小説 無敵畜生


 中学生の哲人は金持ちの親族から溺愛されていた。下品で老人の匂いがする男。スーツの男を犬のように扱い、金で女を侍らせる。哲人は彼のことが大好きだったが、突然彼から引き離されて普通の中学生としての日々をすごすことになる。

 哲人は自分の人生が余生だと思って惰性で過ごしている。自分の人生から王様がもたらす下卑たきらめきが失せても、それなりに楽しんでしまっていた。そのことに罪悪感を抱きつつも、余生も、普通の中学生の生活も悪くはないかもしれないとも思いはじめている。

 しかし、哲人にクラスで初めての友人が出来た。友人になった純一は親が資産家で、純一はその庇護を受けつつ親を軽蔑していた。

 金持ちで傲慢な友人。自信家で顔も良く外面も良く頭も回る。彼との出会いは、哲人に様々な変化をもたらしていく。

 そんな中、哲人は大金が必要になってしまう。純一を頼りにすると、代わりに一日犬になって見ないかという提案をされる。



 読みやすいように適度に改行を入れて、全体の分量はワードで70ページです。41ページくらいまでは無料で読むことができます。




 数年前まで俺は無敵だった。今の自分が暮らしているのは、余生のような気がする。でも余生も悪くないと思う俺はもうすぐ中学三年生。出席日数が明らかに足りていないらしく進級できるのかは分からない。それがどうでもいいような、よくないような気がしながら、道を歩いていると、小型犬を散歩している中年男性とすれ違い、足を止めじいとそれを見てしまう。


 生前、俺が今よりもっとガキだった頃、六本木の街で頭のない犬を見た。遠くに東京タワーが見える大通りで、車道の隅にいる黒い毛皮を着た彼は、車に撥ねられたのだろうか。もっとむごたらしいことが行われたのだろうか。目の前にあるそれには首がない、というのが信じられず、切り離されたそれを探すように日陰で眠る首なしにそっと近づき、その匂いを嗅ごうとして、ぐいと肩を掴まれた。


 じいちゃん、金持ち、公輝さん。昭和生まれの癖に長身で、ブランド物のスーツから伸びた大きな手で俺を強引に引っ張り言う「こんな物見るな」「見たいよ。好きなんだ、犬」という俺の声は彼の耳には届かずに引きずられるように首なしとの距離が離れ、骨ばって、手の甲、沢山毛が生えて、こっちだって好きなんだ香水の金の老人の匂い。


 公輝さんはオールバックで老人で体格が良くてお金持ちで横暴で傲慢で下品でしかし、俺を溺愛していた。周りにはいつも公輝さんに従ったり媚びへつらったりする人たちがいて、溺愛されている俺もそのおこぼれにあずかる羽目になり、それに気づいた時は反抗心も生まれたのだが、ガキだったし、構ってもらえるのは嬉しかったというか、構ってもらえないと、どうしたらいいのかが分からなかった。無敵じゃないのが怖かった。


 坊ちゃん、ぼん、哲人さん、てっちゃん、と口にしていた、忠犬のような猛犬のような番犬のような駄犬のような誰も彼も皆いなくなってしまった。


 数年前急に、意味も分からず、俺は日常に引きずり込まれ、小夜子の世話になって、学生という身分を与えられて過ごすことになってしまって、大した抵抗もなく俺はそれを受け入れて、小学生らしい中学生らしい暮らし、らしきものを送っているのだが、何度も思い出してしまう生前の俺無敵だった頃の俺欲しい物は何でも手に入った、ような錯覚ができていたころの俺。

 ああ、でも、あの頃でも手に入らないものがあること位分かっていたというか思い知らされていて、あまりにも何でも手に入るから、公輝さんが腕につけている星々ばかりが輝く腕時計をねだった時に「ダイアと毛皮は老人に似合うんだ。未だ早い」と言われてしまったし、そこらにいる犬共の代わりは大勢いると思い、きまぐれにこいつらの中から一人殺してよと提案してみたら半笑いで「風俗と暴力はおとなになってから」と言われて、窘められ、何だか恥ずかしい思いをしてしまった。暴力は大人になってから。


 でも、そこらにいた犬共のうち、調子のいい奴らは俺が一人きりの時になると、子供だと、分別がつかない馬鹿だと油断していたのか、勲章をひけらかしてくれた。曰く、軽犯罪重犯罪のお品書き、或いは性病や交際の遍歴。


 ダイアモンドの住み家の腕時計のように輝く彼らの勲章。すごいなあ、すごい馬鹿だなあと蔑みながらも憧れていた。悪徳はネオン街のように輝く。勲章もダイアも何もかも、今はもう手元にはなくて、代わりにあるのはスマホと100円で売られている文庫本。でもさ、スマホも文庫本もそれなりにわくわくしてしまうから悪くない、悪くないって思ってしまえているのは、俺が余生をそこそこ楽しめているのは、どういうことなのか、恥ずかしいことなのか普通のことなのかわからなくて、何度も考えて立ち止まって、無敵だった頃のことを想起してしまうけれど、いつも答えは出なくって、それなのに、何度も、何度でも俺は生前のことばかり、気を抜くと俺頭の中を散歩しているのは無数の無敵、犬、首なし。


 ふと、我に返り、アスファルトの上、俺の横を通り過ぎる柴犬と飼い主に気が付いた。くるり、と丸まった尻尾を軽く揺らしながら歩く、その背に触れたいと思うが、俺が触れるのはスマホ位で、でも、スマホの中には現実では生きられないあまたの怪物がいて、俺はそいつらの飼い主で、犬、という系統だけでもオルトロスだってケルベロスだっているんだ、頭が二個だったり三個だったり、かわいいグロテスクな犬畜生彼ら、大好きなんだ画面からは出てくれないけれど、命令して敵を殺すしか脳がないけれど。


 犬のことばかり考えていたら動物園に行きたくなって、都内だと俺の家、というか仮住まいから一番近いのは上野動物園で、あそこは入園料も高くないし今いる場所からの交通費もあまりかからない、けど、今は持ち合わせが厳しい。


 今の俺の収入源は小夜子がくれるおこづかいだけ。公輝さんは言えば大抵の物を買ってくれたから、おこづかいを貰う、というのが何だか滑稽というか「何でこの俺様が施しをうけなきゃなんねーの」と彼女からの最初の申し出に言ったんだ、そしたら小夜子「私も忙しいから、お金の管理して、食事とかは自分で用意してね。それも含めた生活費。後の残りをおこづかいにしてって意味」と説明されて、俺はその言葉の意味を理解していないというか、実感がないまま受け取る月二万円。


 小夜子は、多分俺と血が繋がっているらしくって、多分二十代半ば位で、艶やかな黒髪で目元はいつも黒々としていて、パンツスーツが好きらしくって、服装やメイクは小奇麗にしているのに家事全般が苦手なのかズボラなのか、家の中の彼女の領域はスマホゲームの中の死体置き場とかゴミ捨て場とかスラム街のように混沌としていて、多分、最初に会ったのは、ええと、いつだっけ、昔、本当にガキだった頃に、公輝さんの膝の上にいた時に会ったような気がするんだけれど、はっきりと覚えているのは、俺が無敵ではなくなった時に会った彼女、黒のタイトなスーツで、大ぶりのメンズライクな黒のバッグを持っていて、俺はその時忠犬の内の一人と、カフェでクリームソーダ飲んでいて、入り口で彼女が扉から現れた瞬間、目を奪われたというか、何かが起こるような妙な予感がしていて、というか、もしかしたら不機嫌そうにランウェイを歩くモデルのような彼女に見とれていたのかもしれないが、とにかく目が離せなくって、彼女、ウェイターを無視して一直線で俺の席まで来て、無言で犬に冷たい目配せ、俺にも。そこには微笑みの欠片さえなくって、俺さ、その日までは無敵だったから、女なんて特に、本気なのか嘘なのか、俺に笑いかけて甘い言葉をかけてくるんだ。山ほど。延々と、紅茶に砂糖入れ続けるような女どもはさ、女どもはさ、なのに彼女は愛想のない女優みたいな顔で言うんだ「哲人。もう行くからね。必要な物は用意するから、全部置いてきなさい。取りに帰る必要なんてないから」


 意味が分からないしむかつくし、とりあえす「お前いらないから帰れよ」って言って、柄の長い銀のスプーンで溶けかけたアイスをほじくっていると、犬が、俺の手をそっと握る。俺はその眼を見るんだ。犬の瞳、黒々としているような、うるんでいるような、妙な雰囲気で、数日前には俺へ「坊ちゃん、最悪です。淋病にかかってしまいました。淋しい人間がかかる病気なんですよ。私、悪い癖がありましてね。えーと、あの、意味わかります?」って言ってて、一人でにやにやしていて、なんとなく、下品な内容だって分かったから無視していたけど、あの時の彼とは全然違う顔つきで、でも、下卑た声色は同じで言う「これから坊ちゃんは、小夜子様の言うことを聞かなければいけません。私ともここでお別れです」


 俺はスプーンをグラスの中に置き去りにして、両手を膝の上に置くと、彼に向って軽く頷いた。それから小夜子を見て、彼女が、先程よりかは幾らか穏やかな声で「行くよ」って言ったから、俺はそれにも軽く頷いて、彼女と一緒にカフェを出て、同じタクシーに乗った。


 何であの時、色んなことを聞かなかったのか、彼らの言うことをすんなり受け入れたのかは、分からない。それに、もしかしたら記憶違いがあるかもしれない。ガキだったから。


 たまに、記憶が欠落しているような気がして、それは単に俺が忘れているだけなんだけれど、時々色んなことを思い出す。使わない、忘れたい、必要ない記憶はどんどん外へと追いやられて、完全に忘れてしまう、とかいう内容の説明をどこかで目にした記憶があるが、俺は小さい頃の記憶を取り出して、眺める。あの時、無敵だった時間があまりにも輝かしくって、夢みたいな気がしてるんだ。余生なんだ、だから俺、行くところがなくって、スーパーで安売りされていた鶏むね肉とにんにくの芽ともやしを買って帰るんだ。


 料理が好き、と言うのではないのだが、自分で作ると安くすむし、暇つぶしにもなるから俺は自炊をしていて、ネットで調べれば作り方が分かるし、たまに、小夜子も俺の作った料理を食べる。彼女の帰宅時間はまちまちで、俺が冷蔵庫に入れていた料理が無くなっているのに気づいて、顔を合わせた時にそれを告げると「おいしかった。プロだね」と言っていたから、俺は料理を作る時はいつも多めに作って保存するようになった。


 小夜子と公輝さんは、多分仲が良くないのだろうが、二人共とてもブランド品が好きらしいのは共通していて、衣服以外にも小夜子がたまにもらったとか買ってきたとかで甘い物を持ってくることがあって、綺麗に包装され、化粧されたそれを二人で黙々と切り崩す、瞬間は割りと好きで、思い出す。食事の記憶は幸福な記憶と多く結びついていて、公輝さんとの食事も、犬たちとの食事も、たまに思い出す。一人で食材を買っていたり調理していたり、残り物をタッパーに詰めている時、彼らに貢物、或いは餌をあげている自分を想像する。その中の彼らはいつも笑顔だ。


「前々からずっと思ってたんだけど、こんなにおいしいもの作れるならさ、コックになれるよ。哲人なら修行行けそう。男の子は好きでしょ? 武者修行みたいなの。海外行って、道場破り的なことしてみなよ」


 一、二年前になるだろうか、たまたま小夜子の帰りが早かった時、家で食事をすることになって、俺が白菜と豚バラの鍋料理、というか鍋に白菜と豚バラを押し込んだ物を作ったことがあった。食事の最中はほとんど喋らない小夜子だけれど、ぽつんとそう口にした時、不思議な気持ちになって、俺も思わず返してしまった。


「これさ、誰でも作れるんだけど。材料入れて調味料で味付けして火つけてるだけ。小夜子高い物ばかり食べてるんじゃないの? これ安物だよ。しかも俺みたいなガキがネットのお料理サイト見て作った安物。仕事ばっかして頭か舌ヤバイの?」
「だったらさ、安物をその高級品位に美味しくするセンスがあるんだって、考えたらいいじゃん。美味しいよ、ほんとに」
 彼女はそう平然と口にして、小夜子がお世辞を言わない人だと思っていた俺は、何だか恥ずかしくなる「口が巧いな。若いのに。出世する」
 彼女は整った顔の上に張り付けたような笑みを浮かべ「どうも」と答えた。


「あ、前に嘘つく時は自信満々にしなきゃって言われたの思い出した」と、小夜子の態度から連想して、俺が記憶の中で会った犬たちの言葉を掘り返そうとすると、彼女は不機嫌な声になる「そういうのやめな。そういうことを言う人間のことは忘れなよ。それより、コックになりな」
「何だよコックって。仕事なんて嫌だ」と口に出してしまった時点で、多分彼女の思うつぼで、しかし、今もそういう人たちの言葉、生前の記憶を取り出しては眺めているんだ、小夜子が「おいしいよ」って言った台詞、取り出しては眺めてるんだ。


