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濱口竜介監督の『親密さ』に出会ってから5年が経った。

「『絶対に忘れられない日付』ってある?」という話を知り合いとよくする。曰く、嫁と結婚した日、曰く、大学に合格した日、曰く、初めて海外旅行をした日、などなど様々な回答が返ってくる。

僕にとっては、2013年12月1日がそうである。濱口竜介監督の『親密さ』を初めて観た日である。

それまでにも、何度か濱口監督と『親密さ』の噂は耳にしていた。間違いなくこの10年、いや2000年以降でベストの映画だとか、休憩を含めて4時間半あるけど全く飽きない、むしろ2時間映画より短く感じた、とか。
そんな前置きのせいか、ちょっとした伝説の映画のような印象を抱いていたが、その日多摩まで足を運んで観た『親密さ』は、軽くその前評判を超えてきた。

衝撃を受けたなんてもんじゃなかった。ここまで、映画は自分の内奥の柔らかい部分に直に触れることができるものなのか、と半ば呆然自失になってしまった。
そんな状態で終映後に聴いた、岡本英之さんによる劇中歌のミニライブでは人目もはばからず涙ぐんでしまった。いま自分が目撃した、奇跡と呼んで差し支えない何かに対しての距離感を掴みかねている間に、係の方に会場から出るよう促された。ロビーにはちょうど濱口監督がいらっしゃっていたので、その場でインタビューの依頼を申し込んだ。
会場を出ても全く余韻は冷めず、乗る電車の方向を間違えて南大沢に降り立ってしまい、あてもなく1時間ほどうろついていたことまで鮮明に覚えている。

『親密さ』を表現するための言葉が、5年経ってもまだ見つからない。あの映画を語るための言葉を探せば探すほど、その途方もなさに、途方に暮れてしまう。
若い男女が自分の実存をかけて仲間たちや恋人とぶつかり合い、そのために凡そ普通ではない量の台詞が交わされ、否応なしに時間は流れ、その最中で絶え間なく揺れ動く親密さとその美しさ、人間の営みの全てが凝縮されたようなと言ったら言い過ぎかもしれないけれど、それに近しいあの奇跡の全貌を伝えきれない。

それでも何とか言葉を紡ぐために、『親密さ』の鑑賞は、スクリーンの向こう側の世界とこちら側の世界の浸透圧が溶け合うような体験であった、と振り返ることから始めたい。「こういうことってあるよね、わかる」という共感の域を飛び越え、自分のオルタナティヴがスクリーンに映っていた、そう言っても過言ではない体験であった。

『親密さ』は、今や"Ryusuke Hamaguchi"として世界中を驚かしている濱口監督のフィルモグラフィの中でも、かなりフツウではない作りで、2部+短いエピローグから成る映画である。第1部では、小劇場演劇を作る男女がその最中に様々な困難に直面する様子が描かれ、そして第2部ではなんとその演劇の上演を丸ごと撮影するという、とても特殊な構成の映画だ。いわゆる劇映画の文法、というよりも経済性から掛け離れた映画であり、そして、他の低予算映画と同様に多くの脆さを内在する映画である。第1部では、ごく小さな人間関係が描かれ、その人間関係を照射するための装置として戦争が用いられる。戦争を表現するための手段はYouTube風の粗い動画と、スクリーン上にどーんと投影されるチェーンメールだけだ。第2部に至っては演劇がそのまま撮影された公演DVDのような作りになっている。

そして、何よりも出てくる役者が「映画的」ではない。有り体に言ってしまえば、うまくない。
しかしそれでも、彼らの生き様に並走することによって、次第にこうした弱さは魅力に転化していく。佐藤亮演じる脚本家のリョウは、役者たちに対して「お前らが自分で嫌いだと思ってるようなとこ?弱さとかさ、醜さ、醜さっつうとあれなんだけどさ、単純に声の小ささとか、遅さ、そういうの全部武器なんだよ、お前らの一番弱い所が一番の武器なわけよ」と鼓舞する。
この鼓舞は、濱口監督から佐藤亮氏はじめ『親密さ』の俳優たちに向けられた鼓舞でもある。そうして私たちは、この弱さが意図的に選択されたものであることを理解する。

