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他人の目を気にして生きている私たち

この動画が気持ちをゆさぶりました。
Facebook can be depressing because everyone else's lives are better than yours... But are they really?

https://www.youtube.com/watch?v=QxVZYiJKl1Y

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今何してるの?
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バカンスしてる
セレブなところで買物中
パンケーキたべてるの
こんな時間から飲んでまーす。

タイムラインにならぶ「羨ましい」と思える友達の行動。

そこに並ぶLIKEが「評価」と勘違いしてしまう。
羨ましく、同じでありたいと願う自分。
それをすべて「自身の課題」として捉えてしまう人間の心理(アドラー的に言えば)
他人から見られていると錯覚し、同じグループにいなきゃと思うことが強くなる。

LIKEが増えることを目的にスイッチが入り「偽りの自分」を投稿するようになる。
そして増えていくLIKE。
そのうち結界が壊れ「事実の中の闇」が覆い隠す。

汚い言葉、汚いことには人間は目を背ける。
SNSのフィルターで「非表示」「ブロック」が行われる。
そうなると、またタイムラインには「羨ましい」ものだけが並ぶということになる。

つまり因果応報。永久に脱出できないパラドックス。
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あなたが“目にしたい”と望んだ世界はFacebookにないんだよ。
いつもと同じ日常なだけ。
私は、そういう風に読みとりました。

SNSはすべてのことを可視化することができた。
データになった。それによって人間の活動は新たな社会への出発点に経ったといえる。
そんな学者ですら、これから起こることは予測できない。
まさか、LIKEを求めるために自分の子供を毒殺する親まででるなんて思ってもいなかった。
欲求はもっともっともっともっと と求め続けるもの。
そして常に自身には否定的でいるもの。
フロイトだろうがユングだろうが、アドラーだろうがカーネギーだってコヴィーであっても理解しようとすると深い深い穴に落っこちてしまう。

たとえばね、LIKEボタンにはたくさんの意味がある。たくさんあるということは、LIKEした側しか意味はわからないの。
それなのになんでか「都合よく考えて」しまうでしょ。
いいね!もあれば、良いなぁという思いもあれば、見たよもあれば、ボタンがあるから押したもある。
評価でもなんでもない。書くことも書かれることもそれは評価ではない。

人はイメージによって成り立っている。
他人のためにも自分のためにも生きている。
それはFacebookの中だけでなく、普通に生きているなかで起きていること。
評価が怖くて怖くて、自分をよく見てもらいたくてSNSだけでは大きく見せてしまう。
それが現実。

でも現実とのギャップで苦しむことになるよ。

公明正大に生きよう。

You can tell more about a person by what he says about others than you can by what others say about him.
人の評価は他人がその人についてどうこう言っているかより、その人自信が他人を何と言っているかに現れるもの。

オードリー・ヘップバーン

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