 小春日和、というのか、それとも春になっているのかは分からなくって、調べる気もなくって、今日は二月の下旬だけど薄着で外出、星柄のシャツの上を陽光が撫でるのが気持ちよく、行く場所もなく歩いていると急に、学校へ行って自分が三年になっているのか確認しようと思いついたが、誰にそれを聞けばいいのかが分からず、しかも今はもしかしたら冬休み期間なのかもしれないと思うと、急に億劫になり、その代わり久しぶりに動物園に行こうと思いつくと、なんだかわくわくしてきて、犬、猫、も好きだが愛玩動物が巨大化した、かのような虎や狼や熊とかを思い浮かべ、それのイメージはゲームの中の神話の中の怪物と混じり、楽しい妄想の中で猛獣を思い、遊び、駅までの道を歩いていると、前を歩いていた、長身で金髪の男が何かを落としていた。彼はヘッドフォンをしていて、俺は前方に歩くと自然に落としたものを拾い上げ、それはかなり膨らんだ、ブランドのロゴが入った財布で、俺は少し早歩きになり、その財布で彼の肩を叩いた。


 振り返りながらヘッドフォンを外した金髪の彼、作り物のような美、というか、神話の、ゲームの中にいても見劣りしない彼の顔つきに一瞬ひるんでしまって、いやただ単に俺は空想の途中で舞い上がっているんだと思い直し、不思議そうな顔つきをした彼に「これ落としたみたいですよ」と財布を再度示すと、ワンテンポ遅れて笑みと爽やかな声で「ありがとう!」


 その声は、若く、よく見ると、その顔には幼さがあって、くすんだ金髪に青がかった灰色の瞳の彼は、どうやら外国人らしいから、大人びて見えたのだろう、俺は外国人と話した経験が少ないからびっくりしただけなんだ、と思い、彼が受け取ったのを確認すると静かにその場から去ろうとしたのだが、今度は彼が俺の肩を叩く。


「ほんとにありがとう。好きな曲聞いてたら夢中になってて。知らん顔してさ、盗めばよかったのに。ごめん嘘。俺さ、ちょっと時間あるからさ、駅前で何か御馳走するよ。いいだろ?」


 その仕草も態度も、慣れていて自信に満ち満ちているようで、流暢な日本語を話す金髪の彼は顔が良く、おそらく裕福なのだろうが、反射的にわくのが反抗心なんだだから「お前なんかより動物園で虎見たいんだよ帰れ」と答え、彼を置いて歩き出す、と、背中にかけられた声「虎と比べられたら叶わないかなー。君、面白いね」


「てめーが面白くても、俺は面白くねーんだよ」という言葉を飲み込んで、前だけ見て歩いて、しばらく歩いて本当に彼がいなくなったことを意識して、店員や小夜子以外の人と話したのっていつ位ぶりだろうと考えると、また、忘れがたい顔が鮮明に蘇り、しかしそれがなんだかむかむかして、外国人の顔を動物で上書き、虎、孔雀、白熊、パンダ。やがてそれが公輝さんに変わる。俺にとっての猛獣みたいな男。俺もさ、猛獣とか猛獣使いとかになりたいよ。また、生前のことばかり考えちゃう。でもしょうがないと思う。だってこれから猛獣に会いに行くんだから。


 中学生は二百円で入園。お金を支払う度、こんな安価で経営が成り立つのが不思議だと思う。公輝さんが連れて行ってくれた店は、一度に数十万だか数百万だか金が動いていた気がするが、それも俺が望んでいた、幻のような気もしてくる。


 平日の動物園は程よい人の入りで、家族連れが多く、檻の中で動かない動物よりも幼児の方がずっと活動的で、たまに、彼らに目をやってしまう。数年前の自分が彼らだったことが信じられないなんて、俺は馬鹿なのか、自惚れやなのか。


 園内の入り口付近には猛禽類のエリアになっていて、獲物を仕留めるための嘴や爪、規則正しく並んだ大きな羽が、優雅に飛翔するための翼が勇猛で美しく、鋭い眼差しで、時折、気まぐれに飛びあがる彼ら。檻の中にいる彼らには看板が設置されていて、毎回それを目にしてしまう。


 曰く「食物連鎖の頂点:ワシタカ類は自然界では食物連鎖の頂点位置する生き物です、しかし、広いなわばりと豊富な餌動物を必要とする彼らは、環境の悪化の影響をもっとも受けやすい動物でもあります。ワシタカ類がくらせる自然は、豊かな環境の証といえるのです」


 公輝さんのしていた仕事が合法でも非合法でも、あまり興味はないのだが、彼が頂点として暮らせている環境は、夢の国のように豊かだ、というような身勝手で強固な妄想を抱いている。はなればなれになってしまっていても、公輝さんは猛禽のままで、きっと誰かを食い物にしているのだと俺は信じる。


 猛禽類の次には虎が見られる箇所で、俺は大硝子の外から彼の様子を見る。それなりの広さがある住家の中、虎は同じ場所を何度も行ったり来たりしていて、それが常同行動と呼ばれるもので、ストレスによるものなのか、多分虎にしか分からないと思うのだが、自然だってストレスと殺意に溢れた環境なのだから、こんな居心地の良い場所に押し込まれている彼に同情心なんてわくことはないし、何より、俺は虎が大好きで、彼が大きな首を伸ばして水を飲む際に、両腕の筋肉が盛り上がるのがはっきりと見え、発達しすぎた牙と首と両腕で獲物を我が物にするのだ、と想像するのはとても幸福なことだ。ふと、自分が虎に喰われている姿を想起する。俺は無抵抗で殺され、絶命したまま引きずられ、解体されるだろう。解体されたいな、それか、拳銃で殺して、その毛皮や骨で自分の身体を飾りたいな。そんな、中学生らしい空想にふける。


 ふと、スマホを見て、気づけば40分近くぐるぐると虎の周囲を回りながら、その姿を観察していたことに気付き、少し疲れてきて、他の動物を見るのが適当になってきて、ベンチに腰掛ける。ぼんやりとした頭で、アイスクリームを舐める幼児を、それに親しい言葉をかける父親を、疲れ切った顔で空のベビーカーと共に固まった女性を、園内マップとにらめっこをする二人の外国人らを、瞳に映しながら夢想にふける。


 皆が王のように虎のように振舞えばいい。王が、けだものが多い街は刺激的だろう。街中全てが王宮であり動物園ならば。散歩を水浴びを捕食をする、豪奢で傲慢で傲岸な彼ら、うっとりする、皆殺しにされてしまう、皆殺しにしてやりたくなる、そんな妄想に俺の身体中が震え、眉間がむずがゆくなり、吐息が漏れる。


 でも、夢も長くは続かない。それが分かっていながらも、何度も繰り返してしまうんだ。ほどなくして電車で帰宅し、車内でスマホの中で猛獣と戯れる。


 帰宅し、部屋全体をぞうきんで水拭きしていると、中腰のまま上から言葉が投げつけられる「おめでとう」その声が小夜子のものだと分かるが、面倒なので無視して床を拭いていると、尻を二回叩かれ、流石に腹が立ち「何だよ」と立ち上がると、彼女は珍しく笑みを浮かべて言う。


「哲人進級してたって。三年の、新しい担任の先生とも話してきた」
「そう。そりゃどうも」と俺が掃除に戻ろうとすると、また上から声「ちょっと真面目に聞いて。立って、正面向いて私の話聞いて」
 ここまで言われるとそうしないわけにはいかない。ああ、あと少しでこの面拭き終わるのになあ。


「通知も預かったけど、哲人の新しいクラスは三年一組。本当言うと、出席日数は全然足りてないし、話し合いでは進級には疑問の声もあったそうだけど、今度の担任の君川靖先生が良くしてくれたらしい。とりあえずさ、中学は卒業しなよ。色々さぼっても卒業だけならできると思うし。その先のことは、また今度ね。分かった?」


 俺は黙って頷いていた。先のことなんて分からないし考えたくもないし、ただ、今は、床の汚れを綺麗にふき取りたいだけ、


 なのにさ、俺はもらった通知書に目を通し、始業式の次の日をわざわざ狙って、数か月ぶりに、登校をしていた。登校というか視察というか、気になっていないはずなのにさ、でも、久しぶりに入った校舎には当然のことだが知った顔なんてなくて、三の一、という札のある教室の扉を開いて見ると、丁度休み時間だったらしく、向こうにとってはこちらが闖入者なのだから一瞬会話が途切れ、しかし集まった視線は霧散し、ぎこちなく彼らの会話は再開し、先に職員室に行くべきだったか、と今更思い踵を返そうとする時、妙に明るい声がした「哲人!」ぎょっとした。


 俺は固まってしまって、近寄ってくるのは紺のブレザーの、つまりこの中学の制服姿なのに、目の前に迫ってくるのは、この空間に似つかわしくない、外国の俳優のような、


「お前!」と、財布を落とした男と目の前の男との記憶が重なると、彼は余裕たっぷりに「神島純一って言うんだ。よろしく、澁澤哲人君」
「何で俺の名前を?」
「だって俺の隣の席だもん」
「それもあるけど、他のクラスの奴かもしれないだろ。何で俺がその、澁澤哲人本人だと分かったんだ?」
「クラスの女の子が、とってもかっこよくて、ずっと休んでいる子が君だって教えてくれたから、ピンときたんだ。昔から勘がいいんだ、俺」


 自身たっぷりにそう口にする男は、非の打ちどころがない顔の造りをしていて、そんな男に容姿を褒められるなんて皮肉としか思えず苛ついたが、授業開始を告げるチャイムの音がして、生徒たちがぱらぱらと自席へと戻り、男は俺の手を引き「行こう」と案内してくれ、久しぶりに硬い、座り心地の悪い椅子に身体を任せた。


 横目で見る男は、やはりこの場には不釣り合いで、何かの撮影をしているかのようにも思えた。でも、彼には神島純一という名前があるらしく、さすがにそれは嘘ではないだろうから、等と考えていると、教室に入ってきた担任の教師、これと言った特徴がない、スーツ姿の中年男性は俺に気付くと、歩いて近寄る。俺はそいつから視線を外さない。睨むことも怯えることもせず、ただ、言葉を待つのだ。


「この三年一組の担任をしている君川靖。よろしく。色々と話は聞いているから。僕としてはなるべく登校してほしいけれど、必要以上にごちゃごちゃ言うつもりはないから安心して。教科書一式机の中にあるはずだから、それを使ってくれ、それじゃあ一年間よろしく。じゃあ授業を始めるよー。みんな、国語の教科書を開いて、12ページ。まずは前回の復習から」


 それは随分用意周到に感じられ、小夜子がやったことなのか、この男の仕業なのかは分からないが、この好待遇にも僅かな居心地の悪さを感じると言うのも俺の我儘な所で、しかし口で言って聞かないのだから野放しにするというのは案外悪くはない方針なのかもしれない。俺は忠犬なわけはないが、野良犬でも魔犬でもない、そこらにいる、やや良識的な犬畜生のクソガキなのだから。


 授業が終わっても、担任は俺に声をかけることはなく退室した。小夜子が言い含めてくれたのかもしれないが、自意識過剰なのかもしれない。一人のガキが出席しようがしまいが、どうでもいいことだろう。そんなことを考えていると、隣の男が声をかけてきた。


「次は体育だよ。俺は普通のジャージと二つ持ってるから、学校指定用のジャージを貸すよ」と俺に小さなバッグを渡してきた。
「なんで?」
「なんでって、いいだろ。意味とかないよ」


 彼が爽やかにそう言うと、こだわる自分が馬鹿らしく思えてきて、借りた紺色のジャージに着替えるのだが、隣の男が身にまとう、どこかのブランド物らしき、黒に白い縦線が入ったスポーティなジャージは、あの男によく似合っていた。
 二人で外へ向かっていると、視線をずっと浴びる。声をかけられることもあり、俺にまでそれが及ぶことがあって、内心苛立ちながらも、それを察したのか奴は俺への話題は切り上げ、校庭へと向かう。集まったジャージの面々が目に入ると、明らかに奴は浮いていた。地獄の餓鬼どものお遊戯会に、一人だけ鬼が紛れ込んだかのようだ。


 体育教師の指示で、先ずは二人一組で軽いストレッチをして、俺は奴とすることになるのだが、彼の立派な体躯と触れ合うと、そのがっしりとした身体と骨ばった指はスーツの犬達、いや、いつか触ったことがあったはずの大型犬を想起させた。骨の上に乗った肉を、奴は自在に動かして君臨しているのだ。ぎゅ、っと、奴が俺の手を握る。自分は平熱が高いと思っていたのだが、彼の手、背、肩、触れ合う部分がやけに熱いような気がしてきて思わず口に出す「お前、馬みだいだな」


