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【S04:STORY】演劇の道で出逢った二人が選ぶ、 音楽で『表現』を続ける人生

ギターの野村尚宏(のむら・たかひろ)とベースの南川千尋(みなみかわ・ちひろ)による男女弾き語りユニット、Shiny’s(シャイニーズ)。専門学校の演劇学科で同級生だった二人が、自己表現の手段を音楽に変え、ともに人生を歩み続けようと決断した背景に迫った。

『何者かになりたい』と、もがいていた

静岡県出身の野村尚宏は、母親の影響を強く受けて育った。社交的な彼女は地元で有名な存在だったため、野村は物心ついた頃からずっと「○○ちゃんの息子」と呼ばれていたという。「悔しかったですね。僕には尚宏という名前があるのに、って」。

中学生になった野村は、流行っていた『ボキャブラ天国』(※1992年~2008年までフジテレビ系列で放映されていたバラエティ番組)のお笑い芸人の真似をし、周囲の注目を集めることに喜びを見出した。同時期に児童劇団の旅公演を観劇したことも重なり、『演じる』ことの楽しさに夢中になった。

高校では演劇部へ所属して青春を謳歌し、大学でも当然のように演劇系のサークルへ入った。「自分は役者を極めていくんだ」と信じていた。

しかし1年生の秋、挫折を味わう。新人への指導方法が厳しすぎたことが引き金となって、公演が中止になってしまったのだ。

「正しいことを言っても人は傷つくし、正しいからって何をやってもいいわけじゃないと知りました」。野村自身も精神的に傷つき、引きこもりがちになってしまった。彼は大学を辞め、地元の一般企業へ就職した。

だが、社会人としてもくもくと働く日々に対して、違和感をぬぐうことはできなかった。「僕はこのまま人生を終えていいのか?」。自問自答を繰り返し、演劇への道を諦めきれていない自分に気づく。

一念発起した彼は高校時代の恩師の伝手を頼り、両親に頭を下げ、演劇の専門学校へ通うために上京を決めた。

『自分らしくいられる方法』を探していた

南川千尋は、福島県に生まれた。中学校と高校ではバレーボール部に所属し、演劇とはほぼ無縁の生活を送っていた。卒業後の進路を考え始めたとき、小学校の学芸会でのことを思い出したという。

普段は小心者ながらも、大舞台では目立ちたがりな性格だった彼女は、演劇の出し物で役者をしていた。

「すごく評判がよかったんです。勉強や運動では、周囲と比較されて負けたり、けなされたりすることが多かったんですが、演技は褒めてもらえました。自分自身が認められたという実感があって、嬉しかったんです」。

役者こそ、最も自分が自分らしくいられる職業かもしれない。そう考えた南川は、演劇を学ぶために東京の専門学校へ進学した。

入学式の翌日、南川は授業開始の一時間前に登校した。これからの学生生活への不安と期待で胸を膨らませていると、二番目に教室へ現れたのが、野村だった。

「彼の第一印象は…怖かったですね」と、南川は懐かしむ。「タオルを頭にまいて、見た目から『僕はできます!』って圧が凄かったです」。

野村は苦笑して当時の心境を語る。「クラスメイトは高校を出たばかりの人が多かったから。僕は年齢が上だし、ずっと演劇をやってきた自負があって『他の奴らとは気合の入り方が違うぞ』と、トンガってたんですよ」。

内気な二人のユニット結成

ただの同級生だった二人が急接近したのは、文化祭がきっかけだった。

「演劇以外の出し物をしたい」と考えた野村は、役のために学んだギターを生かして歌を歌おう、と決めた。ゆずが好きだったので、ユニットを組んでカバーしようと歌の上手い同級生に声をかけたものの、断られてしまった。

途方に暮れていたとき、ちょうど南川が通りかかった。歌うことが好きで、面白そうなものを見逃さない性格の彼女は、野村が持っていたギターに食いついた。

「よし、じゃあオーディションだ」と応じた野村は、その場でゆずの『いつか』を歌い、二人の歌声が見事にハモったことでユニット結成が決まった。2007年の秋のことだ。

「ユニット名の由来は、二人とも内気な性格なので、英語の『shy(シャイ)』に複数形のsをつけたことです」。南川の説明に、野村が付け加える。「それだけだとネガティブな印象が強いので、「光り輝く」という意味の『shiny(シャイ二―)』とのダブルミーニングにしています」。

しかし二人はまだ互いをよく知らず、音楽の好みは合わず、ジェネレーションギャップさえあった。曲目の選定に悩むなかで、野村は自分のオリジナル曲―現在もShiny'sの代表曲の一つである『ゴキブリ』を南川に聴かせた。「なんで隠してたの?いい曲じゃん、これやろうよ」という彼女の声で、オリジナルとカバーを織り交ぜたセットリストが決まった。

文化祭での演奏は好評を博し、手ごたえをつかんだ二人は、翌年の文化祭と卒業イベントでも演奏を行った。とはいえ、二人の夢は役者になることである。卒業後はそれぞれ劇団へ所属し、別々の道を歩き出す―…はずだった。

辿り着いた『答え』と、これから

劇団青年座の研究生となった野村だったが、すぐにプロの稽古や人間関係などの厳しさを痛感した。

「僕はここまで頑張れないな、と思いました。『役者をやるならこうでなければ』『このくらい頑張らなければ』と、自分で自分を縛ってしまった部分もありますね」。悩んだ結果、野村は劇団を辞めた。

「それでも、僕はまだ『表現』を続けたかった。どんな手段があるかと考えたら『Shiny's』しかなかった。早速、南川を口説きにかかりましたね」。

連絡を受けた南川は驚いたが、自身も所属する劇団朋友内での立ち位置や経済的な問題に悩み、役者としての将来に不安を抱いていた。彼女は、数か月悩んだが彼の熱意を感じ、再結成を承諾した。

「ただ、本格的に活動しようにも、どうしたらいいか分からなかったんです。何もかも手探りで始めました」と野村は語る。

カラオケのフリータイムを利用して、約8時間ひたすら二人で歌い続けるという荒行を、週2回行っていた時期がある。ライブハウスへ出演するようになり、ボーカル専門だった南川が未経験からベースに挑戦し、活動の幅を広げていった時期がある。音楽だけで食べていけるプロになろうと、がむしゃらに努力した時期もある。

しかし現在、野村は「手段と目的を履き違えていたな、と思います」と過去を振り返る。

「僕には表現したいものがある。だから音楽をやる。もちろん、多くの人が聴いてくれたら嬉しい。大きな舞台で歌えたら嬉しい。だけど、まずは自分自身と向き合って、良い曲を作って、良い演奏をできるようにしないといけない」。

南川も「今が一番、私らしいです」と言う。「これまでは背伸びしたり、装ったりしていました。『よく思われたい』『評判になりたい』という邪念が抜けて、等身大の自分で生きられるようになりました」。

これからの目標を聞くと、野村は「音楽を辞めない。それだけ決めてます」と笑った。南川には具体的なビジョンもある。「たとえば子どもができたら、しばらく私は動けないけど、野村に続けててもらおうかなって。お笑い芸人の『カンニング竹山』さんみたいに、『Shiny's野村』でライブに出たり。今の時代はYouTubeもSNSもあるし、どうにかしてShiny'sを続けていける方法を考えたいです」。

自分の居場所を探し求め、音楽という手段に辿り着いた二人は、今や人生のパートナーでもある。ともに未来を語り合う彼らの笑顔は、眩しかった。

text:Momiji photos:by Lin-ya Kanzaki casting&PR:Smitch

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