“わたしはわたしであり、あなたはあなたである”、4時間15分をかけて、こんな当たり前のテーゼが幾重にも反復されていく。それを理解した上で、それでも側にいたいと思うこと、わたしはあなたを知りたいと思うこと、あなたにもわたしを知ってほしいこと、でもそんなことを思うのは出過ぎた真似だろうかと懊悩すること、これらはすべて我々が人生のある点において必ず通過するテーマである。だからこそ、俳優たちの映画的でないありようは、強さになる。我々は映画的な人物ではないし、映画的な人生を送っていない。我々は人に思いを届けようとするときにワガママになるし、上手く喋れないし、もどかしい気持ちになる。それでも関係性を一歩前に進めようと、言葉を尽くす。
『親密さ』は映画的ではないままで、もどかしさの中で他者との関係性を取り結んで行く人々の姿の記録であり、そしてそれはそのまま私たちの記録でもある。そう理解した瞬間、俳優たちの弱く、小さい姿は、まばゆいまでの輝きを放つ。ここには豪華なセットも、有名俳優も、2時間に収める必要すらもない。映画の要請によって、4時間15分という尺が、また有名ではなく上手くもない俳優たちが選択されたのである。

そして、上記のような理由にもまして、『親密さ』がそれほどの説得力を勝ち得た理由は、何よりセリフの多さと、その練度である。言葉が横溢する映画は、得てしてショットや脚本の弱さを隠すためにセリフに頼っており、またその量に反比例して一つ一つのセリフの練度も低くなる傾向にある。しかしながら、『親密さ』はそうした映画とは全く異質のものであった。『親密さ』には、一瞬たりとも場をつなぐための弛緩したセリフがない。セリフのひとつひとつが、我々がうまく言語化できずにもやもやと胸に抱いている感情を具象化してくれるような、そんな強度を持っている。

例えば、第2部の演劇において、生き別れの兄妹・衛と佳代子が対話するシーンがある。佳代子は長らく付き合った彼氏(ノボル)と別れてしまい、衛はそんな佳代子を心配すると共に、十数年ぶりに再会した兄貴がこんなダメなやつでごめんな、と謝る。

佳代子「ノボルのこと、すごい好きだったよ」
 衛 「ああ」
佳代子「すごく頭がいいって言うか、要領のいいところがある人で」
 衛 「うん」
佳代子「そういうところは、むしろ尊敬してて、実際それですごい助けられたり、導いて、導いてっていう言い方はおかしいけど、そっか、生きてく、社会で生きてくっていうのはこういうことなのかな、て思ったりするところはすごくあって」
 衛 「うん」
佳代子「でも、そういうところが一番ダメになってしまったのかも」
 衛 「ふむ」
佳代子「だから簡単に言えば価値観の違いっていう、よくある話なんだけど、価値観っていうより、世界観の違いって言うと大げさに聞こえるんだけど」
 衛 「ああ」
佳代子「世界って」
 衛 「うん」
佳代子「情報じゃないでしょう?」
 衛 「ああ」
佳代子「すごく頭がよくって、何ていうか情報処理能力が高くて。それはさっきも言ったみたいに、多分生きてく上ですごい大事で。私はただそれについて行けばよかったのかも知れないんだけど」
 衛 「うん」
佳代子「でも、もしこの人にとって、私も単なる情報だったらどうしよう、て思ったの」
佳代子「私は単に処理すべき情報の一つなんだろうか、上手くクリアすべき問題の一つなんだろうか、て、そんな風に考えたらたまんなくなったの」
 衛 「そういうの、彼には言ったの?」
佳代子「私は情報じゃないんだよ、て?もちろん、ペットでもなくって、人間なんだよって?バカみたいに見えても、ものを感じたり、考えたりしてるんだよ、て?」
佳代子「そんなことって、わざわざ口にしなくちゃいけないことなの?口にしたら終わりじゃない?そんな、尊敬されたいわけじゃなくって、尊重されたいだけなんだけど」
佳代子「でもそう口にするのって、それから一番遠いっていうか」
 衛 「そうなのかも知れない」
佳代子「だから、お兄ちゃんに会えてよかったよ」
佳代子「そういう人じゃなかったから。世界は情報じゃない、てちゃんと知ってる人だったから。思ってた通りの人だった。今一番会いたい人に会えた。だからすごく嬉しかった」
佳代子「がっかりとは程遠かった。今わかった」