「は?」と、奴は初めて不思議そうな顔を俺に向けた。
「それにさ、少しだけ体臭がする。獣の匂いではない。外国人の匂いって言えばいいのか?」
 そこまで言うと、奴は明らかに不快そうな顔をしていたが、俺は続ける。
「がっしりした体格。身体を任せられるかんじがする。それに、体温がとても高い。風邪をひいてる感じがないから、馬のこと思い出したんだ」
 男は一呼吸開けて、にやついて言う「乗馬が趣味なんて、君は貴族か何かなのかな?」


「没落貴族」という単語が頭に浮かぶが、それはあまりにも馬鹿馬鹿しい単語だし、第一相応しくない。でも、俺の中の馬の記憶を引き出したのは彼の身体で、公輝さんが馬主だったか馬主と友人だった頃、馬に乗せてもらったことがあった。記憶が多少曖昧だが、そこの金を持ってそうな男が言ってたんだ。


「まずは、びびっちゃダメ。どこの世界もなめられたら終わりだから。後は、馬のことをよく褒める。触って、声をかけて、嘘でも親愛を伝える。乗ったら一気に景色が変わるから、びびるなよ。鞍と手綱を持って、そう、鐙、足を引っかけるとこがあるだろ。馬をけらないようにして足をかけて、そうだ! うまい! そうしたら背筋をまっすぐにして、へそに力を入れて前だけ見る。下なんて見ちゃだめだ。俺が手綱を引いてあげるから、動くぞ、そうだ。馬が哲人の物になってる。姿勢もぶれないよ。意外と筋肉あるのか? すごい。少し練習したら手綱なしでもいけるかもしれない。そうだ、前を見て。前だよ。そう、そうだよ。すごいな。哲人は馬に好かれている。良かったな」


 そんな、思いつくまま、俺は奴に話していた。馬に乗った時の眼の高さが変わり肌の上を風が滑る感覚が蘇り、鳥肌と共にその時俺は、やっと、自分が公輝さんのことを、犬たちのことを誰かに話したいと思っていたことに気が付いたのだ。


 一気にしゃべってしまった興奮から覚め、俺は伺うように奴の眼を見る。灰色の瞳は変わらずに美しく「いいね。授業終りに俺の家に来なよ。もっと哲人の話が聞きたいな」


 瀟洒な建物が並ぶ住宅街の一角にその大きなマンションはあって、奴は鍵を差し込みオートロックのマンションのエントランスに入り、自室の扉も明けた。広い玄関にはやけに男物の靴、というか、明らかに若者向けの靴ばかりが並んでいた。


「ここにはお前しか住んでないのか?」
「そうだよ。両親は同じマンションの別の部屋」


 そう告げた奴の後を追って、廊下の向こう側の部屋に入ると、そこはとても広いワンルームになっていた。大きなサイズのベッドや本棚や机やモニターやオブジェらがセンス良く配置され、生活感が薄い部屋だった。調理道具や食器棚らしきものはないらしいが、彼は大型冷蔵庫から柘榴のジュースを取り出すと、俺に渡してくれた。無言で受け取り飲むそれは、意外と飲みやすく、いや、妙な甘酸っぱさが喉に残った。奴は同じものを一気に飲み干し、ルビーの水滴が残った唇で問う「哲人、何でお前はあんな肥溜めに行くんだ?」


 その質問はさすがに面食らった。「肥溜め。学校」と、彼の紅色の唇から漏れる。


通学することについて、俺はそこまで深い考えを持っておらず、自問自答する。小夜子の為、世間体、暇つぶし、自分を安心させたい、それらはどれもしっくりこないが、そういう曖昧な返答しかできないと答えた。


奴は俺をじろじろと眺め、それから薄っすらと笑みを浮かべ、


「でもさ、俺のこと馬みたいだって言ったのはびっくりした。俺とまともに会話できるのもそうだけどさ、馬かよ! この俺が乗り物扱いされるなんて!」
 そうは言っても彼の声は弾んでいたのだが、俺は訂正をする。
「褒めてるのに。馬ってすごく、しなやかで筋肉質で毛並みがいいし、賢いし、気高い。そうなんだ、って思ってる。実際のことはほとんど知らないというか、記憶は美化されてるから。実際に馬と触れ合ったことなんて数回だけだし、でも、どの瞬間も馬は美しかった。ギャロップも俺に顔を摺り寄せてくるのも」
「あのさ、哲人って、何者?」
「は?」
「答えたくないならいいよ。ただ、気になって。悪い。忘れて。でも、また聞いちゃうかな」と微笑む彼、は、舌の根も乾かぬうちに「哲人は詩人なの?」「は? 詩人? 違う」
「でもさ、そういう言葉使いするだろ。不必要な言葉ばかり集めて飾ってる」


 その指摘は、何だか俺の急所を突いているようで面映ゆく、わざとずれた回答をする。


「好きなんだ、動物。生きてなくても。ファンタジー世界の、スマホの幻獣だって好き。暇人だからゲームばかりしてる」
「え、マジ? ならウィズクラやってる? ウィザード・クラシック」
「やってるけど」
「よし、じゃあ後でフレンド申請しとくから! よろしく!」


 ちらと、視界に入ったのは床に転がる紙袋で、それはハイブランドの物なのに封も切られていないらしく、それでいて基本プレイ無料の、スマホゲームのフレンド申請という機能でこんなにテンションを上げる彼が、何だか不思議に思えてくる。俺はそれを拾い上げ「お金持ちなんだな」と告げると、彼はやや低い調子で「欲しいの?」と俺からそれを奪い取り、袋の封を破り、服が包まれていた薄紙を剥ぎ、真新しい服の仄かな芳香と共に中から可愛らしい、黒を基調とした小花柄のシャツを取り出し、俺の胸元に合わせてみて、数秒後、


「なんか似合うから、くやしいからあげるの止めた」と微笑んだ。
 俺は、何故だか少し気恥ずかしくなって、いや、奴のペースで話が進んでいるのを止めさせようと「学校にいる時とは、なんか違うな」と言った。
「当たり前だ。言っただろ。肥溜めで糞共と言葉を翻訳して喋るのと、哲人といるのとは違う」


 その言葉は、あまりにも傲慢で、了見が狭く、こっちまで恥ずかしさを覚えるほどだったが、しかし、彼は美しかった。造形以外にも俺が未だ知らない何かを秘めているような、そんな予感もしていた。


 でも、自分は彼が罵る誰かではないというのが、なんとなくぴんと来なかった。余生を生きる俺はもう無敵ではなくなったのだ。でも、未だ、幻覚だかスマホのゲームだかで、頼りない夢を見ることができるのだろうか。


 そんなことは分からないし、口に出せなかった。俺は代わりに「両親はどんな人なんだ」と聞いてみた。それを口にした自分に、少しだけ驚いた。今まで、自分のそれすら気にすることもなかったから。


「母は、つまらない美人の善人で欧米人。父は日本人で、馬鹿をうまく騙して金儲けをする天才。なんちゃら番付? 動画とかの広告でも見たくもないのに目に入るときがある。馬鹿を上手に、笑顔にしながらも搾取し続ける奴がエリートで、人間として優れてるってことなのかよ。本当に反吐が出る」
「でも、その人らのおかげで、その容姿と生活を手にしているんだから、まあ、いいんじゃないのか?」
「顔が良くて周りの評判も良くて文武両道。息子としての俺にこれ以上何を求めるんだ? 俺は奴らが求める子供像を提供している。労働に対する立派な対価だ。信じがたいことだけど、大抵の親は欠損だらけの我が子を愛するらしいじゃないか」


 そう言いながら彼は部屋の中央近くにある、黒いシーツの敷かれたキングサイズのベッドに腰かける。


 その姿はひどく子供っぽくて、欠点じゃなくて欠損と表現する辺りにも身に着いた傲慢さと底意地の悪さが伺えて、まあ、良いことかと思ったが、両親の記憶がない俺にとってはこんなにも両親に執着している姿に、不思議と哀れみのような感情がわき、しかしその影は見せずに、彼の方向へとゆっくり向かいながら言う。


「でも、その親の庇護の下でワンワン吠えているのは事実だろ。可愛い犬だな」
 すると彼は万引き犯のように素早く、口づけをするような距離に近づき言う「そうだろ。可愛がってくれよ」
 長い睫毛で飾られたくすんだダイアのような瞳にたじろいだ、ことに気付くと同時に、奴の方が上手だとも気づくのが腹立たしい。奴は微笑み、
「犬、好きだよ。昔飼ってた」
 少しだけ遅れて「俺も」と言ってみた。飼っていた犬共は皆、毛皮ではなくスーツを着ていたけれど。
「哲人は? 両親はどんな人?」
「知らない」
「は?」
「嘘じゃない。全く知らない。だから、多分血が繋がっている、おじいちゃんだと思うんだけど、そのおじいちゃんの公輝さんと暮らしてた。昔無敵だったんだよ、俺」


 そう言うと、何故か彼は穏やかな表情をして、俺もそれを映すようにして、笑みをみせてしまう。気恥ずかしかった、でも、悪くはなかった。


 俺らはウィザード・クラシックというゲームのフレンドになった。


「肥溜めなんて行かなくていいから、いつでも俺んちに来なよ。俺んちに来なくても、いつでもウィズクラやろーぜ。それか、学校に行くときは一緒に行こう。出席日数あるしさ、哲人いないとつまんないし。あ、そんでさ、明後恵比寿でレセプションがあるんだ、成金達用の展示。絶対に哲人も来いよ。俺一人で行きたくないんだ。あー助かったー」
「何勝手に話を進めてるんだ。肥溜めに行くのが嫌なら、そんなとこ行くのも断れよ」


 そう俺が面倒に感じて投げやりに言うと、何故か彼は笑みを浮かべ、


「虎が来るよ。哲人もきっと気に入る」
「虎って?」と思わず声が弾んでしまう。にやついた笑みの彼は「行けば分かるよ」とそれをかわし、それ以上聞いても無駄だと感じたから、俺の中で無数の虎の幻影のようなものが散歩を始め、彼ら、影だけでも優雅で、いや、影だからこそ優雅なのか、どちらにせよ俺はうっとりする、と、


「哲人さ、すぐにどっかの世界に行くよな」と奴の言葉が冷水のように俺の顔に浴びせかけられる。
「何が言いたいんだ」
「ちょっとだけ羨ましいなって思ったんだ。馬鹿にしてないよ」


 その言葉に嘘はないように感じられたが、彼は、顔と表情と声が良いから、こういうのが巧いんだなって思うと、その手口が公輝さんや忠犬たちを想起させてしまって、駄目だ、俺、急に、これ以上純一とはいられないって感じて、帰ると告げるとあっさり開放してくれて、一人になりたくなって、彼のマンションから出て、見知らぬ街をふらついて行くと徐々に自分が余生を生きている、しかし生き生きとしている亡霊のような気がして、その発想に一人で面白いと感じてしまって、こんなこと言ったら純一はまた笑うだろうか? あいつ、笑うのと微笑むので、何でも解決しそうだ。胸糞悪くて、中々上等だ。


 スマホを見るとフレンド追加という通知が来ていて、それより俺は地図機能の方が重要で、急に、少しいい肉を食いたくなったんだ、ここいらの近所にあるスーパーかデパートで値引きシールが貼られた値の張る肉が食べたくなって、肉の記憶、高い肉の記憶だ、血の滴るレアステーキ、口の中で解ける肉片、元々はさぞ愛されて育てられたんだなあと思いながら俺は彼らを喰らっていて、久しく食べていない高い肉、舌で歯で咥内で味わう肉の感覚、知覚が鋭敏になる高い肉、愛され、解体された肉、解体されたはずなのに再生し肉体を持ったのは、純一。


 そこで妄想は止まって、俺は気持ちを落ち着かせる。俺の記憶、縫合屍人。みっともないやめられない、でもさ、まるで純一の中にも獣や動物が住んでいるみたいだった。初めての友達、初めてのけだものだ。


 その発想で俺は笑みを漏らした。


「星が好きなの?」と、純一が俺に聞いた。答えを待たずに「似合ってるよ。今度ジバンシイのシャツあげるよ」


 そう口にしても彼がそれをくれないのはなんとなく察していて、彼はピンストライプのスーツ姿で、20代前半の海外モデルのように見えて、恵比寿の大きな扉の前に立つ、背の高いスーツの守衛に挨拶をして、守衛は真白な手袋で戸を開くと、にこやかに俺達を迎え、星柄のシャツを着た、ガキっぽい俺も大人のふりをした奴について行く。


 少し、声が漏れそうになってしまった。シャンデリアの光の下、綺麗に並んだテーブルセットも談笑する人々も、俺の生前の、無敵だった時の記憶と重なって、でも、何故だか戸惑ってしまって、そして、身体の芯が冷えていくのを感じる。それとは対照的に、満足げに奴は俺の顔を覗き込み、しかし、俺の意図の一部を読み取ったかのように言う。


