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予想のつかない面白さ。水曜どうでしょう藤村Dが明かす番組が面白い理由について

予想がつかない面白さ。水曜どうでしょう藤村Dが大学生にかく語りき の続きです

※先日おこなわれた北海道大学公共政策大学院の特別授業から主に質疑応答から抜粋し少し読み物的に私がリライトしました。

面白い番組づくりについて

最近のテレビ番組は予想ができるからつまらなくなってきたのだろう。水曜どうでしょうは予想ができない出ている人間も作ってる人間も予想できないんだから、見ている人も予想できるわけがない。旅に行ってそのあと頭から編集するんだけれども、俺も予想ができない。なので毎週毎週どうなるのかわからない。

どこかで面白くなる!のかもわからないまま「終了」で終わらせる時もある。あれは謝罪の終了です(笑)子供の頃の好奇心をそのまま残しているんだとおもう。

 最近は引っかかる表現をやりたがらない。おれはやる。アフリカの時は小型飛行機に乗った時に大泉に「ハイジャックしろよ」と促すシーンがある。だって、手を伸ばせば操縦できそうな距離なんだよ?触ってみたくなるよね。大人だから触らないけど、触ってみたいという気持ちは子ども心だろ?
ああいうシーン普通はNGになるだろ。社内でももしハイジャックが放送の近くにあったら放送できなくなるっていうんだよね。ハイジャックあるかなんて誰わかるんだろう。

その昔砂丘の砂をカブで運ぶシーンを放送した。のちにそれが国立公園の物を持ち出したことになってニュースになった。その後そのシーンは放送できなくなった。

誰がそういう法的なことをしっかりわかってるか。いちいち全部しらべたら問題は起きないのか。色々考えた。正直あれは嬉野先生と俺で刑務所はいって出てきて話をしようってくらい考えてたんだけど、結局法的にそこまで罪はなく行政と話して終わったんだけど。誰かが見つけて正義を言った先で盛り上がって仕方なく行政も動いたんだとおもう。積載量の問題もあったようだけど実際は演出だったし。

あの時は他局のニュースになったから、結局番組で説明はだした。しかし今後放送できなくなることをファンに謝罪する意味で行った。コンプライアンスが先に行くと面白いものなんか作れないよ。

著者による「ことばの分解」(わたしがおもったこと)

むかし嬉野さんと話したと思うんだけど、藤村さんや嬉野さんの「ことば」って力があるんですよね。なんだか「正しそう」ってなるよねって笑ってたら、嬉野さんは「私は寺院の息子だから昔から人がたくさん集まって話をしていた。きっとそういう話を聞くということが刷り込まれていたんだと思う。だからねいいことにはいいって言えるんです。」みたいな話をしていました。

ことばにある力 なんですが、最近SNSの「正義」が反響してませんか?。押し付けた正義というか、これが今のコンプライアンスなのかなぁともおもいます。きっと「正義のことば」は発しやすく音階も良いんだと思うんです。音階がいいと共鳴して次から次と反響するわけですよね。それが正義の炎上です。毎日正義の炎上でみてもいられないなぁと思ってるわけですが、そこにメディアというのも同じ感じに共鳴しちゃうもんでずっとループして本質忘れてるなぁっておもいます。

最近は「正義、正論」は言いやすい。というのを心に入れながらお話を組み立てるようにしています。


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