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世界が変わる!

キヤノン販売入社から大阪の店舗で販売研修

大学を卒業した1977年、私は新卒1期生としてキヤノン販売(現、キヤノンマーケティングジャパン株式会社)に入社した。実家がカメラ問屋である私はいわゆる縁故採用だったが、当の本人はカメラに関してまったくの無知。しかし、周りからはカメラの知識はあって当然と思われていたので、こっそり猛勉強して、誰にも負けないほどの知識を身に付けた。

まもなくして、大阪一のカメラ店であるナニワ商会で新人販売研修が実施されたが、そこでもまた売上に大きく貢献してしまう。キヤノンのカメラのみの販売で、既存店員のレコード記録の1.5倍近くを売り上げてしまったのだ。すぐさまナニワ商会の会長から、担当営業に逆指名されることに。大阪営業部には15名の営業社員がいたが、5年後には売上の55%を私一人が占めるようになっていた。

大阪カメラ営業部時代。
ナニワ商会のキヤノンブース前にて

大阪での営業時代にはさまざまな出会いがあったが、今でも忘れられないのが戦後の行商から大阪一のカメラ店を興し、私を抜擢してくれたナニワ商会会長との出会いだ。私はナニワ商会の担当営業として兵庫県の小さなカメラ店も担当していた。

カメラが売れないと嘆く零細店の社長にキヤノンセールを提案し、新聞広告とのバーターで20台ものカメラを現金で卸し、売れないと困る状況をつくり出した。そして社長の目の前でカメラの販売を行い、売り方を実践して見せた。その後、売り方を会得した社長は在庫をすべて売りつくし、再オーダーがくるほどになった。

この時にも、学生時代の紳士服店でのアルバイト同様に「購入目的を想起させる手法」を意識した。接客しているときには、決して強くプッシュをしない。その代わりにお客様の話を聞きながら、カメラを使うシーンをイメージできるような商品の説明をする。それによってお客様は帰宅後に「カメラがあれば良いな」と思い出して、改めて購入しに来る手法である。

私自身が「フラッシュバック」と名付けたこの販売手法を聞きつけたナニワ商会の会長は、会食の席に招待してくれた。当時平社員だった私をだ。それにも驚いたが、顔を合わせた直後、当時80歳近い会長が「石川君、売り方を教えてくれ」と深々と頭を下げたことは、今でも忘れられない。教わる気持ちを大切にする浪速の商売人のすごさに感銘を受け、いつまでも教わる気持ちを忘れないようにしようと私自身が心に誓ったできごとだった。`

テレビコマーショルで使用されたナニワ商会塩山寅三会長のイラスト

Macintoshとの出会いからアップル事業部へ

大阪でカメラの営業社員として働いていた私に転機が訪れたのは、1983年の冬だ。キヤノン販売がアップルと提携を行うと発表があったのだ。その後、当時日本で発売されたばかりのApple製品のLisaに触れ、衝撃を受けたことは今でもよく覚えている。

経営工学科出身ということもあり、これまで決してコンピューターになじみがなかったわけではない。Apple社が上場し、自分と同じ年であるスティーブ・ジョブズが若くして大成功を収めていたことも当然知っていた。実際にApple製品の販売店に見に行ったこともあったが、当時はあまりに高額すぎて、とても手が出せる代物ではなかったのだ。

Macintoshの最初の日本語カタログ。
カタログにはMacWrite(英文ワープロ)MacPaint(お絵かきソフト)の2本しか紹介されていない


その後、社内で発表前のMacintoshを密かに見せられたとき「世界が変わる!」と、直感的に確信した。今では当たり前になっているコマンド打ちではなくマウスで画面を操作できる機能や、画面と印刷が同じという「What You See Is What You Get」(WYSIWYG)が非常に革新的だった。

当時はIBM-PCがビジネスの中心にあり、Apple社は劣勢だったが、それも覆していけると感じた私は、みずから社内のアップル事業部への異動を願い出た。カメラの販売はやりつくし、飽きを感じていたことも志望理由のひとつに加えておこう。

そろそろキヤノンを退職し、実家に戻ってくるだろうと期待していた父親は、私のこの決断に大激怒。勘当されそうになったが、私の意思は固く、1984年の1月には晴れてアップル事業部配属となった。配属直後にMacintoshが発売された。スティーブ・ジョブズが掲げた「The Computer for the Rest of Us」のフィロソフィーにしびれたのを覚えている。