「動物がいないと駄目? 人間じゃ満足できないのか?」


 俺は答えられなかった。会場にいる豪奢な服を着た有名人らしき人々、そういった虚栄を、輝きを、俺は愛していたはずだった。


 まるで、眼球に薄い膜がかかっているような感覚だった。動物園で実際に生きた動物を見るのと、映像で動物を見るのでは差がある。さらに言うならば、俺の記憶の底にいる首のない犬、あれをホラー映画か何かの中で見つけたとしても、俺はそこまであの犬を美しいと思わなかったはずで、つまり、やはり、俺はもう余生を生きていて、この場の輝かしい馬鹿馬鹿しさを愛さなくなったのだろうか。


 その考えに思い当たると背に冷たい物が走り、競歩で豪華なイルミネーションのような人波をすり抜け、出来の良いマネキンのような給仕から飲みたくもないシャンパンを受け取ると、小さなグラスを一気に嚥下し、甘い芳香が鼻に抜け、喉が熱を持ち、とたんに気分が悪く、いや、その気分の悪さが何故だか心地良く、こんな少量のアルコールで酔ったらしい自分に自嘲の笑みが漏れ、そういえば公輝さんはなぜかアルコールは飲ませてくれなくって、隠れて犬にねだって困らせたことがあったなあ「ねえ、もしかして、哲人くん?」


 急に声をかけられ、俺はそのシンプルなモノトーンのAラインのドレスを着た人間のことは全く記憶がないはずなのに、いや、違う、俺の頭の中で何かが繋がっていって、それは、


「魚、金魚のドレス。乳白色の縮緬の上を朱鷺色の金魚が泳いでいる和装をしてた。そうだよな。朱鷺色の金魚、ふるふると三匹泳いでいて、結い上げた黒髪に鼈甲の笄挿していて、まるで金魚が蜜を求めて泳いでいるみたいで、素敵だなって思ったんだ」


 俺の眼の前の女性は両手で自分の口元を押さえ、細い指の先、白のフレンチネイルが照明を浴び輝くのが綺麗だ。


「やっぱり……哲人くん……ねえ、どうしたの? 急だったから、あの……でも……」


 彼女が何を言いたいのか、何を求めているのか、俺には分からなかった。彼女は恐らく二十歳前後で、出来が良いか化粧が巧い人形のようで、しかし、俺は彼女の衣装以外の記憶が抜け落ちているというか、単純に関心がなくて、彼女について何も言うことが思い浮かばず、その上俺は、彼女が求めていることについて欠片ですら提供したくないのだ、そうらしいのだ、何も分からねえよお前のことなんてお前が言いたいことなんて、なんてポーズをとりながら、俺は戸惑い固まっていた。


でも、それを彼女は感知したのか、無言で会釈をすると、俺から遠ざかって、輝きの中へと没する、没するんだ、紛れて、見えなくなるそれを俺は何故だか他人事のように綺麗だなと感じながら下卑たネオン街のように輝く会場でぼんやり。


「ナンパされてただろ。今日はまだ俺もされてないのに、やるな」といつのまにか俺の肩に手を回す奴はにやけ顔、なのにすぐに真顔になって「つまんねーな。帰るか」と俺の手を引いて、俺は、木偶人形のようになすが儘になっていて、会場を後にして、奴が捕まえたタクシーで帰宅して、シャワーも浴びずにベッドに身体を任せて眠る。


 目覚めは悪くなかった。シャワーを浴びて、タッパーに入れていた豚汁を温めなおして、それに半熟卵を落として朝食を済ませると、ふらふらと定刻通りに登校をしてしまって、席に着くと、きっと、昨日の会場の誰よりも輝いていたはずの笑顔と出会う。


 たまに、俺はそれを盗み見ていた。奴はそれにどうやら気づいているらしかったが、何も言わない。もしかしたら学校だから猫をかぶっているのかもしれないが。


 きちんと、学生としての務めを果たし、奴と帰路へと、なんて普通の行為に違和感を覚えるのは何故だろう。それにきちんとした名前を付けられないまま、駅前で奴の言うとおり寄り道、家電量販店に入る、と、彼が珍しく少年らしい歓声を上げた。


「ウィズクラの卵あるじゃん! うっそ! どこも今売り切れてるし! ほら、哲人! やばい! 買おうよ!」


 それは、俺達がプレイしている、スマホゲームのウィザード・クラシックというゲーム内で使えるアイテムのシリアルコードと、小さなフィギュアがランダムで入っている黒い卵型の商品で、今とても人気で品薄らしいことは知っていたが、中身が分からないのに一個五百円もするから購入する気はなかった。キャベツや大根が何個か買えるぞ。


 しかし、奴は躊躇いもなく「とりあえず十個開けるか」と、棚にある物をそのままレジに運び購入すると、店の外で早速開ける、けれど、お目当ての一番出にくいシークレット・レアはおろか、彼のお眼鏡に適うものは出なかったらしく「むかつくからまた追加する」と今度も十個購入するのだが、やはり結果は似たような物らしく、彼本来の苛ついたワルガキの面構えが見え、それはなんだか愛らしい、親しみが持てるもので、浮足立ったか、俺も一つ運試し、と黒い卵を購入して開けてみると、中から出てきたのは、金メッキのドラゴンのキーホルダーで、純一が可愛らしい、ほっそりとした声を漏らした「でちゃったじゃん、シークレット・レア。まじか。これ、今コードだけネットオークションかフリマアプリで売っても、多分五万位で売れる。マジ、やべーな。どうする? 売っちゃう?」


「いいよ、そんな泡銭みたいなの。それに未成年が取引すると面倒だろうし」


 俺はそう言うと、その場でスマホのゲームを起動して、シリアルコードを入力する。五万円という値段を聞いた時は、頭の中を様々な物が駆け巡ったのだが、奴の前でそういう貧乏ったらしい姿を見せたくなかった。


 下を向きながらスマホをいじっていると、奴が履いているスニーカーが目に入って、その値段は多分五万~十万程度するはずで、しかも新品に近い美品で、非の打ち所がない体格の彼にはとても良く似合ったというか、彼の為のオートクチュールの品の様だった。


 対して俺が履いている黒いスニーカーは六千円位でソールのゴムの部分が劣化して薄汚れていて、黒い布地は日に焼けよく見ると変色していて小さな穴まであいているけれど、それなりに気に入っているし、俺に馴染んでいた。


 それにさ、このシリアルコードを入力することによって、ゲーム内で手に入る黄金のドラゴンの能力は「一定時間全ての攻撃を無効化する(一度の出撃において回数制限あり)」という能力なんだってよ、今後ゲームに修正が入らない限りは、その時だけは、俺は無敵なんだ、悪くないじゃないか。


 コードを入力し終わると、これで五万円がゴミクズになったという貧乏くさい晴れがましさと共に、俺のスマホ内に黄龍が出現し、咆哮を上げ、スマホが震えた。


「よっしゃ、俺らフレンドで黄龍の能力共有できるし、これで高難易度クエスト行ってみようぜ」


 軽く肩を叩かれ、俺らは店の外に出ると「ゲームの世界」に「突然出現したバベルの塔」へと足を踏み入れた。低い階層の雑魚なんて、一つ頭、二つ頭、三つ頭の犬共で簡単に喰い散らかすことができるけれど、上層へと行くとこんなものを建造した人間の傲慢さに怒った神の現身が出現し、巨大な槍を振り下ろして来たのを、黄龍の力で無効化し、その隙に純一が自慢の軍勢、首なしの勇士、デュラハンや何枚も羽がある天使たちの力で猛攻を加え、神は憎々し気な捨て台詞を吐き、その場から消え、なんと、この場は神を退けてしまっていたのだ。


「神様殺しちゃった」と、思わず俺がこぼすと、奴が冷静な口調で「上に逃げただけだろ。今のはただの神影。どうせ神様なんかには合えないよ。上に行くほど新しい敵は強くなるだろうし、油断するなよ」と返し、俺もその通りだと思いながらも妙なざわめきを抑えられないまま、どこがてっぺんなのか見当もつかないバベルの塔の階段を登っていく、と、その先の即死トラップに純一がひっかかり、俺もその巻き添えになって、あっという間に塔から放り出されてしまった。


 純一は俺を見て苦笑いをした。俺も、つられて、同じ表情をしてしまった。


「あーあ、また行こうぜ。哲人がいたらしばらくは無敵だから、何度でも挑戦してやる。な。しようぜ」


 純一のその言葉に、俺は素直に「ああ」と返していた。きっと、一生神様には合えそうもないのが嬉しい。


「あとさ、これちょうだい。俺鞄につける」と、俺が許可するのを待たず、自分の学校指定の鞄に、奴はデフォルメされたかわいい金メッキのドラゴンのキーホルダーをつけていた。


「代わりにさ、カフェおごるから。俺キャラメルラテとカヌレ。超甘いの食べたい。哲人も好きなの頼めよ。お礼に何でも御馳走するよ」


 俺は、一呼吸遅れて「ああ」と返事をした。変に浮足立った気分だった。それは、帰宅してベッドの上に寝転んでいる時までも残っていて、スマホの中の黄龍を眺め、スマホを軽く放り投げ、しかし、甘い余韻は続いていて、枕に顔を押し付け、瞳を閉じた。


 余生ではないのかもしれない。余生だなんて、嘯いていた我が身が面映ゆく、しかし、でも、やはりこれは余生の中の一瞬の輝きというか、酩酊というかそういう性質のもので、でも、頬に甘く擦り付ける絹のシーツ、肌の上を清潔なシーツがなぞるその感覚は、悪くなかった。悪くないんだ。


 無敵の時間。数秒間の時間。家にいる時も家の外でも俺は純一と共にいて、彼の家にいる時に純一の母親に出会うことすらあった。驚くほど肌が白く睫毛が長く鼻が高い美人で、手に持った袋をテーブルの上に置き「男の友達を呼ぶなんて」と彼女は口にして、部屋を出て行った。


俺は「どういう意味だ」と聞いたが、純一は無言で乱雑に袋を開き、
「好きなの取れよ。ここのはどれもうまい」と口にするから、それ以上は聞かず、シガールを葉巻のようにくわえ、少しずつ齧る。


 そういえば公輝さんは煙草が好きで、老人の匂いと香水の匂いと葉巻の香りが入り混じると、魅惑的な悪臭が生まれていて、好きだった。


「そういえば、純一は煙草を吸わないな」
「だって時代遅れっしょ。煙草なんて害しかないし」
「だったら他のドラッグはしてるのか?」
 純一は盗人のように俺に近づき薄桃色の唇で言う「欲しいの?」
 俺は、くわえていたシガールを手で持ち、間近に迫る藍鼠の瞳、作り物のような美しい瞳に答える


「欲しくない。金もない」と俺は返し、口の中にシガールを押し込み、乱雑にかみ砕く。
「欲しくなったら言ってよ。哲人にならあげるよ」

軽い調子で純一はそう言った。俺は誰かとキメてるのかと、経験もないのに尋ねた。


すると、純一はにやけ顔をして「なんかさ、最近の哲人は猫みたいで可愛いな」


 俺はその顔も言葉も声も腹立たしく立ち上がり「死ね」と蹴った脚は、奴の素早い身のこなしで空を切り、俺はそのままキングサイズのベッドへと逃げる純一を押し倒し、馬乗りになり、しかし俺は純一を殴りたいわけではなかったので、頭を撫でながら言う。


「クソガキ。今に痛い目をみるから、楽しみにしてる」


 純一はされるがままになりながら、灰色の瞳で俺を覗き込み、白い歯と微笑を浮かべ、


「付き合ってる女より、哲人の方がかわいい時がある。どうしよ」


 何を言ったらいいのか、全く分からなかった。たただ、おそらく、俺が一番驚いているのは、何もかもを見下して俺と遊び惚けているこの男に付き合っている女性がいることだった。いや、金があって顔がいい。付き合っている女性がいない方がおかしい。


 俺はのしかかるように、体重を純一へのせてみる。「うげっ」と小さな悲鳴。俺の耳元、純一の鼓動、少しだけ、外国人の匂い。他人の体温他人の体臭、なのに、嫌じゃない、けれど純一は急に立ち上がり長い足で瞬間移動するように冷蔵庫を開けると大声で「コーラが無い! 買いに行こうぜ」


 そう言うとくるりと回転してベッドの上の俺までやってきて、また、純一の熱、純一の匂い。


「進路希望出してないっしょ。俺と同じ私立高校って担任に言っておいたけどさ。てか、はれ物に触るみたいな対応だな。教師が異常なのか? それとも今の時代クレームとか恐れてんの? 友達に進路先聞くとかさ。哲人、聞かれてないんだろ?」


