見出し画像

あたらしい自分1歳

今日は誕生日。
またひとつ若返った。めでたいめでたい。ありがたや。

そして今日は、前職での勤務を終えてちょうど1年の日でもある。
だから、あたらしい自分の1歳なのである!

ちょうど1年前、ついに長い勤務が終わったという感慨を書き綴った文がある。今日はひとつの節目として、それを眺めて、この1年をざっと振り返って、思うことを書き残してみたくなった。

まずはその1年前の文から。
(当時この文を書いた場所は現在非公開にしているのでここで全文再掲)

【会社勤務を終えて、新たなスタートへ】

昨日、これまでの会社勤務生活を終えました。

昨日まで勤めていた企業の事業所の、前身のグループ会社へ新卒で入社してから25年3か月。途中、病気休職の期間が2度、通算で5年近くありましたので、実働では20年あまりということになります。

まあ、ちょうど20年。キリのいい節目。

その20年間、ずっと、電気通信ネットワーク分野のインフラ(社会基盤システム)のソフトウェア開発業務に従事してきました。自分自身も含めて一般の人々が日常的に利用していて生活に根付いている、社会的にも必要不可欠となっているシステムを作り上げる仕事に長く関わってきたことはとても貴重な経験だった、今にして実感します。
技術開発系会社員としては最初から最後まで目立った実績をなにも残すこともなく、なんだかのらりくらりと煮えきらない感じの存在だったような気がしますが、曲がりなりにもこれだけの間勤めてきました。

    *    *    *

ほぼ1年前、今後どのように生きていくのが自分にとって大切で幸せなのかを問い直すことを余儀なくされた、あるきっかけがありました。その瞬間から相当に悩み考えましたが、今後は、地元の金沢を生活の拠点にし続けて、これまでとはまったく違ったキャリアへ挑戦し、身を立てて行こうという選択をしました。

これからしばらくの間は、休養をしつつ、今後のキャリアをつくっていくための勉強や活動に専念することを想定しています。勉強のほうは昨年秋から徐々にはじめていて、ここまではかなり順調、人にも恵まれていて、新しい世界へ転身していこうという心持ちにとても勇気づけられています。
ありがたいことです。

また、このようなことを考えるきっかけが生じる前に受講を決めていたいくつかの職場での研修が、奇しくも今の勉強や活動の基礎になってつながっているということもあります。これはもうほんとに不思議やわ!としか言いようがないですが、とても嬉しいことで、これからの勉強や活動が楽しく取り組むことができている大きな要因になっていることは間違いありません。

こうしてみると、幸運に恵まれているなあ。

    *    *    *

勤務を終えた今日からは新しい社会生活がはじまるわけですが、ひとまず、ゆっくりと、ライフスタイルの変化にフィットするように、家の中のものを見直したりすることを楽しむ感じでひと夏を過ごそうと思っています。

次にキャリアの軸としていこうとする分野は、まだまだ時間(とコスト…)はかかりますが、これまでよりももっと人とのふれあいに近いところで社会に貢献できる人間になるべく、楽しんで頑張っていきます。

…それからちょうど1年。いま感じることは。

小さな成功が結構あった
それよりももっと多く、小さな失敗をした

会社員時代、いや、これまでの人生すべてを通して、どの1年よりも密度が濃くて充実した1年だったということ。日々を精一杯生きてきたという実感の深みが桁違いな感じがするのだ。

勤務を終えた直後に「しばらくゆっくり」などと言っていたけれども、いまだにゆっくりできていない。ゆっくりしてもいいようなときがあって、さあゆっくり…というのも束の間。何かしら、活動するほうに意識が向いている。今もそう。ゆっくりとしたい思いがあることには違いないのに、なんでだろうか?

