濱口竜介監督の最新作、『寝ても覚めても』とはどのような映画か?

濱口竜介監督の最新作、『寝ても覚めても』とはどのような映画か?

おそらくこの問いに対しては、千差万別の答えがあるだろう。『寝ても覚めても』は、途方もなく多義的な、そして濃密な映画であるからだ。

僕はこの傑作を、まずこう定義したい。

『寝ても覚めても』は、省略の映画である。

僕が『寝ても覚めても』を観てまず素晴らしいと思ったのは、濱口映画の最も美しい部分が損なわれることなく、120分という尺に収まっていることだ。濱口監督のフィルモグラフィを見ると、近作の上映時間が非常に長いことに気がつく。2012年に東京を熱狂させた『親密さ』は255分、2015年に世界を熱狂させた『ハッピーアワー』は317分と、驚異的な長尺が近年の濱口映画の特色と言える。

この2作を見ると直ちに理解できるが、これほどの長尺が必要であったのは、まさしく、その時間が物語にとって必要な時間であったからだ。

濱口監督はこれまで、言葉によって物語を駆動させてきた。以前、僕は濱口監督にインタビューしたことがある(*1)。曰く、「書くことによってキャラクターを理解するという過程が僕の中にあるんです。こいつはどういうことを考えているのか、振る舞うのか、と書きながら考えていく。本来は、そこは削ってもいいのかも知れないけど、それを削ると階段を飛ばしたみたいになって、読んでいて理解ができなくなる。だから、なかなか削れないんですね。ただ、削らずに残したその過程が役者さんに転化されて、役者さんは言葉を読んでキャラクターを理解するところがあるんだな、ということは役者さんとのやり取りの中で感じました。言葉がたくさんあるってことが、僕にとっても役者さんにとっても拠り所となるという状況がずっとありました。

濱口映画の最も優れた部分は、登場人物が世界をあるがまま受け止め、世界に対しての思いを違和感なく、押し付けがましくなく吐露することである。言い換えるなら、登場人物が限りなく「世界に対しての誠実さ」を持ち合わせていることである。上記の通り、『ハッピーアワー』までの濱口監督は、言葉によってそのある種の「世界に対しての誠実さ」を担保していたように思う。

しかし、事態は『寝ても覚めても』において急変する。上映時間がそれまでの半分以下になることで、セリフ数が急激に少なくなりながらも、そうした「誠実さ」が損なわれてない(むしろ強固なものとなっている)のだ。

では、なぜそんな事態が可能となったのだろうか?

一つは、その説話の方法である。濱口監督は『寝ても覚めても』において、古典的ハリウッドの経済的な説話をかなり意識したのではないかと思う。

『復讐は俺に任せろ』(‘54監督:フリッツ・ラング)という映画がある。物語のあらすじは省略するが、警察を辞め、悪に一人で立ち向かうグレン・フォードの妻が、ダイナマイトの仕掛けられた車に乗って爆死してしまうシーンがある。明晰なラングは、間違っても車の爆発するシーンをスローモーションで写したりなどしない。そればかりか、妻が死んで悲しむグレン・フォードや、葬式のシーンさえ映さないのだ。車の爆発がオフナレで聞こえてきた直後に、警察署のシーンが繋がれ、グレン・フォードが復讐を決意したことがそれだけで理解できる。この大胆な省略によって、グレン・フォードの悲しみは全く損なわれないどころか、むしろ強固なものとなる。

これと同等の事態が、『寝ても覚めても』には見られる。

我々は、この映画において恋愛がテーマでありながら、恋愛についての描写が大胆に省略されていることに気がつく。

物語の冒頭、朝子と麦が爆竹の弾ける音が鳴る中、見つめ合う。このカットバックだけで、彼らが生涯忘れがたい恋に落ちたことが直ちに理解できる。物語を通した時に、このシーンの凄まじさが理解できる。濱口監督は、このわずか1分程度のシークエンスのみで、5年間付き合った亮平を裏切る朝子の心情を担保してしまったのだ。現代の一般的な説話においては、物語の根幹を成すこの「裏切り」に向け、もっと段階を踏んだ描写を行うだろう(なぜ、麦は朝子にとってそこまで魅力的なのか?二人の間の象徴的な思い出は?等々)濱口監督はそうした描写を一切カットした。しかしながら、先に記した冒頭シーンが脳裏に焼き付いている我々は、朝子の行動を自然と理解し、彼女の行動に惹き込まれてしまう。