 少し汗ばむ日差しの下、俺はコーラ片手ににやついて話す純一の横で、無言でコーラを飲む。進路希望とか三者面談とか、そういう紙はまとめて捨ててしまった気がする。俺は中学を出たら、どこかで働いて、そこそこ生き延びるか、嫌になったら余生終了なのだと考えていた。


 ふと、俺が純一と私立の高校へ行くことを思い浮かべた。奴は今以上にうまくやるだろう。集団の中でうまくやらない奴を想像する方が難しい。だが、俺にとっては金の方が大きな問題だ。どうやら小夜子は高給取りらしいのだが、これ以上迷惑をかけるわけには……


「あれ? 哲人?」


 目の前にいたのは、小夜子。スーツ姿に大きなバッグを手にして、少し驚いたような表情をしている。今いるのは駅の近くの商店街で、彼女がいてもおかしくないが、学校が終わっていないのに、商店街に俺達がいるのはおかしい、かもしれない。


 しかし、純一は慣れた動作で微笑を浮かべ会釈。


「哲人君と同じクラスで親友の神島純一と言います。哲人はとても楽しい奴だから、いつも一緒に遊んでます」


 小夜子は固い表所のまま「私、喫茶店で資料仕上げようとしてたの」と口にして、それから柔和な表情を作り「哲人と仲良くしてくれてありがとう。これからもよろしく」と言って、颯爽と歩き出した。


「美人だな、哲人の姉さん。仕事できそうだ」
「多分姉じゃないよ。でも、多分血は繋がってるっぽいけど」
 純一は笑いながら「ほんと、面白いよな。あ、そうだ。言うの忘れてた。明日ジュークランド行くから十時に駅で待ち合わせな」
「何だよジュークランドって、遊園地だっけ? そんなとこ行かねーよ。ガキじゃねーんだし」と口に出しながら、俺の中は遊園地の空想が広がりまくって困る。本当に困る。


「それがさ、今スゲーの。最新VR体験とかジェットコースター改良してさ、ひねるんだってコース。やばい怖いらしい。いいじゃん。行ってつまんねーなら帰ればいいんだし。チケットは俺持ってるからさ。な、いいだろ?」
「別に、いいけど」
「ああ。でさ、オクでサンローランのシャツ落そうとしてるんだけど」とすぐに話は変わり、しかし話題は頭に残らず、初めての遊園地というのに、正直言うととてもわくわくしてしまっていて、あんなものクソガキを騙すためのまがい物だガキ用のキャバクラなんだとどこかで見下していたのだが、いざ自分が行くとなるとふわふわした気持ちファンシーファンキー糞袋共が延々とメリーゴーランドで回転する姿が頭に浮かび、その虚妄は一日中俺の中を回り続けるんだタナトス、ヴァッカス、ディオニュソス、達の饗宴、クソガキの為の合法悪の祭典。


 俺としては珍しく、少し遅れてしまって向かった駅前、純一の隣には見知らぬ少女、いや、「彼女」の姿があった。彼女は俺を見ても表情は変わらない、というか純一の友人と認識すらしていないのかもしれない。


 だが、俺の気持ちはとたんに冷え込み「彼女連れなら先に言えよ。邪魔すんのもわりーし帰る」


 と背を向けた俺に、少女の声がして振り返る。


「哲人さんですよね。純一からよく話聞いてます。私、リラって言います。なんか、気悪くしてたらごめんなさい。もしよかったらでいいんですけど、三人で楽しみましょ」


 彼女の発言は、素直で良識的で、それを踏みにじるのもかっこわるいと思った俺は、純一を少し恨みながらも、三人で電車に乗る。それなりに会話は弾むものの、俺はやはり居心地が悪く、少し遊んだら帰ろうと一人決め、それなりに長い時間の移動を経て到着したジュークランドには平日なのに割と混んでいてうんざりするが、割と混んでいて収益がある施設なら設備の質が高く期待できるんじゃないかとも思えてきて、入場ゲートの列に並びながら、ちょっとだけわくわく。


 入場すると、幼稚園児の悪夢を糖衣でコーティングしたような光景が広がり、歪んだピンク色のゾウから、中に人間が入っている二足歩行犬畜生がこちらに寄ってきて、俺達に握手をしてきた。女の子だけじゃなくて俺にまで愛想を振りまかなきゃならないなんて、大変だな。こいつの時給は何円なんだ?


 さっきからずっとスマホをいじっている純一が、


「エンダーコースターのパス、三人分取れたから、まずはそれいこーぜ!」
 何だかよく分からないが、俺も少女も純一について行く。周りには三流SF映画の背景のような素材のオブジェクトが幾つか並んでいる。というか、本当に何かの映画の場面を真似て作られているのだろうか。


 映画は苦手で、最後まで見られたのは数本程。純一に流行りの映画の話題を振られた時、何も答えられなかった。じっとしているのが苦手なのだ。二時間もじっとしているなんて、狂気の沙汰だ!


 横に並んだ列を無視して、純一がスマホを宇宙服らしきものを着た係員に見せると、俺達はエレベーターへと案内され、短い列に並び、ジェットコースターなるものに初乗車するのかと一人はやる気持ちを抑えていると、


「なあ、俺ら三人だから誰と乗る?」
「は?」
「だから、俺と哲人とリラじゃん。俺ら奇数だけど、二人ずつ並んで乗るから、どうしようかって」
「何でそんなこと聞くんだ? どうでもいいだろ?」
 普段はそんなことを言わない純一がわざわざ聞いてるのが不思議で、俺がぶっきらぼうに返すと「じゃあ、リラ、乗ろうぜ」と純一が言って、彼女も「うん」と明るい声で応えた。


 数分待って、俺達の番になる。係員の説明は頭から抜け、とにかくレバーを下げて宇宙の旅へ行ってらっしゃい、ってことらしく、手を振る宇宙服の男に見送られ、車はレールの上をすべる。


 細長い乗り物に乗って、レールの上をのろのろ歩いている我が身を思うと、急に情けなく、一気に夢から覚めたかのように思えてきてレバーを上げようとするが、全く動くことはなく、安全に配慮されているんだなあと余計なことを考えているうちに、徐々にレールは大きな傾斜へと向かい、一気に速度を増し、一度も体験したことがないのに知っているつもりの「誰かのジェットコースターに乗った時の悲鳴」を生で体感していることに少しだけ感動しつつ、俺自身も猛烈な風か速度か重力か、身体が宙に浮いたまま目まぐるしく景色が変わっていき、初めての体験は予想以上に刺激的で心地良く、ふと、俺に密やかな、下品な打ち明け話をする犬たちが頭に浮かんだ。犬達のヤニ色の歯、下卑た暴力、しかし、彼らの晴れやかな得意げな、俺への親愛、らしき口調。飼い主の愛玩するクソガキへ、犬達のいたずらごころ。


 すると、急に俺の心は冷え、自分がなんでこんなところでみょうちきりんな機械に乗って揺られてるのか、さっぱりわからなくなってしまった。


 幸いにも機械はほどなくして運動を止め、俺達は糞小旅行から解放された。バーを上げ、立ち上がり少し歩くと、よろける。それを純一が茶化すが、俺が「なんか寒い」と口にすると、純一は顔を曇らせ、


「あー哲人苦手だったか。ちょっと休むといい」
「つーか、俺もう飽きたから二人で楽しんでて」と言い残し、「なんか寒い」のは本当だが、体調不良とまではいかない俺はさっさと歩きだすと、純一は大声で、


「ここのエリアに大きな時計あるから。そこの周りベンチになってるからそこいて」
「分かった」と俺は告げ、逃げ出すように逃げ出すのを悟られないように、速足でその場を後にする。


 純一が言っていた大きな時計とベンチはすぐに見つかって、その辺りもそこそこ賑わっていて、そこらにいる皆が、楽しそうに見えて、銀色の大きなベンチに腰を下ろしながら、何で自分がこんな状態なのかを探ろうとするのだが、分からない。本当に、初めてのジェットコースターで気分が悪くなったのかとも考えたが、俺はそれをすぐに打ち払う。


 余生なのに、楽しんじゃっているからだろうか? もしかしたらそうかもしれないが、まだしっくりこないというか、それを言うなら、俺は小夜子の庇護を受け、純一と出会って、自分が余生なんかじゃないクソガキの人生を歩んでいることを自覚しつつあって、でも、やっぱり消えないんだ消せないんだ老人の匂いダイア首のない犬首がある犬の群れ、俺の中で現れては消え好き勝手に遊んでるんだ、でも彼ら、純一と会ってから会う機会が減っているんだ。


 はっと、気づいた時に、俺の顔を覗き込む顔の作りの良い少女、リラ。片手にはスポーツドリンクを持っている。彼女は遠慮がちに、探るように告げる。


「これ。よかったら。気分転換になると思うし」
 俺は無言でそれを受け取り、一口、甘く冷たい液体が身体を泳ぐのが心地良く「ありがとう」と口からこぼれて、彼女は安心したように笑った。その時、初めて俺は彼女が茶髪で、小麦色の肌をしていて、八重歯で、多分東南アジア系のハーフで、ティファニーのリングをはめていて、(多分)マークジェイコブスの白地に青とピンクの花が咲いたワンピースにプラダの小さくて可愛らしい黒いリュックをしょっていることに気が付いた。


その時、何故か俺は居心地の悪さを感じてしまった。


「あのさ、やっぱつまんないから俺帰る。純一に言っといて。それじゃあ」と俺は口にして、彼女を見ないようにしてその場から去る。ここにいてはいけないのだと思うし、ここのことも考えてはいけないのだと思う。


 スマートフォンの中に住むありえないけだもの、幻獣、若者は誰も読まない黄ばんだ文庫本の中で生きている神々や大袈裟な台詞、意味の分からない物語。そういう物が必要なんだ大切なんだ、公輝さんを犬達をこの世に留めておくために。


 帰りの電車の中で、純一からメールが届いていた。


「今日勝手に帰ったから、明日食事会強制出席。十八時に俺んち来て」


 食事会という言葉で何だか面倒なことが起きそうな予感がしたが、俺は今日逃げ出してしまったのだから、明日は素直に従おうと思った。あ、だったら冷蔵庫のもやしと豚バラ賞味期限近いから今日中に片づけとかなきゃ。


 扉を開けた先にいた奴は、正装に近い格好をしていた。仕立ての良い(であろう)細身のシャツと黒のスーツは良く似合っていて、夏が近いからと襟元がだらけたダサイTシャツに小汚いジーンズ姿の俺とは雲泥の差だった。
 乞食の息子の前に、何故か見目麗しい御曹司は傅くと、


「お坊ちゃま。わたくしめが服を合わせさせていただきます。そちらのお椅子にお召し物をお掛けになって下さい」
「普段使わないから、尊敬語の使い方おかしくない?」と俺が告げたが、御曹司は微笑むだけ。こいつはまた何を言い出しているんだと思いつつ、俺は考えなしに素直に、服を乱雑に脱いで、黒のボクサーパンツ一枚の姿になる。パンツだけの間抜けな俺を、御曹司は澄んだ瞳で見つめる。俺は面映ゆく、顔を背けたが、頭部に長い指が優しく触れ「肌着を着ていただきたいので、両手を上げてもらえませんか」


 俺らは何をやっているのか、という疑問を抱きつつも、俺は奴の言葉に従い、肌の上に順番に服が重ねられていき、長い指が導く衣擦れの音、肌の上に衣服がすべる感覚は心地良く、俺はぼんやりとしてしまい、完成すると奴は俺を大きな姿見の前に立たせた。


「やっぱ、すっげ。似合い過ぎ。一年前に仕立てた一式だけど、震える、鳥肌立った。俺ら、もしかして兄弟だったりして」


 そう言って俺の顔を覗き込む灰青の美しい瞳。彫刻のような出来の純一と俺とでは不釣り合いだが、奴の声に皮肉は感じなかった。もしも俺が無敵だった時に出会っていたなら、なんて返しただろう。でも、今はそんなことはありえないと分かる。


「つーかさ、こんな正装しなきゃいけないって、どんな面倒な所に行くんだよ」
「え? ホテルで中華食べるだけだよ。そこだって、よっぽどヤバイかっこしてなければ入れるんじゃん?」
「は? だったら何でこんなアホみたいなことしたんだよ」
「正装した哲人のこと見たかったから」
 素直な言葉でそう言われると、俺は気恥ずかしくてたまらなくなって「こんな上等着たって、来年から俺は日雇い労働だ」と言って、鏡に背を向ける。純一の笑い声がする。
「ははは! いいな! 俺もしようかな。ガテン系」
「ぜってー無理だ。純一百パー現場のヤンキーと喧嘩する」
「そっかな? 俺、案外うまくやりそうだけど」