世界は情報じゃない。
人口に膾炙しすぎた、「情報化社会」という言葉に抗うかのように、高らかにそう宣言する佳代子は、しかし正しい。我々は日々、人間を情報として処理すること/されることに慣れてしまっている。それは、顧客情報の登録であり、マイナンバーであり、さらにはSNSであり、LINEでのやりとりであり。コミュニケーションの様態すら”情報”に移り変わる中、頭の良い人はそうした時代の潮流に合わせて、人を情報として扱うことに慣れている。それは全く悪いことではなく、社会でうまくサバイブしていくためには必須の能力である。一方で、そうした扱いに直面した我々は時に戸惑い、時に恐怖する。そんな微妙な感覚を、これほどまでに的確に言語化した作品を、少なくとも僕は他に観たことがない。

第1部のラスト、20分近くのワンシーン・ワンショットがある。『親密さ』を観た者ならば誰でも深い感動を覚えざるをえないシーンである。
小屋入り直前、主演の三木が韓国と北朝鮮間の戦争に義勇軍として参加してしまう。令子は三木のいない公演を成立させるために、リョウ(2人は同棲中のカップルでもある)に許可を得ず脚本を改稿し、リョウは激昂して家を飛び出し、東横線に乗り込む。令子はリョウを追いかけて電車に乗り込み、2人は丸子橋で長い長い会話を交わす。
最初は押し黙りながらゆっくりと丸子橋を歩く2人だが、やがて、ぽつり、ぽつりと言葉が紡がれていく。そして会話は以下のように締めくくられる。

令子「そっか。私、バイト帰りにこの道帰るでしょ。今の時期はねえ、君の乗ってる始発がちょうど通る時ね、夜が明けて来るの。見えてんのかなあ。見てないなら見せたいな」
良平「見てない」
令子「夜明けが好き。夜も好きだけど。夜明けがあるから好き」
良平「そうか」
令子「何か大切なものが、受け渡されてる気がする」
良平「大切なものって」
令子「ん」
良平「何ですか?」
令子「……時間」
令子「君といる時間。いない時間」
良平「全部じゃん」
令子「よかった」
良平「ん」
令子「何か初めて質問された気がする」
良平「ええ?ええ?そう、そっか、ごめんな」
令子「ううん」

夜の暗闇の中で距離を取って歩く2人が、夜明けとともにいつの間にか手をつないでいる。令子の言葉をなぞるかのように、2人は会話によって大事なものを受け渡し合う。これほど美しいシーンを僕は他に知らない。「映画って、人生と同じくらいすごいかも」と思えた初めての瞬間だった。

この調子で、感銘を受けたシーンを連ねていくとキリがないので、最後に、劇中に何度も出てくる、「言葉」についての素敵な詩を引用したいと思う。

言葉は想像力を運ぶ電車です
日本中どこまでも想像力を運ぶ
『私たち』という路線図

一個の私は 想像力が乗り降りする
一つ一つの駅みたいなもので

どんな小さな駅にも止まる
各停みたいな言葉もあれば

仕事をしやすくしてくれる
急行みたいな言葉もあるし

わかる人にしかわからない
快速みたいな言葉もあって

一番言葉の集まる駅にしか止まらない
新幹線みたいな言葉もあります

地下の暗闇を走る言葉もあります
地下から地下へ受け渡される
よこしまな想像力たち

でも時折 地下から地上に顔を出して
ビルの谷間をくぐるとき 不意の太陽が
無理矢理たてじまに変えようとするから
想像力は眉をしかめたりします

ときどき 届くのが速いほど
言葉は便利な 大事なものに思えます
だけど ほんとうに大事なのは

想像力が降りるべき駅で降りること
次に乗り込むべき言葉に乗ること
ただそれだけです だから

ダイアグラムの都合から
ぎゅうぎゅう詰めの急行と
すっかすかの各停が
同じ時刻に出発して

ほんの一瞬 同じ速さで走るとき
急行の中の想像力がうらやましげに
各停をながめることもあるのです

2012年には
東京メトロ副都心線と
東急東横線がつながるみたいに

今まではつながれなかった
あれもこれもつながるんだろうか
そんなことを想像しています    

あれから、丸5年が経った。大学3年生だった僕は今映画の仕事をしている。
『親密さ』を観た5年前の自分に、5年後濱口監督はカンヌ国際映画祭のコンペティションに選出されるし、お前は濱口監督と仕事をしているよ、と言ってあげたい。
人間模様の美しさを切り取り、肯定してくれる監督に出会えて、一緒に素晴らしい作品を作るためのとば口に立てて、大げさではなく本当に生まれてよかった。

『親密さ』に出会った5年前とは比較にならないぐらい、映画を愛していると胸を張って言うことができる。

5年後、10年後もそうであれば良いなと思う。


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