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学都石川の才知 無料公開講座に参加 その1:「民意」について考える

「学都石川の才知」と題された一般向け公開講座を、2017年6月から7月にかけていくつか受講してみました。

公益社団法人・大学コンソーシアム石川の主催。
県内の大学・短大・高専の教授による広範な分野の講座が、2017年5月から8月の毎週土曜日午後に、しいのき迎賓館3階セミナールームで開講していました。

パンフレット裏面の末尾には申込方法が書かれてあり、受講にあたっては「問い合わせ先へお知らせください」とありましたが、実のところは、当日飛び入りでも充分参加可能でした。

無料ならええんやないの?と、ちょっとした興味の赴くまま、限りなく遊びに近いノリで、4つの講座を選んですべて飛び入りで参加してみました。いやその…講座2つを受講した後にやっと事前申し込みがあることに気がついたってのが実情で(汗)

今回は、初めて受講した講座のひとつ【7.「民意」について考える】について、講義で汲み取れた内容と、思ったこと感じたことを紹介します。

「民意」について考える

政治学が専門の教授による講座。
「民意」とはなにか、どんな意図をもってそんな言葉が使われて、政治の場やメディアで飛び交っているのかということを考えたひとときでした。

そもそも政治とは?

そもそも政治とはなにか?
そこから話ははじまりました。

本来は「政治とは、複数の人間にかかわることを決めること」を指すとのこと。例えば、友人同士と話し合ってなにか(何を食べるか、どこへ行くか、など)を決めるという時点で「政治」をしているのだということに軽く驚きました…。

そうすると自ずと「民意」という「周囲(自分もまた周囲の一部)の意見」を意識せずにはいられなくなるのは道理。

では「民意」とは?

ここ30年ほど、マスメディアで登場する頻度が多くなったという「民意」という語句。

この言葉は、実は政治学ではあまり使われない言葉なのだそうです。では、どんな言葉が使われるのか?となるのですが、それに相当する言葉としては「利益」「選好」「意見」などの言葉が使われることが多いのだそうです。

国民の「民意」

国民の「利益」
国民の「選好」
 選好…選択肢の中から好ましいものを選ぶこと
国民の「意見」

言われてみると、これらの言葉に置き換えたほうがより具体的で、どの文脈で「民意」という言葉を利用しているのかがはっきりと見えてくるのではないか。そう感じました。

では、民主主義(であるとされている)社会の中の…

「民意」の実情は?
「民意」という言葉で指しているものごとには、ほんとうに世間一般の人々の意思が正しく反映されているのか?

という疑問が生じてくるわけですが…そう簡単にはいかないようです。なんとなく反映されているような気がする、というのが正直なところです。

民主主義と「民意」の実情

そもそも民主主義には2通りありまして、

直接民主主義:
 当事者全員が話し合いで「民意」を決めること

間接民主主義:
 「民意」を集約したり実行したりする代表者を、
 国民が選挙を通じて決める
こと

日本はもちろん、後者の「間接民主主義」になります。

選挙という手段で有権者によって決められた代表者の政策や発言が「民意の現れ」として表現されることになっています。このように、有権者が選んだ代表者が、代表としての自由な意志と行動によって法律や政策を決めることを「本人・代理人論」というそうです。

この理屈で言えば、最も単純な話として『投票(得票の多さ)=民意』とみなすことができますが、そのような意味合いで「民意」を報じられ、かつ論じられることがメディアでも求められているのだそうです。

しかしながら、世間一般の人々の意見や主張・立場は千差万別。得票の多さがそのまま世間一般の人々の意思が「民意」に正しく反映されるものとは言い切れません。

ですが、それ以外にも「民意」がブレる要素はいろいろとあるようで、それが、政治のニュースや話題を持ち出したり読み取ったりすることの難しさ、ややこしさ、面倒臭さに拍車を掛けているように思えてきました。

「投票結果」は「民意」か?

選挙という制度によって、有権者が選んだ代表者は誰になるか ~誰が当選するのか~ が左右されますし、選挙に何人の候補者が立候補するかだけでも、既に当選結果が左右されてしまうところがあるということです。

あるひとつの選挙区で当選を争い合う有力な候補者が多くなるほど、当選に必要な票数が減少するし、その中で似たような主張をしている候補者が複数居れば、さらに票が分散する(割れる)ということが起こる。それを、第一位相対得票率(トップ当選に必要な得票の割合)と呼ぶそうです。

その割合が低ければ低いほど、その選挙結果には「民意」を細やかに反映されているという見かたができるのかなと感じました…

が、一方で、その選挙で当選した人の政策や発言が「民意」を反映している度合いは実は低いということになるのか…???

