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愛と巡り愛 帝釈天王象㉘-3

リーディングマスター・まさみちです。真実を伝えようとする心理カウンセラーしています。問題の本質は隠すことなく示すことで、届く人には届き、受け取りたくない人は始めから出会うこともないままの方が時短で効率よいものと考えております。この記事が必要な方に届きますように。(70/88)

そもそも、自我の発生メカニズムは「思いがけない体験」から始まるものです。

「想定外」と呼んでも良いですし、「予定されていない出来事」と表現しても良いものですが、いずれにしても「あるべきものが無くなった体験」が切っ掛けとなります。

大抵の場合、深い哀しみが伴うものは「親が亡くなる」「子が亡くなる」「伴侶が亡くなる」「友が亡くなる」「大勢が亡くなる」というものから引き起こされるものです。

人は亡くなります。

誰でも人は亡くなることは絶対に避けられないことは周知の事実であるものの、この亡くなるまでの期間を伸ばしたり縮めたり出来るという感覚があります。

病気の治療法が開発されていたら、昔は亡くなっていたものが、今ではそうそう亡くなる病気ではなくなっていることもあります。そうした医療の発展から考えると、寿命はコントロール出来るいうイメージが出来ます。

それでも、不慮の事故など、亡くなる方はいます。

当たり前のように亡くなります。

「嫌だ」

と、どれほど否定して、突っぱねようとしても「死亡」している現実を変えることは出来ません。

「亡くなる」ことは自然現象にも関わらず、それを人災だと感じられるなら、「誰かの責任だ」と批難したり、「自分のせいだ」と自己卑下に走るなどしたり、母が亡くなれば「父を責め憎み」父が亡くなれば「会社を呪い復讐に走る」など、「亡くなる」事実から壮大なドラマが展開されていきます。

とてもとても哀しいものです。

「亡くなる」ことは、自然現象です。

それが病気であれ、事故であれ、何かの過失であれ、殺人や自殺であるにしても、自然現象です。

それを否定する心が「哀しみ」を生み出し、「自我が発生」します。哀しみを支えにして、恨むでも憎むでも、医者を目指すでも、良くも悪くも様々な心情を与えてくれるものです。

自然現象である「亡くなること」は、「哀しむ」ものではないのが答えであるものの、「哀しまない方がおかしい」と感じる人がいます。一時的に「悲しむ」ことはあっても永続的に「哀しむ」ことではないものと伝えたいのですが、この違いを理解出来ないと、哀しみの渦に巻き込まれて、転生を股にかけて「哀しみ続ける辛苦の人生を歩む」ことになります。

自然現象の「死亡」を、「哀しむ」事実が「冤罪」とも言うべき自身への扱いと考えて欲しいものです。

亡くなった人も、生きている周りの人も、自分自身も、哀しむより笑って生きる方がいいものなのに、誰も喜ばない「哀しみ」を抱いて生きるのです。

最も、「哀しみ」を抱えていることさえ無自覚なことが多いため、帝釈天王などと対話するなどして、自覚出来るようにしてみる道もあるので、紹介している次第です。

第三チャクラ「③色欲(行)」「⑩卑屈(想)」「⑰背徳(受)」「㉔剥奪(識)」が引き起こされ、自身の行動の結果が、我が身に何が降り注ぐかを知らせるパートです。その行為の歪みが「㉘冤罪(識)」によって引き起こされることを解説するものであります。

人が抱え持つ哀しみは、誰かの愛によって補って欲しいと願うものです。

凹凸のように、引き合う者同士が、ピタリと一致すれば良いものです。しかし、不一致であるなら双方に「哀しみ」が膨れ上がることとなり、反発して離れることもあります。

人と人とが交わる上で、風習文化など二人の当事者以外にも、価値観などの違いも受け入れられる方がよいものです。

そして「日夜続く試練に耐え続けることで、愛の尊さを示せ」という無意識があります。

子どもにゲーム機を与えながら、そのゲームをせずに「勉強するかどうかの試練(③色欲(行)に墜ちないか)」や、仕事帰りの居酒屋で一杯飲める余裕があっても、「寄り道せずに直帰する試練(⑩卑屈(想)にも自分を庇い言い訳しないか」や、家計にのやりくりが危ないにも関わらず「ご褒美として衣類や甘い物を買わずに耐える試練(⑰背徳(受)となる少しくらいはいいかな? と裏切りを許すか)」などが課せられるのです。

どれも試練に耐えなければ「㉔剥奪(識)」という厳罰(ゲーム機の取り上げ、小遣いの減額や、軟禁状態など)という責め苦が待ち受けており、口うるさく言われてしまうことがあり、「このくらい良いじゃないか」と試練に耐えられるものじゃないと感じて、その場しのぎの言い繕いで逃げるのです。