次に目指そうというキャリアをはやく確立せねばならない、家族が食っていけるほどのある程度安定した稼ぎをはやく確たるものにせねばならない、そんな切迫した気持ち。
はたまた、自分がこれからやっていこうと思ったこと、やりたいと感じていることに向けて、完全に自分のペースでやれる自由がさらに絡んでいる故だろうか「ついやってしまう」はやる気持ち。
こういうふたつの気持ちが掛け合わさって、勢いのようなものになっていたと同時に、大きなプレッシャーとなって自分にのしかかっていたのだろうか。

しばらく前に、こんなような気持ちを捨て去って開き直ってみた。
たぶん、自分のありたい姿や向かいたい方向性がちょっとずつ見え始めてきた安心感もあるのだろう。やっと解放され始めた感がある。

自分のありたい姿、向かいたい方向性。
これは1年前にこう書いていた。

地元の金沢を拠点に、これまでとはまったく違ったキャリアへ挑戦。
これまでよりも人とのふれあいに近いところで社会に貢献。

今の状況は、1年前に思い描いていた、というか、思い描くことができていた内容とは相当違う。その意味では全然うまくいっていない。辛くてしんどい

だけども、当時はまるで思いもよらなかったチャンスが目の前に現れて、ともかくとその流れに乗ってみたら、案外流れに乗れている自分に気づいておもしろいということもある。
その、誰でもやろうと思ってできることではないような、珍しくて貴重な機会に対して、まだ見ぬ可能性への期待と不安、その両方を楽しんでおもしろがっている自分がいる。

そして、これまでとは違ったことをと決心して最初に選択した取り組みごとが、今思うと最高の選択だった。
それは「人の話を一生懸命に聴く」特に「言ったとおりに聴く」「状況ではなく『気持ち』を聴く」ことの勉強と、姿勢の実践。
たまたまにしろ、この取り組みを最初に選んでやってみて、努力が続いていること。この力さえ尽きなければ、どこへ行ってもなんでもやれるような気さえしてくる。そういう安心感が、もしかしたら『自信』というものなのかも知れない。

まったく想定外だったカタチではあるにしろ「地元の金沢を拠点に」「これまでとはまったく違った」「人とのふれあいに近いところで社会に貢献」…少しずつ、少しずつ、確実にこの方向に近づいていることは間違いない。

おれはほんとうに運がいい。

この1年を通して、じわじわと見え始めてきた、大切なことがある。
それは…

すべての見通しが立ってから行動をし始めるのでは遅いということ。すべての見通しが立つやいなや、その見通しは既にもう通用しないと言っていい。少しの見通しと少しの勇気で、少し行動しながら、その都度見通しを修正していく。そのプロセスの連続こそを大切にすること。

人は「こんな自分を変えたい」とか「変わりたい」と思うから変われるのではないということ。そうではなくて「自分がなにかをやりたい」とか「なにかになりたい」という気持ちがまずあって、そのためには何をしたらいいのかを少しずつ考えて少しずつ行動していって、トライアンドエラーを繰り返して行くうちに、自然に自分が変わっていくということなのだろう。
自分が変わったというのは、他人から見たその都度の自分の印象でしかない。それに自分が気づいて、はじめて「ああ、自分は変わったんだな」と実感する。そういう、後からついてくるものではないか、ということ。

この1年でやってきたことだけを並べていくと、迷走でしかないだろう。
だけども、そんな道のりを踏むことでしか自分には見えなかったことを得た。あたらしい1歳のプレゼントとしては悪くないぞ。

楽をして生きていこうとは思っとらん
楽しんでおもしろがって生きようと思っとるだけや
何をしたところでしんどさ苦しさはつきまとうわ

どのしんどさに納得がいくんや
どのしんどさに腹を括れるんや
どのしんどさを選んだら
楽しんでおもしろがって生きることができるんや

なにを選んでもなにをやっても
悔いは常に残るし、残ってええ
すべて自分で納得して選んでいけば
悔いは残っても、後悔は決して残らない

自分で選んでみるか、誰かに選ばせてみるか
それを選ぶのはさて誰か

誰の言葉かって?

おれの言葉だよ。
他の誰からも引用してないオリジナルだぜ。

どのしんどさに納得がいくんや
どのしんどさに腹を括れるんや
どのしんどさを選んだら
楽しんでおもしろがって生きることができるんや

2年前に相当に悩んだとき、おれはおれにこう問うた。
それ以来、事あるごとにこれを自分に問う。

いくらなんでもいつもいつもそんなシビアに問うてないぜ。
そんなことしてたらしんどいだろ? ひっひっひ。

会社を辞めて転身する選択をして、後悔の気持ちが湧いたことは一瞬たりともない。

おれはほんとうに運がいい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?