 そうだ、多分、純一ならうまくやりそうな気がした。それに比べて俺は、余生と言いながら、生き延びて、中卒のくせに糞生意気で、どんな仕事でも務まる気がしなかった。


 そんな俺の淀んだ心を、純一が強く叩く。


「外にタクシー用意してんだ。たまにはいいだろ。いこーぜー。へへ。最初は超嫌だったのに、なんか楽しくなってきちゃった」と笑みを咲かせ、それを見てしまったら俺も、心が解れてしまうのだ。


 ホテルで食事なんて何年ぶりだろう。あの頃はそれが日常のような光景だったはずで、ドアマンやポーターらしき制服の男らに招かれ、踏み心地の良い絨毯の上を歩き、見上げれば高い天井に輝くシャンデリア。まがい物のテーマパークよりも、ずっと品が良い。純一は大きなソファが並ぶロビーへと進むと、一人の女性が立ち上がった。


 まとめた金髪に、デコルテ部分がシースルーになっている黒いエレガントな丈の短いドレスを着た女性。彼女は俺を見て「あら、まあ、お久しぶりです」と、何だか間が抜けた返事をした。この女性は、確か純一の母親のはずだ。ということは、近くに座っている、短髪で灰色のスーツ姿の男性が、純一の父親ということだろう。


 彼を見た時、一瞬公輝さんを重ねてみてしまった。いや、全然違う。彼は不機嫌な獅子のような顔つきで、体格が良く、大きな口からは想像できない甘い声で「行くぞ」と言って、一人歩き出し、当然のように純一とその妻はそれに続くのだ。


 俺は妙な緊張感を覚えていた。威圧感のある男には今まで沢山会ってきたけれど、それは公輝さんの庇護の下だったのだ。俺は自分の臆病さに気付いて恥ずかしくなる。けれど、乗り込んだ象牙色のエレベーターは昇り、臙脂の幾何学模様がほどこされた壁の前を通り、店の中へと案内されると、奥の部屋へと通される。


 丸いテーブルに俺達は通され、目の前には獅子。俺には興味が無いようで、給仕になにやら話しかけ、お品書きらしき大きな冊子を渡す。男が去って、数秒後に、


「久しぶりだな」と男が告げた。
「ええ。中華は何ヵ月ぶりかしら。楽しみだわ」とその妻が返す。いつもお喋りの純一が何も喋らない。ぽつぽつとした、夫婦の他愛無いおしゃべり。俺は自分が何でここにいるのか分からなくなってくる。隣にいる純一に小声で「何で俺を呼んだんだ」と尋ねると、奴は黙って猫の笑み。


 料理が続々と運ばれてきて、大皿に盛られたそれらを、給仕が手際よく小さな取り皿に移し替え、俺達の前に並べていく。


「いただきます」という男の声が合図となって、俺も目の前に並んだ品々に箸をつける。ホタテのスープに入ったブロッコリーを口にすると、甘く濃い旨味が口中に広がり、普段自分が食べているブロッコリーが偽物のような気がしてくるから困る。口の中に残る旨味の余韻に浸る。口が、舌が記憶している味がありありと蘇り広がる世界幸福な記憶、しかし視界には一匹の犬もいなくて、規則正しく料理を口へ運ぶ上品で上等で信用ならない一家。


 給仕の男は北京ダックの皮を器用に剥いでいる。ああ、あの肉の部分は捨てられるんだよなあと毎回思っていたことを思い出した。そうだ、俺はあの皮が剝がれた後の肉にかぶりつきたいって毎回思っていたんだ。それを口にしたら公輝さんに渋い顔をされたんだ。でっかい肉にさ、かぶりついてみたかったんだ。まずくってもいいんだ、肉の塊を見ると、何だかわくわくするんだ。


「君、名前は?」


 一瞬俺は自分が言われているのか、分からなかった。しかし、目の前の獅子は箸を起き、濃い眉の下の黒目を俺に向けていた。


「純一君のクラスメートの澁澤哲人と言います」
「澁澤? 珍しいな」と男が言った。確かにやや珍しい苗字かもしれないが、話題にするほどのことでもないだろう。そう思った俺に、男は「君は俺と会ったことがある。覚えていないのか?」
 獅子がそう告げた時、俺は心臓が締め付けられるような苦しさを覚えた。何故だ、俺は、彼のことを記憶していない。これだけ特徴がある男だ、忘れているわけがないのに……


「哀れな子だ」


 ぼそりと、獅子がそう言って、手に持った箸で蟹味噌をほじくる。気づいた。確証はないくせに、ある確信が腹の中で暴れ出す。俺は怒りと戸惑いをどうにか面に出さないようにと、それだけを考えながら言葉を絞り出す「それは、公輝さんのことを言っているんですか? 公輝さんのことを知ってるんですか?」


「若いのにインターネットで調べないのか?」


 俺は立ち上がっていた。


「哲人!」


 純一の声がして、しかし俺はそれに構わず退室して、盗人のようにホテルから逃げ出した。全身汗だくで、息は荒く、惰性で歩いてはいるものの、俺は、酷く疲れていて、アスファルトの隅に腰を下ろした。


 公輝さんは、沢山敵がいただろうし、沢山の人を不幸にしてきただろう。だから、あの男が公輝さんを目の敵にしていても何ら不思議ではない。


 だが、俺が感じたのは恐怖だった。何について? 公輝さんが辱められることを何よりも恐れたのだ。インターネットには事実もゴシップも書かれているかもしれない、でも、それは俺の力では覆すことも書きかえることもできない。俺は公輝さんの力になれないんだ。


 俺は、泣いていた。多分小さな混乱状態にあるんだと思った。大泣きするというよりも、涙かはらはら流れるといった感じだ。ちょっとだけ取り乱しただけ。それに、俺は公輝さんの「今」を考えないようにしていることに気付かされた。


 俺は、今でもどんな時でもどうなっていても貴方を輝かしい人間だと信じています。


 そう、思うと、俺の片目から涙が一滴流れ、がっ、と背中から全身を鷲掴みにされた。涙を流す俺の横には、あまりにも美しい、彫刻のような青年の灰青の瞳の戸惑い、伝わるのは馬のような熱い体温。


大きく開かれた口からは、ほのかに香菜の香り。


「ごめん。まさかこんなことになるなんて思わなかった。ほんとごめん。なんか、クソオヤジに聞いても全然答えてくれないし、なんかさ、よくわかんないんだけど、でもさ、ごめん」


 美しい彫刻の、不自然な痛いほどの抱擁を、俺は指でそっと解こうとする。しかし、その力は強い。外国人のスキンシップと考えても、異様な気がしたが、突然飛び出して泣いている俺も奇妙さではいい勝負だと思い、真白なシャツの袖に眼に残った涙を吸わせ、


「誰も悪くなんてない。悪い人なんていない。残念だけど、悪人なんていないんだ。だから、どうでもいいし、平気だ」
「またよくわかんねーこと言ってる。平気なわけないだろ」
「大丈夫」と、俺は薄桃色の唇に告げた。彼は小さく「うん」と言った。
「やっべーな。ちょっと大きな貸しができちゃったなー」と、純一は大きく伸びをしながら、軽い調子で言った。
「じゃあ、港区のマンション一棟ちょうだいよ」
「こら! この銭ゲバ!」


 銭ゲバ、と言われたことが、なんだか嬉しくっておかしくって、俺は小さく笑って、純一も俺みたく笑った。もう、それでお互い十分で、それが何よりも嬉しかった。


 だが、俺は自分の涙で上等物のスーツを汚していたことに気付き、そういえば小夜子が一部の服だけはクリーニングに出していたことを思い出し「上下クリーニングに出して返す」と告げた。すると純一は苦笑いを浮かべ、
「俺サイズ合わないから。ぴったりじゃん。貰ってよ。俺の部屋捨てられない服ばっかだから、その方が服も喜ぶ」


 作るのに何万、何十万かかったのかは分からないが、高価な物には違いないから、軽々しく貰うのには気が引ける。けれど、純一の手をこれ以上煩わせることはできないから「ありがとう」と返し、彼と別れるとすぐにスマホで近くのクリーニングのお店を調べると、スーツの代金は上下で千円以上したから、とたんに、まあ、返す時でもいいかと思い直し、家で丁寧にスーツを脱いで、クローゼットの中に収める。


 気分を落ち着けようと、レンジで作れる肉じゃがもどきの調理を始め、ジャガイモの皮を切り、人参を乱切りにしていると、気が緩んでいるのか左手の人差し指を少しだけ切ってしまった。小さな痛みと共に生まれた球のような赤が切った人参に移ってしまい、にじむ。くすんだ紅色は、京人参を想起させた。


 ガキの頃の俺は人参が食べられなかった。あの野菜臭い臭いがどうにも気に入らなかった、けれど、京人参の臙脂の色と、野菜臭さの代わりに持っているほのかな甘さはとても気に入って、お前は若いのに味にうるさくて困ると公輝さんから言われたっけ。


 京人参を初めて口にしたのは、お吸い物の中の梅の花の形だっただろうか。黒塗りの碗に透明なお吸い物で、蛤が入っていたはずだ。初めて見た時に、臙脂の梅の花が人参とは知らずに口にしたはずで、しかし歯で柔く噛んだ時、それが人参だと気が付いたのだ。ああ、俺は人参が好きになったと妙な感動を覚えていたのだ。


 手が止まったままだった。黒塗りの碗の透明な水面には、純一の姿が映っていた。


 俺は愚かな連想を断ち切ろうと、今度こそ野菜の肌に規則正しく包丁を入れるのだ。


 ああ、でも、また思い出してしまい包丁を握る手が止まる。公輝さんと一緒に行った料亭で箸を進めつつ「京野菜は後味がさっぱりとしていて臭みがないから上品で好きだ」と、ガキが知った口をきくと、公輝さんに「お前は口ばかり達者でどうしようもない奴だな」と得意げに苦笑いをされたのを思い出す。どうしようもない、と言われるのが誇らしく、でも、本心でそう感じていたのだ。


 赤坂のこじんまりとした清潔感のある座敷で、真新しい畳の上に行儀悪く寝転ぶと、犬に窘められるのだが、い草の若い香りとひんやりとした肌触りが好きだった楽しかった。一番のお気に入りが加茂茄子のでんがく。身が締まって丸々と太った茄子の上に乗った赤味噌が黒々と光り、それに白い芥子の実が散らされていて、キャビアよりもトリュフよりも黒曜石に近い黒だと思った。また、そこの器が良かった。苔むした翡翠のような緑の器の上に収まった黒い茄子は、堂々としていて美しかった。これからこれを口に運ぶのだと思うと、背徳感のような感情さえ覚えた。


 そこでまたはっと我に返り、上品さを維持するには金銭が必要なのかもしれないと思いあたり、しかし財力のない俺はその見込みもなく、銭ゲバになれそうもないしなりたいわけでもない。犬からも鷹からも遠く離れて、安い材料に包丁を振るう俺は、それなりに幸福なのか、と自問したが分からず、考えに疲れて調理を進めていると雑念はゆっくりと溶け出し、レンジの音と共に現れた、料亭の味には遠く及ばない薄ぼんやりとした味付けは、それなりに美味しいのだ。慣れてしまえるのだ慣れてしまえるのか。


 次の日も俺は、純一の家に行く。いつもの行動を崩したくなかったのだ。ただ、なんとなく不安定で、昼過ぎに「学校行く?」と尋ねると、純一は快くそれを受けてくれた。教室に入ったのは丁度休み時間で、クラスメートの視線を集めながら入場し、純一は色んな学生達とお喋りをしている。


 かと思えばすぐに次の授業を始まるベルが鳴り、何をすればいいのかとバッグの中を漁っている俺に、純一が小声で「数学」と声をかけてくれたから、俺は本とノートを引っ張り出す。やがて教師が教壇に立ち、ページを開くように指示をして、開かれたページの数字と記号の羅列を目にして、一応理解できているらしいことに安堵を覚えている自分が少しだけ滑稽だと思う。


 勉強なんてしても意味がないのに。多分数割のクソガキがそう思っているはずで、しかし言い訳をして勉強すらできないような向学心向上心のない奴は、公輝さんや獅子はおろか、その取り巻き、犬達にすらなれずに、腐って野犬のように生きていくんだ、俺は?