責める方は「相手のため」であっても、責められる方はそのように感じられず「責める側の都合を満たしたいだけ」としか認識されないものですが、不快さを与えたのは相手が原因である為、相手を責めるのが筋だと感じるものです。

しかし、発生原因が風習文化などその人自身ではなく、それを取り巻く関係者であるとしたら? それはまさに「㉘冤罪(識)」となるメカニズムが隠れていることを知ってほしいものです。

子どもがやたら「③色欲(行)」のゲームに依存している場合など、祖父母が孫に対して「何もしてやれなかった哀しみ」を抱いているなら、「孫には⑦傲慢(行)でも何でもいいから元気にいて欲しい」と感じていることがあります。その擁護のお陰で親の注意を祖父母が庇い立てていると、止められないくらいにゲームに没頭してしまうことがあります。原因の発生元は祖父母の「哀しみ」であり、結果が孫の「ゲーム依存③色欲(行)」であるのです。注意すべきはいつまでも「哀しみ」を抱え持つ祖父母であり、子どもではないのです。それでゲーム機を取り上げられる「㉔剥奪(識)」が起きてしまうと、まさに「㉘冤罪(識)」なのです。

同じように夫が「⑩卑屈(想)」にも家に近寄れずに「呑んで帰る」ことを止められない場合も、相方の両親が過去世において夫が、かつて両親の子どもで生まれたことがあり、それを施設に預けるなどした「⑭子育て出来なかった(遺棄・想)」した体験があると、そこに「哀しみを埋める行為」に及ぶのです。それが「呑んで帰り、妻の不快さから許しを得て愛を知りたい」ものが隠れているのです。
過去世で夫の両親であり、妻の両親である縁者なら、棄てられて卑屈になった夫である卑屈さに縮こまっている心さえも、丸ごと拾い上げてくれないかと、棄てられた姿を見せ、拾われたがっているのです。
しかし、には両親の過去世や、夫の過去世は関係ありません。「呑んで帰るなど、家で帰りを持つ事実を無視されていることが腹立たしく感じる」のです。異常なほど苛立ちが湧き、「夫を棄ててやりたい」と感じてしまうのです。それはまさに、過去世で両親が夫を棄てた体験と重なる心境㉔剥奪(識)感を抱かせるものなのです。棄てた(預けた)のは両親であり妻ではなく、夫は、訴えるべきは妻ではなく妻の両親である為、妻の愛にすがろうとする夫の「哀しみ」は向けるべき相手を間違える「㉘冤罪(識)」なのです。

妻がストレスの逃避先として買い物や甘い物への誘惑に「⑰背徳(受)」を感じつつも、それが制御出来なくなるほど主婦業が辛い時があります。姑との関係性において「㉑迫害(受)」と感じられるほどの圧があると、その対処として悪いと解っていながらも買い物に手を出してしまう無意識は止まらないものです。姑からの「㉑迫害(受)」が無くならなければ「⑰背徳(受)」行為も無くならないからです。同時とも呼ぶべき連動性があり、異常行動である浪費の「背徳行為」を止めさせたいなら、妻を叱責して軟禁して自由を奪う「㉔剥奪(識)」は逆効果であり、妻が自由意志を示せないほど自分の意思にも「⑰背徳(受)」であるなら、妻が真に望んで「家にいたい」と言っているとは限らないものです。夫の無言の望みや、姑の期待に応えなければならない望みが「㉑迫害(受)」の圧力となって意志を貫けないように負けてしまうのです。自由意志を示せない妻に冷たい言葉を浴びせるのは、まさに「㉘冤罪(識)」であるのです。

このように、行動が制御出来ない感覚を自身や他者に見出す場合、「哀しみ」の発生場所と、「哀しみ」を補う場所が違うことがあり、正さなければならないのは「発生場所」と「補う場所」と「責める場所」と「その話を相談される場所」の四カ所を同時に意識を繋いで癒やすことです。

それらを繋いで癒やしてくれる存在が帝釈天王です。

③難陀龍王像との結びつきと㉘帝釈天王象

帝釈天王

人と人との縁は不思議なものであり、関わる人は何かしらの繋がりがあります。

本来は維持されない「悲しみ」永続的な「哀しみ」となってしまうため、その「哀しみ」を癒やすために出会うものです。

「一つ」であった「魂」「受想行識」という四つの欠片に分かれることがあり、多ければ二十八個にもバラバラに欠片として散らばることさえあるとイメージしてください。

惹かれ合うものが、哀しみの欠片と欠片が引き寄せ合うことがあり、それが互いを補う関係であればいいものの、近づき過ぎると「哀しみ」に触れてしまい互いを傷つけ合う関係に到ることもあります。