朝子と亮平が再会するシーンも同様である。突然朝子に去られた亮平だったが、東日本大震災直後の避難中に二人は橋の上で劇的な再会を果たす。ここでも、濱口監督は「なぜ二人は再会できたか」「そもそもなぜ朝子は去っていったのか」「なぜ突然の再会で朝子は亮平を受け入れたのか」といった理由をつぶさには説明しない(ここで、先の朝子と麦との出会いのシーン同様、出会い→カットバック→足のカット→二人のショットというカット割りが行われていることに注目したい)。

こうした省略が、明らかに物語の力となっている。これは濱口竜介の今までの作品に見られなかった新たな力である。

しかし、ここで「なぜ、このような省略が可能になったか?」という問いが生まれる。もちろん、濱口監督の情報処理の正しさが大前提にあることは確かだ。しかし、僕には、どうにも別の力学が働いているような感覚がした。

そこで、この映画の2つ目の定義が立ち現れる。

『寝ても覚めても』は、顔の映画である。

濱口竜介が「顔」に固執してきたことは、彼の映画を観てきたものにとっては自明である。アメリカ・インディペンデント映画の父、ジョン・カサヴェテスの薫陶を受けた濱口監督は、『何食わぬ顔』('03)から顔のクローズ・アップによって人の感情の機微を描くことを得手としてきた。「東北三部作」(’11-13)において、語る人を正面から捉えるショットの力強さに気づいた濱口監督は、『ハッピーアワー』において劇映画でもその力強さが転用できることを証明した。これは、今後の劇映画における一つの指針と呼べる、素晴らしき達成であった。

『寝ても覚めても』は、その達成とはまた別の位相に移行したように思う。

『寝ても覚めても』は、明らかに「顔」のみが物語を駆動させている瞬間がある。すなわち、顔によって、登場人物が語らずとも、彼らの多義的な心情が直ちに了解できる、そんなただごとではない事態が生じている。

かつてのインタビューで、濱口監督はこうも語ってくれた。「身体による端的な表現は、映画の力になります。これは確かです。身体の所作一つで何かを理解したりさせたりすることが、映画の魅力として明らかにある。それができると、上映時間も飛躍的に短くなる気はしています。」

濱口監督は、本作において「顔」による端的な表現を実現した。まさしく上記の発言が示す通り、『寝ても覚めても』においては、顔一つで登場人物の心情が直ちに理解される。

最も印象的なシーンは、亮平を裏切って麦と車に乗った車中での朝子の顔であろう。「今、こうしたいからこうした」という彼女の生き方、価値観、あるいは世界観までがあの顔を見た瞬間に理解できてしまった。僕は、今までにあれほど説得力のある顔を観たことがなかった。

上記のシーンを筆頭に、『寝ても覚めても』において、朝子の顔の力強さは尋常ならざるものがある。旧友・岡崎の家において、病床に臥す岡崎を見て落涙する朝子に対して岡崎の母が「のぶ君(岡崎)は幸せねえ。こんな美人が、心配してくれて」という。それに対して「違うんです、私、こんな時も、自分のことばっかりで」と答える朝子の顔に、我々は『東京物語』('53 監督: 小津安二郎)の原節子を重ねずにはいられない。思えば、原節子も大変優れた「顔」の人であった。

先に述べた、「省略」を可能にしたのも、もちろんこの朝子の「顔」だ。

冒頭の出会いのシーン、茫洋ながら芯の通った目をして麦を見つめる、あの顔がその後の朝子の裏切りを担保している。そして、「今この顔さえあれば、ほとんどの事物は省略可能」という濱口監督の俳優への信頼が、この大胆な省略を可能にしているのだ。

濱口監督と俳優との幸福な出会い。それが『寝ても覚めても』を傑作たらしめた一番の要因だ。

兎にも角にも、『寝ても覚めても』は奇跡的な映画だ。傑作を次々と生み出してきた濱口竜介のキャリアベストと呼んで差し支えないと思う。ぜひ劇場に駆けつけていただき、その奇跡を目の当たりにしていただきたい。

ちなみに、同日公開された『きみの鳥はうたえる』(’18 監督: 三宅唱)も優れた「顔の映画」であるが、こちらは逆に「あらゆるものを省略しない」アプローチによって、素晴らしい映画に結実している。こちらもまた、傑物・三宅唱のキャリアベストと言って過言ではないだろう。

この2作が同日公開される、という近年稀に見る僥倖を得た日本映画は、蓮實重彦氏の言うように、「第3の黄金期」を迎えるかもしれない。(*2)


(*1)http://kenbunden.net/general/archives/4530

(*2)https://realsound.jp/movie/2018/08/post-234511.html


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