 余生なんだ、野犬だろうが悪漢だろうが卑怯者だろうがどうでもいい気がするし、教師が


「ここは期末に出るからちゃんとできるようにしておいてね」なんて言う言葉を耳で聞いて、設問をうめているのだ。


 俺が授業の後もぼんやりしていると、純一はノートで扇いで笑みを浮かべ、


「期末困ってるんだろ。今度ノートまとめて見せてやっからさ。安心しろよ」


 純一は、俺とつるむようになってから登校率が落ちたはずだが、週に四日はオンラインで塾の授業を受けているそうで、学校の授業なんて簡単すぎて、今は主に高校受験対策用の勉強をしているらしかった。


「あーいいなー俺にもそれ見せろよー」と生徒の一人が声を上げると、いい子ちゃんモードの純一は「哲人は事情があって勉強が遅れてるからだよ。こういうのは自分から学ばなきゃ身につかないから、先ずは自分の力でやるべきなんじゃないかな」
「なんだよそれ。てかさ、何で二人共そんなに仲いいの?」


 その質問は、多分クラスの誰もが思っていたことのように思えた。クラスメートと全く話さなかった男が、転校生の男と知り合うなり、毎日のように一緒にいる。


 純一はその男にそっと近づくと耳元で甘く囁く「何? 俺達ホモです。一時も離れたくないんです、愛し合ってるんですとか言って欲しいの?」


 ホモ、という単語は無条件に嫌悪を感じたが、同性愛って、愛って、なんのことだ? ホモセクシャルは、性的嗜好に気付いて愛を知っているなら、それは優れた能力のように思われた。でも、俺はいらない。


 純一に挑発された男は大げさな身振りをして離れ、無言で嫌な顔を見せ、純一は対照的に明るい表情で白い歯を輝かせ、窓際に座り、


「15時からウィズクラで新イベント始まるって。久しぶりにやろうぜ。今回のイベントは人が天使になるんだってよ。サンダルフォンとメタトロンかな。神話では双子で人から天使になったんだ。まるで俺達みたい」


 窓からの陽光を受け、気障な言葉を吐く美形の男は、もしかしたらこの世で一番天使に近い神々しさと傲慢さを持ち合わせているかもしれないと思った、けれどそんな俺の頭を軽く叩いて奴は苦笑い。


「流石にさ、ここはイキりすぎだって突っ込んでくれよ」


 しかし、俺は純一の言葉が的外れだとは思わずに、じっと光を帯びた彼の姿を見ていた。


「なんかさ、たまに、哲人犬みたいな瞳? 顔つきしてる時ある」


 犬、なんてクソみたいなことを言ってくれて腹立たしかったが、今の俺は間抜けな畜生そのものかもしれないと思い。軽く頷く。すると、純一が手を伸ばし「おーよしよし」と俺の顎を撫でまわすので、手で払い「殺すぞ!」すると、奴は満面の笑みだ眩しい位の、だから俺は舌打ちをして目を背けるしかないんだ。


 授業が終わり純一と帰ろうとすると担任に呼び止められ、少しだけでいいからとどうでもいい話を始める彼に向って「卒業後は働きます。新族の了承も得ていますし、就職先も決まっています」と適当なことを言って、純一の手を引き、長い廊下を速足で歩く。


「今の嘘だろ」
「嘘だよ」
「俺さ、明日リラの誕生日パーティ行くんだ。来いよ」
「行かない」
「マジか。てかさ、俺、将来リラと結婚するかも。あいつんちエグイ位の金持ち。俺んちもだけどさ、金持ち同士で結婚するのが普通なのか? まあ、リラは顔がいいからどっちでもいいけど」
「嘘」と、俺は下駄箱で、滅多に履かないから綺麗な上履きと、小汚い靴を履き替えつつ小声で呟いた。


「嘘かも。分かんねーや」と純一は笑い、それからウィズクラの話になる。人間から天使になった、神に比類すると言われた熾天使。でも、それは俺らじゃない。ゲームは、相変わらず俺の持つ黄龍の「一定時間完全無敵」の能力のおかげで、難なく進む、けれど、心のどこかに穴が開いたような不安感、ざわつきが俺を襲い、それを悟られないようにしながら、俺も純一と共に、天使になりたがっている人間のふりをする。


 翌日はスマホに何度も呼ばれたけれど無視をして、家の中にいるけれど、何をする気にもなれず、料理をする気にもなれず、カップ麺を食べながら見たくもないテレビを見ていた。


 スマホが鳴った。俺は見たくもないのにそれを見てしまう。豪華な食事と内装と大勢の人々の笑顔。それは、俺が昔目にしたものに似ていたような気がした。純一の横にはリラがいた。白の小花柄のワンピースで可愛かった。多分、彼女は良い子なのだと思った。俺は送られてきた画像を消した。


「あっれーカップラーメン食べてるの? 珍しい! 私も外で済ませてきたからいいけどさ」


 リビングでテレビを見ている俺に、帰宅した小夜子がそう声をかけた。俺は無言でいたが、小夜子が「悪いけどテレビ消して」と言ったので、それに従った。すると、何だか清々して、自分が本当にテレビを見たくなんてないことに気が付いた。


「あのさ、こっち向いて」と小夜子は告げ、彼女も仕事着のまま床に座り、俺と向き合った。


「実はさ、一年以上前から、名古屋に来いって会社から言われてて。それで、私としては哲人が高校に入学するまでは東京にいようって決めてたの。でもさ、ちょっとトラブルっていうか欠員も出て、支社が回らない状態で、できるだけ早くあっちへ行ってくれないかって毎日のように言われるようになってきちゃってさ」


「行けばいいじゃん」と俺は素直に言った。小夜子は少し黙り込んでから「絶対そう言うと思った」と言って、少し苦い顔をした。


「当たり前だけど、生活費は、哲人が大学出るまで面倒見るし、私にはその所得がある。ここの家賃や公共料金とかの心配もしなくていいし、今まで通り哲人向けの生活費も振り込む。三者面談とかある時は、時間合わせて行けるようにするし、それに、東京から名古屋って新幹線で二時間だから、案外近いし。私より料理とか家事出来るし、中学生とは思えない程しっかりしてるの知ってるからさ、それに仲良しのイケメン君もいるって知って最近安心してさ、なんだかんだでうまくやってるんだなってほっとしちゃって」
「小夜子喋り過ぎてる。俺は平気だって言っただろ」


 彼女らしくない、困ったような笑みを浮かべ、勢いよく立ち上がり、


「うん。ごめんね。ちょっとシャワー浴びてくる。嫌なクライアントですごく汗かいちゃった。日程とか細かいこと決まったらすぐに連絡するし、それに、今の時代スマホあるからね。それに私家あけっぱだし。まあ、たまに戻るしさ。そうだよね。何も変わんないか」と長々と喋ると、軽い笑みを俺に向け、俺の反応など無視して慌ただしくリビングを後にする。


 ごめんね、なんて、謝ってほしくなかった。その言葉を聞くと、俺は酷く惨めな気持ちになって、何もかもが手につかなくなって、その言葉が俺の頭の中に住み着いて離れなくって、自室に戻りスマホをいじるが、やることといったら純一とのゲームかメールのやりとりしかないのだから、俺は、余生を終わらせることを真剣に考えねばならないと思った。


 しかし、俺はもう十分、余生を満喫していたのだ。自死を選ぶなんて、考えられなかった。


 俺はざわつく心を落ち着け、首のない犬をスーツを着た犬を公輝さんのことを思う。俺は、彼らに恥ずかしくない生き方をしているだろうかこれからできるだろうか。明確な答えなんてないのだが、まだ、俺の余生は残されているはずだ。しかし、俺は簡単に堕落してしまうことに気付いた。もし、足を踏み外したなら、潔く終了しなければ。


 俺は勢いをつけ右手で腹を殴った。恐怖心から、おそらくかなり手加減しているはずだったが、それでも喧嘩なれしていないクソガキの俺には十分痛く重く吐きけがした。この不快感で少しだけ、現実を忘れることができた、けどそんなのは一時しのぎでしかなくて、じくじくと下腹が痛く重く、俺にできることはとにかく眠ることだけだった。


 食欲や排せつの欲求はほとんどなかったが、幾ら寝ても寝たりなくて、スマホの電源は切っているくせに、俺はそれを時々手に取り、真っ暗な画面を見て、少し、あるはずの着信のことを考えて、しかし電源はつけず、スマホを枕の横に置き、瞳を閉じ丸くなる。


 そんな怠惰な生活をしていると、急にとにかく無性に身体が動かしたくなって、シャワーを浴びてから冷凍パスタをチンするなり貪り喰いスマホを充電して電源を入れると企業からの宣伝や通知、山のような純一からの不在着信と未読メールが並んでおり、少しだけ怖くなりながらちまちまとメールを開封していると、携帯が震え、俺はつい癖で出てしまう。


「びびった! やっとつながった! どうした?」それはいつもよりも荒々しい純一の声で、俺は少し怯んでしまい、
「あ、体調崩して寝てた。もう大丈夫」
「病院行った?」
「行くわけない。だからもう平気だって」
「平気じゃないんだなーこれが。もうすぐ期末だから。哲人、これ落としたら結構ヤバイ。真面目な話。俺今学校いるんだけど、手ぶらでいいから、家来て。三時過ぎには俺も家ついてるから。いいな、絶対に来いよ」


 俺の返事も確かめず、勝手に決めて腹が立ったけれど、これ以上刺激するのはよくないと思い、大人しく支度をして、純一の家に向かった。


 部屋に入るといつもと同じ乱雑な風景、ブランド物の服がそこらに寝そべり、未開封の箱や袋が積まれている。しかしテーブルの上にはノートやらプリントやら参考書が並んでおり、異様な雰囲気がする。


 俺が来たことに気付くと、純一はスマホをいじっていた手を止め、「そこ座って」と指示をして、俺が従うと、数枚のプリントを渡し「教科ごとの要点まとめておいたから。それ読み終わって、理解したと思ったら言って。各教科ニ十分の小テストをして、俺が採点するから」


 純一の手際の良さに少し戸惑いつつもプリントに目を落とすと、彼がワードで作ったらしき、とても簡潔で分かりやすい文章と図が並んでおり、思わず「俺のことなんてしていていいのかよ」とぼやいてしまう。すると純一は、


「人に教えるって言うのが一番勉強になるんだ。自分がきちんと理解していないと、教えたりまとめたりできないからね」


 その優等生的な発言に、やはり奴は俺とは違ってやがては大きな会社の長になるのだろうと思いを馳せてしまうが、さすがに今はそんなことを考えている時ではない。分らないところはその場でどんどん質問をして、ある程度自分でも純一の持っている教科書や参考書を見直したりしてから、小テストに挑む。さすがにこれは学校で配られた奴だよなあと思いながら、いや、でもこいつなら作りかねない、なんて雑念を振り払い、淀んだ頭なりに必死で設問に立ち向かい、こんな真面目にテストをうけるなんて久しぶりだな、何だか楽しいな、なんて、一人愚かな笑みを噛み殺す。


「哲人さあ、実は家で勉強してる?」
「は? したこともあるけど、そういう習慣はない」
 テストの採点を終えた純一は、先生みたく間違えた個所の説明をしてくれて、それはとても分かりやすい。こういう一面を見ると、口や性格は悪いがとても有能で献身的な一面もある気がしてしまうし、騙されてしまう人もいるんだろうな、騙し続けるんだろうな奴は、なんて思って、リラの顔がよぎり、打ち消す。


「なーそれで何点取れてたか教えろよ」


 俺がそう尋ねると、何故か奴は不機嫌そうな顔をして言う。


「採点面倒。つか、哲人が間違えてたのはほとんどないし、後はケアレスミスだろ。合格だよ。後はサボらずにちゃんと試験を受けること! あーあ! つまんねーの!」


 わざわざこんな用意までして教えてくれたのにその言葉は何だと抗議すると、純一はにやりと笑い「俺が将来役職に着いたら、補佐してよ」


 いきなり何を馬鹿げたことを言いだしたんだと思ったが、彼にとってそれは馬鹿げた話ではないのだ、ありえない話だが、純一なら親の力を使わずとも、何があってものし上がっていくような気がした。


 のし上がる? 自分でその発想に言葉に行為に虚しさを覚えた。


「俺は誰の犬にもならねーよ」と小声で告げる。すると、純一がふざけた声で「ワンワン!」と吠える。俺は苦笑しながら「ほら、お手」と手を出すと、純一は俺の手を握り、絡め、灰青の瞳でじいと俺を見て「リラさ、セックスが嫌いなんだと。乱交やドラッグなんてもっての外。つまんねーの。それ以外はさ、そこそこの上玉っつーか、超優良物件なんだけどな」


 俺は、リラが侮辱されたことに何故だかむかついてきて「人を物件扱いするなんて下品だな」と返す。


「うん。金持ち同士で血を掛け合わせて逃げられないようにしてんだ。何世紀だよって話。クソ下品で俺の両親もリラの家族もみんなクソだと思うけどさ、なんか、最近少しずつそういうものなんだ、悪くないんだって、ちょっとずつ思ってきてる。優れた人間が恵まれた環境で暮らして、その能力を十全に生かす。優れた遺伝情報を伝え、育む。スマホゲームの魔獣の配合か、けだものの交尾みたいだろ? でも、生活をしていて、親族との時間を過ごし、その恩恵を受けていると、それを受け入れている自分に気付くんだ。俺も、優秀で恵まれてクソ下品な血族なんだって逃れられないんだって。止まない既得権益のシャワーはバカンスの日光浴みたいだよ。なんか、気持ちよくてぼーっとしちゃう」