哀しみを癒やすには、同じレベルの哀しみを体験し、過去の体験と違う良質で意識の高い行動に移せたとき、癒やされるものです。

問題が発生した「哀しみ体験レベル」と、現在に引き起こされた「哀しみ体験レベル」が同じレベルなら問題は解き明かせず、再び「哀しみ体験」に直結してしまい「③色欲〜⑦傲慢(行)」となるようなゲームや酒や賭博や女性関係の乱れなどしておきながら、反省の色も見せずに開き直ってしまい、「㉔剥奪〜㉘冤罪(識)」とした罰が与えられ、決別などの「哀しみ体験」が同じように引き寄せられるのです。

「⑩卑屈〜⑭遺棄(想)」となるような、甘ったれな言い分や、自己弁護を繰り返したり、弱者だから擁護をして欲しいという情けない姿をさらしては「㉔剥奪〜㉘冤罪(識)」となるような見捨てられてしまう罰が与えられ、「哀しみ体験」がまた起きるのです。

「⑰背徳〜㉑迫害(受)」となるような、加重なストレス状態にも関わらず、それを言うものでは無いなど、隠してしまうことでまたストレスが溜まり背徳行為に及び、それが露呈し「㉔剥奪〜㉘冤罪(識)」となる状況が改善しないまま姑のストレス下に立たされる罰が与えられ「哀しみ体験」が続くのです。

意識のレベルを飛躍的に上げなければなりません。

問題が解決出来るほどのレベルに飛躍できるなら、改善策を思いつきます。それは「哀しみ体験」は「哀しむ必要の無いもの」という労りや許しなどがもたらされることで解消されるものです。

対処療法であるなら、ゲームを取り上げたり、小遣いをゼロにしたり、姑を来なくさせることなどで一時的な改善は見込まれますが、「哀しみ」が消え去ったものではありません。

「哀しみ」はストレス(苦痛)です。

「㉘冤罪(識)」となるような働きが加重にかかると、人は正気を失うようになります。

「③色欲〜⑦傲慢(行)」は、娯楽に飢えているならゲームに逃避するものであり、寂しさを紛らわす為なら酒に走るものであり、異性との不仲や深い哀しみの改善を望む思いが働くと風俗や浮気、アイドルへの熱の入れ方など及ばせるものです。

「⑩卑屈〜⑭遺棄(想)」は、劣等感や自分の情けなさを覆い隠す為に、より下の者をいじめることや、酒を楽しみにしたり、周りに迷惑がかからないように極力小さくなって趣味に没頭するものであります。

「⑰背徳〜㉑迫害(受)」は、置かれてる立場や状況からして「絶対にやってはいけないこと」にも関わらず、それを逸脱して会社のお金を横領したり、親の金を盗んだり、自転車を盗んだりと、「ちょっとしたスリル」を味わいたくてという軽い動機で悪事に手を染めてしまうものです。

これらどれもが本人が持つ者というよりも、家族や縁者が持つ者で被害を受ける側の縁者に「哀しみ」を持つ人がいて、実際に「色欲、卑屈、背徳」などに及ぶ「哀しみ」を許しているような人が行為に及んでしまい、「許されない」体験をして身をもって学ぶことよりも、「許し切ってしまう」体験を与えることで改善するものでもあります。

ただし「㉔剥奪〜㉘冤罪(識)」に及ぶほどの許しを与えるには、帝釈天王の気づきが必要となる為、通常の思考力や行動においては根底にある「哀しみ体験」を癒やすことには到りません。

ワークとして例えば、「ゲームばかりする子(③色欲・行)」それを「監督する両親(⑦傲慢・行)」と、「見て見ぬ振りをする家族(⑩卑屈〜⑭遺棄・想)」と縁者として「孫を可愛がる祖父母(⑰背徳〜㉑迫害・受)」がいて、それぞれの立場ごとに隠れ潜む「㉔剥奪〜㉘冤罪(識)の記憶や行動パターン」「哀しみの低レベル〜癒やしを与える高レベル」まで同時に意識を重ね合わせることで帝釈天王に繋がることが出来ます。

意識が広大になり同時複数を捉えている必然的な心眼とも呼ぶ仏性の視座に立たなければならないのが想像出来るでしょうか?

