鎖は分身の手首につながっていた。分身の持ち主の女は私に気付き、しおれた朝顔のように力無く首を持ち上げて私を見た。女自身は若いが、まるで自分でナイフで刻みつけたようなわざとらしい皺が幾つも走っていた。女はその皺の中にうずめられた目と口とを細めて、紙屑のようにくしゃりと笑った。そして声は出さずに、息だけで
「ミナイデ」
と囁いた。それは、女が自分の全人生を否定するような言葉に聞こえた。女が今まで泣いた分全てを泣こうとするかのように、私の両目から洪水のように涙が溢れ出した。生きて、生きて、最後に辿り着いた地で発した言葉がそんな響きを持ってしまうなんて、こんなに悲しいことなんて無いだろう。女の顔は、紙屑が雨に濡れたようにぐしゃりと歪んだ。そして私を追うように泣き出した。泣いた顔と笑った顔は殆ど同じだと思った。
 その時棺が割れるのではないかという程激しい音がした。心臓が直接叩かれるように痛い。私の分身が暴れている。分身の怯えが背骨越しに私にも伝播する。歯を震わせ、理由の分からない恐怖に全身を絡め取られながら手足をでたらめに動かしてそこから逃げ出した。
「なんなの」
 肩で息をしつつ、背中に聞こえるように言った。するとコンコルドの羽根の方から
『あれは、バイタ』
と声がした。
「バイタ?」
『そう。ヒツジ、棺は腐るって話をしたろ?』
 今度はネムルの声だった。
「ネムル! 私もう……」
 随分久々に声を聞いた気がした。一刻も早くそちらに戻りたかった。
『大丈夫、怖くないよ。そこにいるのはみんなユーレーだから。生きてる奴にはかなわないさ』
「でも、じゃあ、さっきの女の人はなんなわけ? 棺が腐ってたよ? ユーレーって腐るの? バイタって何?」
 畳みかける私にネムルとコンコルドが口々に返事をした。
『バイタは、棺が腐る前に男に売った女のこと。犬の飼い主みたいに分身を鎖でつないで、アルバイトさせるのさ』
『腐った分身を運びながら生き長らえる恥よりはまし、しかし、バイタのままで長く生きることも出来ない』
『分身と本体は合体するのが自然だからねー』
『分身の加齢は売った時点で止まるが、本体は分身の分まで歳をとって、じきに死ぬ』
『それで、人肉食の腐肉食いの女王様に食べられちゃう、と。成仏出来ない奴らがそこらにとどまってるんじゃない?』
『女王はバイタをひどく蔑んでいるからな。いつまでもそこで苦しめるつもりだろう』
 どっちも安全なところで無責任に喋り散らしているようで、腹が立った。
「ねえ、私の分身はまだ平気なの? さっきから随分怯えてるんだけど」
 棺の震えはずっと止まらず、私は脊髄をピンセットでつまんで揺すられているようだった。落ち着いてものを考えられない。
『さー。最後に見た時は平気だったけど』
『お嬢さん、私の羽根を背中にまわしてみて下さい』
 私は言われた通り、羽根を背中に翳してみた。羽根に目でもついているのだろうか。
『……』
 妙な沈黙が流れた。
『……お嬢さん、そちらは暑いですか?』
 コンコルドが聞く。
「え、すごく暑いけど」
 人間の胃の中なのだ。体温くらいの温度がある。
「なんでそんなこと聞くのさ」
 聞いてからハッとした。
「もしかして、もう腐ってるの?!」
『まー、ちょっと、……ね』
 珍しくネムルが言い淀んだ。
「え、だって、ここに入る前、コンコルドだって、頬は薔薇色とか肌はすべすべとか褒めてたじゃん!」
 私は自分の尻尾を追いかける犬のようにくるくる回って背中を見ようとしたが、当然徒労に終わった。
「ちょっと、分身、出て来てよ!」
と叫んでもかえってかたくなに棺は閉じられてしまい、開く気配も無い。
「ど、どうしよう……」
『ごめんねヒツジ、一発やっておけばよかったね』
「馬鹿! こんな時に何言ってるのさ」
 そうしたら分身は消えてしまうのだろう。私は、なぜか、私に対してやたら冷たい、恐ろしいくらいに美しい分身を、失いたくなかった。
『ヒツジ。繰り返すけど、一番好きなものを見つけるんだ。それと、その棺をうまく使うんだよ』
「意味分からないよ。使うって何?」
『その時が来たら分かるよ。あんまり喋ると火が消えちゃうから、もう黙るよ』
 それっきり、何度羽根を振っても呼びつけても、ネムルは応答しなかった。泣きべそをかきながら、独りで、前進するしか無かった。



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