「哀れだな」


 俺はそう言って彼の手を離した。本心なのか半分冗談なのか、自分でも分からず、でも今の純一の迷いの見える発言はダサいって思ったからそう言うしかなかった。


 ただ、口にした俺は胸が少し痛み、純一はいつもみたく反論したりふざけて殴ったりしなかった。


「勉強教えてくれてありがとう。期末にはちゃんと出るよ」と俺は立ち上がると、彼はいつもの外国の映画俳優みたいな笑みを見せ、


「ああ、また学校で」


 俺は、難なく試験をパスした。当然自分でも猛勉強をしたし、中学生レベルだとまだまだ範囲が狭いのだ、高校に入ると一部の高校では一気に難しくなってくる、と前に純一が言ってったっけな。


 あれから、純一との仲は微妙にぎくしゃくしていて、一緒に彼の部屋でだらだらしたり遊んだり、学校でも一緒に行動していることが多いけど、どこか、壁を感じる。今まで俺を最優先にしてきた癖に奴には、ちょっとした用事、がちょくちょく出てきて、俺はまた文庫本を読む時間が増えていた。それは、嫌じゃなかったし普通の日々だったのにな、なんかな、誰かの物語を読むのに集中できないんだよ純一がいないと皮肉屋で優秀でユーモアがあって機転が利いて口と性格が悪くてたまに優しくて、まるで、あの頃の誰か、あの頃の空気感みたいな。


 馬鹿だ。俺はもう中学生だ余生だ。純一は、これから世間的には立派になる男だ。首なしや公輝さんとかの世界の住人ではない。


 俺も慣れるのかな、いや、慣れなきゃいけないんだって思いつつ、時期はもう夏休みに入ろうとしていて、学校帰りに並んで歩いていると純一が「休みは一緒にバカンス行かね。俺バリ島がいい」と言った。でも、俺には「お金もパスポートもないから無理」と正直に返しながら、純一との南国での妄想が広がり、その妄想だけでも十分俺の心は満たされていると、


「じゃあ箱根でも行くか?」
「バリから一気に箱根かよ」と思わず突っ込んでしまったが、まあ、それならもしかしたらどうにかなるかもしれない。少し、プレミアがついている本を売って、ちょっとだけ貯めていた貯金を切り崩せばどうにか、あ、そうだ、純一と動物園行きたい、どこでもいいから、虎や象やライオン見たい! なんで今まで思いつかなかったんだろ、こいつが動物園みたいな男だからかな、なんて苦笑を噛み殺し、俺は灰青の瞳を覗き込むと、


「箱根馬鹿にすんなって。この前リラと行ったけど、結構いいとこだったぜ。風光明媚って言うの? まあ、逆言ったら自然ばっかだけど」


 そう純一が笑うが、俺は自分が不機嫌になっていることを自覚して、自己嫌悪が俺の喉元を絞めた。


「うちは貧乏だから。金持ちは金持ち同士で遊んでろよ」俺の言葉に純一は小さく「そうだな。哲人は的確だ」と返した。後悔した、でも謝り方が分からない。言葉少なに二人、駅まで行って、無言で別れ、別れるなりすぐに俺はスマホを取り出し奴からの着信はないか、また、謝罪の文面を考えながら文字を打ち、消し、その内に停車駅についたアナウンスに気付きびくりと身体を震わせ慌てて電車から飛び出て、固く握ったスマホを見るが着信はない。


 これでよかったのかもしれない。そういう思いがよぎり、それは自分を納得させようとしているだけなのだとも思いつつ、友人関係というのが、数ヶ月も続いたなんて奇跡的じゃあないか、とこれもまた夢の出来事なんだと腑抜けた頭でそう思いながら帰宅すると、何故か夕方にもなっていないのに小夜子の姿があって、彼女はせわしなく家の中を行き来しているらしく、どうしたのかと声をかけると軽い調子で「引っ越し明後日になった。半休使って片づけてるけど、こんな時間に部屋で服の整理なんてしてると、変な気分ね」


 高価な服がだらしなく寝そべっていたリビングは、かなり綺麗になっていて、小夜子はきびきびと動き続け、俺は頭の回転が非常に遅くなっている。
「あのさ、引っ越しって色々と面倒で大変なんじゃないの? 明後日? 準備が色々あると思うんだけれど……」俺がそう尻すぼみに口にすると、小夜子はいつものはきはきとした口調で、


「普通はそうかもしれないけど、単身者お手軽パックってのがあってさ、引っ越し屋さんが勝手に段ボールにつめてくれるのもあるんだって。それに私はあっちに、家具一式が用意されたマンション用意してもらってるから、後はノートパソコンと衣服があれば、とりあえずどうにかなるかな。あ、だから安心して。冷蔵庫も洗濯機もここに置きっぱなしだし、生活面では何も困ったりしないからさ」


 半休? とかいう制度も家具付きのマンションとかいうのも単身者パックというのも、何も知らない。当たり前のことだけれど。


「ちょっと買い物してくる」と言って外に出るが、買いたい物も散在するほどのお金もなくて、ふらふらと歩きながら、自然とスーパーに寄ってしまって、店頭では玉ねぎがセールで安くなっていて、持ちが良いし、まとめて買おうかなあジャガイモも買って野菜スープにしようかと思ったが、小夜子がもうすぐいなくなると思うと、俺は手にしていた玉ねぎを棚に戻し、買い物かごも戻してスーパーを出てスマホを起動するが着信はない。


 以前は純一と一緒にいたから気にならなかったが、そういえばここ最近小夜子との会話があまりなかったというか、ずっと仕事に忙殺されていた印象があった。何で彼女は働き続けるのだろう。そんなことを聞くのは野暮だし彼女は絶対に答えないだろうし、俺は彼女のことをあまりにも知らないし明後日には彼女はいなくなる。


 昨年の冬、めおとだき、と呼ばれている料理を作ったことを思い出した。焼き豆腐と油揚げを、だしと砂糖と薄口醬油と酒で煮ただけ、というレシピを見てこれなら安く作れるという貧乏根性で作った物なのに、出来上がると案外うまくって、試しに豆腐や油揚げを上等な物にするとえらくうまくなった。小夜子は料亭の味だ、と大げさに褒めていたっけな、寒い日に甘い揚げがするすると喉にはいっていったっけな、もう、一緒にめおとだきを食べることはないんだろうな。


 夕方ごろ家に着くと、リビングはかなりすっきりしていて、小夜子にそのことを告げようとしたが、彼女はおそらく会社の人と電話中で、それが終わると素早く自室へと戻り身なりを整え苦笑いを浮かべ「呼び出されちゃったよーったく、何のための半休だっつーの。有能な人間は辛いぜ。あ、夕ご飯大丈夫だから。じゃあ」


 と慌ただしく家を後にした。俺はスマホを起動する、何の通知もない。
 最後の日、位いい物を食べさせてあげたいと思った。翌日帰宅した小夜子に話を聞くと、どうやら今日の夕ご飯は一緒に食べられそうなのだ。彼女の好きな物を思い浮かべようとして、でも、俺が作った料理は何だっておいしいおいしいと食べてくれて、お世辞を言わない彼女は本心からそう言ってくれていたのだと思うが、何を作ればいいのか全く思いつかず、というか、俺は料理を作りたくなかった。でも、小夜子とこの家で食事がしたかった。


 電車に乗って、デパートの総菜売り場へ。ガラスケースの中で綺麗にこんもりと盛り付けられ、照明を受けて堂々としているそれらは、値段さえ気にしなければとても魅惑的で、俺はどうせ箱根にも動物園にも行かないんだと思い、いつもの安いスーパーの数倍の値段のお惣菜を買って、帰宅して、流石にこのまま出すのは悪いからと皿にとりわけ、ラップをかけ、小夜子の帰りを待った。


 部屋で一人スマホをいじり暇をつぶし、夜になって玄関が開いた音で、ゆっくりと部屋から出て、自然に食事の準備を整える。とはいっても、ラップを取ったりレンジでチンするだけだけれど。


 リビングで暇つぶしにテレビを見ているふりをして、ジャケットを脱いでこちらに来た小夜子へ軽い口調で「めしあるよ」と告げた。メイクを落としていない彼女は、黒々とした力強い瞳で俺をしばらく見て、無言で席について「いただきます」と言った。


 彼女は、良く食べた。普段もそこそこ食べる方だと思うが、まるでスナック菓子をたべるような勢いで、海老やらブロッコリーやらトマトやら大根やら豆腐やらチキンソテーやらを箸で胃袋へと収めて行って、気がつけば二人で全部食べ切ってしまっていた。彼女は「あーおいしかった。ご馳走様」と箸を置き、俺に向き合う。


「ありがとう。私、哲人の味忘れないから。今日も最高に美味しかったよ」
「もう、忘れてるじゃんか」と思いながら、俺は自分で作らなかったことに胸が痛み、しかし素っ気なく「うん」とだけ返し、空になった皿を流しへと運んで行く。


「明日さ、見送りとかいらないからね」そう、背中に声が投げかけられた。
「誰が行くかよ」と言いながら、俺は蛇口から水を流し、普段は食器に水をつけておくのに、油まみれの皿をスポンジで洗い始める。


「それ聞いて安心した。私が思ってるより、ずっと大人だもんね。これからも、哲人が一人前になるまではきっちりサポートするから」
「聞こえないんだけど。いいようるせーな」
「はいはい、親はいなくても子は育つってね。またね。ありがとう」


 親はいなくても子は育つ、というのは慣用句で、慣用句なんて何の意味もない、むしろ愚か者の使う言葉だと分かっているはずなのに、その言葉に泥を飲み込んだかのような嫌悪がわき、無心で食器を片付けようとしているのに、いつまでも残り、自室に戻っても喉にへばりつく泥、から抜け出そうとスマホをいじり飽き本を読もうとして飽き、ベッドに身体を任せ、横になる。すぐに忘れるどうせ忘れる、と思う。しかし上手くはいかず、何度も泥の亡霊と考えたくもない事柄を振り払い、引き寄せ、生まれてくる小さなしかし無数の恨み憎しみ不安不満に苛まれ、無残な戦いと同じような考えを繰り返し、いつしか疲れて眠りに落ちる。


 浅い眠りだった。俺はつけっぱなしの電気を消して、スマホの電源を入れた。通知はなく時刻だけが表示されていた。暗いベッドの上スマホの頼りない光は、悪くない、悪くないんだと思いつつ、俺はまた横になる。


 小夜子は行ってしまった。数日後には夏休みも始まってしまったらしかった。何もない。俺は余生を取り戻す。たまに、気まぐれに本を読んだり、ウィズクラ以外のスマホゲーを少しプレイしてはアンインストールを繰り返し、作り物の幻想で暇つぶしをしたり。


 食事を作るということを俺は忘れてしまって、安いファストフードの一番安いのをテイクアウトして、二回に分けて食べたり、深夜にスーパーに行って半額シールのついた弁当を食べたり。一人で「余生」っぽいなあみそぼらしいなあとほくそえんだりして。


 そのくせ、何日も家にいると突然繁華街に行きたくなって、六本木へ。八月の六本木はとても蒸し暑く、行き交う車は多く空気は汚く、歩いている人らもどこかいかがわしく見え、でも、お金があるならばこの街は優しい街なんだ、お金が無い人は犬の首なし死体でも探すしかない。


 そう思いながら、俺はたまに汗をぬぐいながら、アマンドがある大きな十字路の交差点から、東京タワー方面へと車道を歩いて行くが、当然犬の死体なんてなくて、あれも俺の見間違いか何かかと勘違いしそうになる。


 あったんだ。本当にあったんだ出会ったんだ、でも、すぐに別れた。俺は会えないのが分かっていて、首なしを探しているのかもしれないと思いがよぎると、暑さのせいか酷く馬鹿らしく楽しくなってきて、しかし少し疲れてきたから電車で一本だし、新宿に出て金が無いから買えないけれど、本屋巡りでもしようかなと考えると、先程までの思いがやや軽くなってきて、まあ、文庫本一冊位なら買ってもいいかなあ、久しぶりに新しい本、読みたいなあ、なんて思いながら到着した新宿も、六本木と変わらずいかがわしく小汚いけれど、こっちの方が安い店がちらほらあるせいか、馴染みやすいと言ったら大袈裟だけれど、ガキが歩いていても良くなじむような気がして、人波をすり抜けつつ信号待ちをしていたら、見つけてしまった。


 チェックのさえないシャツに猫背気味になって安っぽいジーンズ姿なのに、知っている匂い老人の匂い、高い鼻、目元がたるんではいるが鋭い眼光に不機嫌そうな唇は、


「公輝さん!」


 その男はぎょっとした目で俺を見て、それから瞳をそらし、無言で去ろうとしたから俺は身を乗り出し腕を掴み「少しだけお茶しませんか。暑いし。コーヒー一杯飲むだけですそれだけですから」

ここから先は

26,716字

¥ 500

生活費、及び返済に充てます。生活を立て直そうと思っています。