絶対に許せないことをした体験から、それであっても許してしまわなければならない気づきを生み出せる力こそ、慈愛になるものです。

意識を動かすことも「行動」そのものです。

肉体を動かすことばかりが「行動」ではないのです。

ただ、精神など心の意識を動かす「行動」はどこまででも飛躍するほどの高い意識が求められるものです。

被害者の立場からでは、加害者を攻撃すれば気が晴れたり、思い知らせることで相手を厳罰に処することで「離婚」でも何でも、痛烈に苦しい結果を与えてやれば気が晴れるかも知れませんが、魂の課題とも言うべき問題は解決せずに「㉒落第(識)」かも知れません。

心が「⑮破壊(受)」されているなら、被害者が加害者を罰する正当な権利でもあると言うのでしょうか? 哀しみが哀しみを生み出す連鎖がいつ始まったかというなら、「私から始めたに違いない」と過去世などが解らなくても必ずそのように出来ている筈だから、そうに決まっている! だから「許してやる道を探す」ことをして、意識を高めて道を繋ぐのです。

でなければ「⑧犠牲(想)」で倒れた自身や縁者の「哀しみ」が癒えることはないのです。「①強欲(行)」にも、目の前の気楽さや賠償金でも請求出来るなら、離婚した方がマシや、問題を起こした加害者を執拗にいじめて気を晴らすことをしたいというならすればいいのです。自身の「⑦傲慢(行)」さに意識が乗っ取られ「⑭遺棄(想)」してしまっているのですから、どこまでも暴走して「㉑迫害(受)」しても、問題を起こした相手が100%物的証拠があるので処罰しても構わないものと感じ取ってしまうのです。

見えない縁の話など誰も解らないものですし、そうした能力も「㉔剥奪(識)」している過去があるのです。明確に調べられる人はいません。霊的資質を持つ人が、持たない人たちに信憑性を持たせることなど出来ていない歴史しかないものです。多くの人は、それに安心して物的証拠だけが重要だと解釈し、我が子や伴侶や両親や友や他人が間違いを起こしたことを、懲らしめているのです。

誰が見たって物的証拠があるのですから、それでいいのです。まさか「許しを与える体験をもたらすため」などという魂の目的など、精神論やスピリチュアルのネタを持ち出して、証拠を否定して「㉘冤罪(識)」だと言い出して、「これ以上、迫害や遺棄するような真似はやめて」ということなど「しないよね?」と「⑦傲慢(行)」の心は最後の最後まで、物的証拠を信じて「㉘冤罪(識)」などあるはずがない! とした姿勢を貫こうとするものです。

知識で学ぶレベルでは、こうした見えない縁の繋がりを追いかけて、誰もが納得出来る因果関係を解き明かして、解説する能力を育てるのは至難の業なので、衰退すると復活させられなくなるものです。

かつての仏教が悟りを開く人が多ければ、信憑性も高まるものですが、悟る人が少なくなれば形だけの教えが残り、物的証拠で判断するしかない時代にハマってしまうのです。

見えないものの繋がりを紐解く力を持てると、これらの問題も論理的に解決出来、万人が納得して大切なのは「処罰」ではなく「改心」することだと解るものです。

執拗に問い詰めるような関わりをしないようにしてあげてください。

仏との対話を学びたいなら、関わる人全員を同時にイメージして、その意識で問答してみると、違った解釈や思慮深さが得られるかと思います。

取り組んでみてください。

「理解されたい気持ちよりも、理解してあげようとする気持ち」が大事ですが、問題を感じたレベルでは解けずに、問題を解き明かしてしまうレベルに直ちに飛躍して「理解しようとする気持ち」に到達して始めて解る道が開くのです。

誰もが痛い思いをしながら、「どうして?」「なんで?」という悩みを抱えつつ歩くものです。

「謎だ!」とか「おかしい!」とか「損なことなんでするの?」という疑問を抱くなら、「悟りを開いて考えてみたら見つけられますよ」と教えるのが帝釈天王です。

自分は客観視や、論理的に解説したり、問題行動をしないと言い切ることが出来るかも知れませんが、相手の認識や価値観の変容を促すことは「難しい」といって考えることを「⑭遺棄(想)」しないで欲しいとお願いしたいところです。

「なんで!」と出来る人は出来ない人を「㉑迫害(受)」している事実が見えていないのです。「ただ聞いているの」と答える人が多いものですが、「聞き出す」のではなく「言い当てて救い出してみせる」が答えです。

問題行動を起こしている相手が「㉘冤罪(識)」にハマり込んでいる状態でありながら、自分の行動理由が自覚出来る筈もないことを教えておきますので、覚えていただけると幸いです。本人たちは解らぬまま、人に嫌われたり、見捨てられたり、叩きのめされる行為をしてしまうのです。

「病気だ」と扱ってもらう方がマシですが、治し方はあります。仏との対話はただの「思慮深さ」でもある意識の使い方でしかないものです。

裁くことばかり考え冤罪を広めている無意識に気づかずに「許し」を持てない人も、とても哀しい思いをしているに違いないですから、自分自身の救済のためにも、帝釈天王のような広い心で、関わる人全員と繋がったイメージで思考してみてください。

愛と巡り会えるかも知れません。

理解してくれる人が世の中にいることを知っていてください。

いつでも相談に乗ります。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。




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