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「いちじくいち」を終えて

『いちじくいち』
〜いちからはじめる、北限のいちじくと、身の丈の豊かさいち〜

9月24日(土)2,710人 25日(日)2,238人
二日間で合計4,948人もの方にご来場いただきました。

まさかここまでたくさん来てくれるとは、嬉しいやら、びっくりするやら、いや、やっぱり本当のところ、想像を超える人を前に、どうしよう、やばい……と、いままで味わったことのない不安で卒倒しそうでした。

開催前日、搬入作業を切り上げて夕食にむかう車のなか、こんな辺鄙なところにいったい何人来てくれるだろう? と不安そうにしている僕を見て、ベベチオの早瀬くんが「逆にもうウッドストックみたいになるんちゃいますー」と冗談を言ってくれて、みんなで笑いあったのが、いざ蓋を開けたら会場から約2キロ先まで交通渋滞を巻き起こし、満杯の駐車場を前に、のんびりスタッフのヤブちゃんが、いまは入場できないと必死に謝って100台くらいの車に帰っていただき、二日目の開場前には約500人もの行列が出来てついに規制入場。打上げでHARCOくんが言った「フジロックの1年目と一緒ですよ」という言葉に、みょうに納得してしまうほどの混雑ぶりで、警察にこっぴどく叱られたのも、もはや勲章な気持ちです。

美術館での池田修三展の時もそうでしたが、自分なりのイメージを信じ本番直前までひたすら邁進するものの、いよいよとなると、急に自分が巻き込んだ人の多さや、地元の人たちの期待などが一気に押し寄せて、なんだかもう、なんでこんなことをやるって言っちゃったんだろう? という後悔にも似た気持ちに押しつぶされそうなります。それでもなんとか乗り切れるのは、同じように未来を想像しズタボロになってまで現場を推し進めてくれる、のんびり秋田メンバー、ヤブちゃんと田宮さんそして温視ちゃんのおかげ。様々な助けが必要ななか、秋田の近しい友達は、こんなこと言わなくても十分わかってくれていると思うけれど、誰よりも必死になって現場を支えてくれた最大の功労者は彼らです。ヤブちゃん、田宮さん、温視ちゃん、あらためてありがとう。

このままだと感傷的な言葉ばかりが湧いてきて、「いちじくいち」を助けてくれた全員の名前を書き連ねたくなるので、ぐっとクールダウンして、今回の「いちじくいち」の経緯と結果について、少しメモしておきたいと思います。

2012年に池田修三さんという今は亡き木版画家の作品に出会い、惚れ込んだことから、ご縁が深くなっていた秋田県最南端の町、にかほ市。鳥海山と日本海に挟まれた、まさに風光明媚なこの町本来が持つポテンシャルの高さを感じた僕は、いつのまにやら、池田修三という作家そのものから、自然と、彼が愛した故郷、にかほそのものに興味が移っていきました。

これまでの4年間、祝い事の際に修三作品を贈りあったという、にかほのみなさんの「暮らしの中のアート」のリアルな姿を日本中に届けるべく、作品集の出版、日本各地での展覧会、東京渋谷での巨大サイン、9日間で1万2千人の動員を記録した秋田県立美術館での展覧会など、着実にステップを踏みながら、池田修三ひいては、にかほ市、そして秋田のPR を頑張ってきました。

それはある意味結果として、にかほのためであり、秋田のためであるかもしれませんが、それ以上に一編集者の個人的な欲望として、少子高齢人口減少ワーストワン、いわば、これから日本が向かう現実のトップランナーとも言える秋田県から、未来のフォーマットを作りたいんだという気持ちゆえの行動でした。

普段兵庫県に住んでいる僕は、まわりの友達が手がけている、大阪や神戸などの移住促進事業を見るたびに、とてもととても複雑な気持ちになります。秋田という土地が抱える様々な問題の本質は、もはや秋田そのものというより、こういった僕にとっては十分に豊か(あくまで経済的にですが)だと思える土地の人たちの「減少」という二文字に対する無闇な恐れなんじゃないか? とさえ思います。僕はいつだってこう言いたくなるんです。

「じゃあ大阪は、神戸は、その人口をいったいどこから搾取するつもりですか?」と。

新たな価値観を提示し、その思いを編集者なりに表現するためにも、僕は秋田という土地で、田舎だろうが、辺鄙な土地だろうが、賑わいをつくることが出来るんだということを現実に証明しなければなりませんでした。

そして残念ながらそれは、池田修三さんを中心にした動きだけでは叶わないということもわかっていました。最初は僕の言うことなどほとんど理解してもらえなかった役所の方も、いまではなんでもかんでも池田修三に絡めようとしてくれていて、ほんと役所のおじさんたちは可愛らしいなあと苦笑するほどになってきましたが、そういう流れになればなるほど、僕はやっぱりもって「アート」なるものの壁について、手を打っておかなければ、次のフェーズにいけないという焦りばかりが募っていました。

「アート」は多分に革新性を内包するゆえ、現実問題、その言葉が見え隠れする時点で大衆を遠ざけるようなところがあります。それに比べ、もっとも直接的に大衆に届き、ストレートな行動につながるものは「食」だと思っている僕は、にかほにある様々に魅力的な食文化のなかで、北限のいちじくと呼ばれるにかほ市大竹地区のいちじくをキーにしたいと思いました。そこから妄想を膨らませ、具体的に『いちじくいち』なるものをやるぞ! と心に決めたのは実は今年の春のことです。

そこから約半年の間に、地元いちじく生産者のみなさんと公民館で酒を酌み交わし、仲間を少しずつ増やし、途中、圧倒的に足りない人手に何度も不安になりながらも迎えた9月24、25日。結果的に「いちじくいち」にこれだけの人が来てくれたことは、僕にとってとても大きな出来事で、いまようやくまた新たなスタートを迎えることができた気持ちです。

いちじくいちの二日前、飛行機で秋田に着くなり消化器内科に直行。なんとか気持ちと身体をだましだまし過ごした秋田でしたが、無事いちじくいちを終えて帰ろうという今は、すっかり体調もよくなりました。つまりは、ただただホッとしています。無謀な試みに協力してくれた秋田や青森や宮城や東京や大阪の友達、みんな本当にありがとう。勘六商店の玲さん、若手生産者代表いちじくボーイズのみんな、やったね! 課題もいっぱいだけど、来年にむけて頑張ろうぜ。

そして、ど田舎の辺鄙な土地だってやれるんだ! とリアルに気づかせてくれた、約5000人もの来場者のみなさん。本当にすごいです。やっぱり秋田には未来がある。そう確信させてもらいました。来年もまたお会いしたいです。心から、本当に、本当に、ありがとうございました。

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