それでも、当選した候補者の人数が多くいるならば、その総意は「民意」をより反映できていることにもなるのではないかと…

うーむ、難しい。なんと自分は不勉強なことか…。

「投票結果」に「民意」が現れる度合いって?

投票結果の精度は、投票の選択肢をどうするかによって結果に影響が出ることも考えられます。

単なる「賛成」or「反対」ではなく、もっと具体的にどうすべきかを問うた場合…例えば、ある政策の是非を問う投票に対して「白紙撤回」「条件付きでOK」「国の言うとおりに」「わからない」などといったいくつかの選択肢を設けると、それなりに票が分散することは明白ですが、「賛成」or「反対」の二者択一で投じられた反対票の実態を調べていくと、実は「条件がよかったらOK」と考えている割合がとても多いそうです。「反対」の中身にもいろいろあるわけです。

住民投票の結果には、選挙の結果よりも、投票者の意思がより鮮明に現れるそうです。投票する側に、自分の意見が政治に反映されているという気持ちの高まりや、より慎重に判断をして投票をするという効果が、選挙の場合よりも現れるのだとか。
選挙では「ものごとを決める人を選ぶ」のですが、住民投票では「ものごと自体を自分が選ぶ」わけで、後者のほうが当事者意識が強まるのは道理でしょう。

しかしこれは、有権者の普段からの意識を問われることにもつながります。如何に普段から政治の実情を見ていて、自分の意見に忠実な選択肢を選んで投票できるのか。それができなかったら無意味でしょう。
「民意が問われている」とは「有権者(わたしたち)の普段からの意識が問われている」。結局そういうことになるのですね。

するとやはり、如何にして、有権者の意識を正確に反映できるような選択肢を設定するのか、選挙や投票の制度を設計するのか。要するに、選挙や投票の条件が、問うているものごとに対してそもそも妥当なのか。そこに、投票結果に民意が現れる度合いが左右されるということになるのではないかと思われます。

「民意」の測定と表現

「内閣支持率の世論調査」による「民意」の測られかたという観点でも、興味深い話を聴くことができました。

内閣支持率の数字がメディアによってなぜ違うのか?という点です。ここは、質問のしかた、集計のしかたの違いが影響しているようです。

あるメディアはこういう内容の質問を設定します。

1.支持するか、しないかの選択
2.自分の正直な気持ちに近いのはどちらかの選択

またあるメディアはこういう内容の質問を設定します。

1.支持するか、しないか、無関心かの選択

前者のような2段構えの質問のしかたにしますと、「支持する」の数は2つの質問の合算ということになり、支持する数が高くなる傾向が生じるのだそうです。
後者のようなシンプルな質問のしかたにしますと、「支持する」の数は自ずと低くなる傾向があるらしい…「無関心」の量と扱いにもよっても「支持する」の数の大小に影響してくるでしょう。

なんらかの立場やしがらみに置かれているなどによって、自分の正直な気持ちに拠る回答を単純にはできない、しない、ということも考えられます。前述の2段構えの質問のしかたは、ここのところを突いて「支持する」を多く引き出そうとする意図があるようにも見えてきます。

質問と選択肢の内容自体がメディアによってバイアスがかかっている場合ももちろんあるでしょう。メディア側の報じかたの傾向やメディアを選択する受け手の指向が支持率に作用しているであろうことは容易に想像できるところではないかと思います。

結局のところ…

以上の話から感じたのは「多かれ少なかれ、偏向していないメディアはあり得ない」し、「メディアによって民意を示す数値は変動する」し、「選挙あるいは投票の制度設計や選択肢の設定によっても民意を示す数値は簡単に操作され得る」ということです。

あるひとつの数値を見ただけで「民意」を安易に掴んだ気になってはやはりいけない…。

このように「民意」というものはなんとも掴みどころがなさそうに思えますが、それでもなお粘り強く、

如何にして民意を反映させるのか?を問い続けて、
真の民意を探し求め続けること。

こそが、民主主義のあるべき姿ということです。

おわりに

たった1時間の無料講座1回だけでもこれだけのことを知ることができて、かつ考えさせられました。

この講義は終始教授からの話のみに終始して結構しんどかったのですが、自分の頭で判断するだけではずっとウスボンヤリとしていたことが、曲がりなりにもこうしてある程度は整理できただけでも、とてもよかったと感じています。

そう簡単に答えが出るものでもなく、なんとまあしちめんどうくさいのか。民主主義とは。

それでも、そのめんどうくささを自分たちがなんとか引き受ける。引き受け続ける。

「民意」の発生源は、結局のところ、国でもなく、政治家の独断でもなく、わたしたちなのだから。

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